学院2年サラサ編 第七十七章 魔物討伐訓練③ 順調すぎた森の中
森の入口から一定の距離を進んだ頃、最初に姿を現したのはゴブリンだった。背の低い影が木々の間を駆け、甲高い声を上げながら飛び出してくる。その動きは速いが、訓練を積んだ二年生にとって脅威と呼ぶには弱い。
「来たな!」
ラティスが即座に前に出る。構えに迷いはない。放たれた上位魔術は正確で、無駄がなく、ゴブリンは反撃の隙も与えられず地面に崩れ落ちた。
「一体目」
ノエルが軽く肩を回しながら言う。彼女もすぐに詠唱を終え、横から現れた二体目を風刃で斬り裂いた。血飛沫が土に染み込み、森は再び静寂を取り戻す。
「この程度か」
ラティスは周囲を見渡しながら鼻で笑った。
「中位すら本気で使ってないわよ」
ノエルも余裕の表情を崩さない。
その後も、オークが一体、さらに小型の魔物が数体現れたが、いずれも同じ結果だった。ラティスとノエルが前に出て仕留め、サラサは周囲の索敵と全体の指示を担い、ディラドは後方で固唾を呑んで見守る。
戦闘は成立している。だが、苦戦はない。
「……順調すぎるわ」
サラサは小さく呟いた。
「何が?」
ラティスが振り向く。
「魔物の出現頻度が低いんです。本来なら、もっと間隔が短いはずです」
森は討伐訓練の場として選ばれている。完全な安全圏ではないが、教師が管理し、危険度はある程度把握されているはずの場所だ。それでも、これほど魔物が少ないのは不自然だった。
「俺たちが強いから逃げてるんじゃないのか?」
ラティスが冗談半分で言う。
「それなら楽でいいわね。魔物も賢いってことかしら」
ノエルが笑う。
二人の軽口に、ディラドは笑えなかった。手に汗をにじませながら、周囲を落ち着きなく見回している。
確かに、これまで出てきた魔物は弱い。だが、それは本来の森の姿なのか、それとも何かの前触れなのか。
風は弱い。木々は揺れない。鳥の鳴き声も、どこか遠い。
「警戒は解かないでください」
サラサはあくまで冷静だった。
「討伐訓練は“順調”で終わるとは限りません。魔物が少ないのなら、その理由があるはずです」
地面を観察する。踏み荒らされた跡はある。だが、新しい足跡が少ない。何かが、移動しているようにも見える。
「……移動?」
自分の推測を声に出すが、確信はない。
ラティスは剣を肩に担ぎながら言う。
「考えすぎだろ。こんな森、散歩と変わらない」
「そうね。これじゃ訓練って感じがしないわ」
ノエルも同調する。
その言葉に、サラサはわずかに眉を寄せた。
順調すぎる。
危険がないことは良いはずだ。だが、何も起こらないことが逆に不安を呼び起こす。魔物討伐訓練である以上、緊張と判断力を試される場面があるはずなのだ。
森は静まり返っている。あまりにも、静かすぎた。
しばらく歩いても、新たな魔物の姿は見えなかった。落ち葉を踏む音だけが森に響き、四人の足取りは自然と緩んでいく。
「なあ、本当にこの森で合ってるのか?」
ラティスが枝を払いながら言った。
「さっきから弱いのばっかりだし、その後は全然出てこない。これが魔物討伐訓練って、拍子抜けだな」
ノエルも同じように周囲を見回す。
「中位までしか使ってないのよ? 正直、まだ準備運動にもなってないわ。もっとこう、上位を思いきり叩き込める相手が出てきてもいいんじゃない?」
二人の声音には、緊張よりも物足りなさが滲んでいた。魔術を競う場に立てば力を見せたい。実力を証明したい。その気持ちは分からなくはない。
だが……。
「二人とも」
サラサは立ち止まり、振り返った。
「油断しないでください。魔物が少ないこと自体が異常かもしれません。突然強い個体が現れる可能性もあります」
言葉は穏やかだが、目は真剣だった。
「そんな都合よく出てくるか?」
ラティスは肩をすくめる。
「出てきたらその時はその時よ。私たち、そこまで弱くないわ」
ノエルは笑う。
ディラドはそのやり取りを黙って聞いていた。両手で杖を握りしめ、視線は落ち着かない。魔物が出ないなら出ないで、彼にとってはその方がありがたいはずなのに、なぜか胸のざわつきは消えなかった。
森は深くなっていく。
枝葉が重なり、光が細くなる。足元には苔が広がり、湿った空気がまとわりつく。
「……あれ」
サラサが前方を見つめた。
木々の隙間の向こうに、巨大な影が見える。森の中央にそびえる大木だ。幹は太く、枝は天を覆うように広がっている。
「もう中央付近ですね」
彼女は位置を確認し、冷静に言った。
「規則通り、ここで引き返しましょう」
訓練の目的は討伐であって、無謀な深入りではない。中央の大木付近は接近禁止。そこから先は教師の管理外とされている。
「えー、もう?」
ラティスが不満そうに言う。
「これで終わり? 魔物ほとんどいなかったぞ?」
「散歩と変わらないわね」
ノエルも同調し、くすりと笑った。
その笑いが、森の静けさに吸い込まれる。
サラサは小さく息を吐いた。
「訓練は魔物の数を競うものではありません。規律を守ることも評価の一つです」
言いながらも、胸の奥に引っかかるものがある。
静かすぎる。魔物が少ないのは偶然か。それとも……。
「……戻りましょう」
改めて告げ、四人は踵を返した。
四人が踵を返した、その直後だった。
背後から、ひやりとした空気が流れ込む。
「……?」
最初に違和感を覚えたのはディラドだった。肌にまとわりつくような湿気が、急に重くなる。
足元に、白いものが広がっていく。
霧だ。
最初は地面を這うように、低く薄く漂っていただけだった。それが数呼吸の間に濃度を増し、足首を包み、膝元へと這い上がる。
「霧……?」
ノエルが振り向く。
さっきまで見えていた木立の隙間が、もう白く霞んでいる。
ラティスが目を細める。
「急すぎないか?」
森で霧が出ること自体は珍しくない。だが、これは違う。風向きも変わっていないのに、霧だけが一方向から押し寄せるように流れ込んでくる。
数歩進むうちに、背後の景色は完全に消えた。
「入口、どっちだ?」
ラティスの声に、わずかな緊張が混じる。
サラサは周囲を見渡すが、視界は腕の先ほどしか利かない。木の幹の輪郭も曖昧になり、地形の起伏も分からなくなる。
「一度、止まりましょう」
彼女は冷静に言った。
「無闇に動くと、位置を見失います」
だが、立ち止まっても状況は好転しない。
左右も、前方も、すでに白一色だった。
ディラドの喉が鳴る。
「さ、さっきまで見えてた道が……」
ノエルが足元を確かめるように一歩動く。
その一歩で、森の輪郭が完全に消えた。
どちらが戻る方向だったのか、判別できない。
「これ……」
ラティスが低く呟く。
「まずくないか?」
サラサはすぐに答えない。霧の流れを観察しようとするが、一定の方向性がない。風に流される自然現象ではなく、包囲するように広がっている。
中央の大木も、もう見えない。
森の入口も、当然見えない。
四人は自然と互いに距離を詰め、固まる。
視界は悪いが、まだ互いの姿は確認できる。そのことだけが、唯一の安心材料だった。
だが……。森は、完全に様相を変えていた。静かすぎる。
さきほどまで聞こえていた虫の音も、風に揺れる枝葉の擦れも、すべて消えている。
霧の中に、四人だけが取り残されたかのようだった。




