学院2年サラサ編 第七十六章 セリナの職業試験⑥ 職業決定通知
実技試験を終えた後、学院の中庭にはどこか解放されたような空気が漂っていた。
緊張に張りつめていた時間が終わり、受験者たちはそれぞれ安堵と疲労を滲ませながら、友人と結果を語り合っている。だが、その笑い声の裏には、まだ確定していない未来への不安が確かに残っていた。
その中を、セリナがまっすぐ歩いてくるのが見えた。汗は拭っているが、まだ頬には熱が残っている。剣を振り抜いたあとの、あの独特の高揚感が少しだけ表情に残っていた。
「セリナ姉、試験大丈夫だった?」
俺がそう声をかけると、セリナは肩をすくめるように笑った。
「当たり前じゃない。どれだけ練習したと思ってるの」
その声は強気で、誇らしげだった。けれど、自慢というよりは、自分に言い聞かせるような響きも混じっている。努力してきた時間の重みを、自分自身で確かめているかのようだった。
「大魔術師ルーメンには、姉として絶対負けられないんだから」
冗談めかした言い方だが、その奥には本気がある。俺が魔術で名を上げていることを、セリナはいつも少し意識している。姉として、背中を見せ続けたい。その気持ちが、あの凄まじい稽古量を支えてきたのだろう。
「結果はいつ分かるの?」
「一週間後って言ってたわね」
一週間。たった七日間。だが、その七日は長い。試験が終わった今となっては、もう自分でどうこうできる時間ではない。ただ待つしかない。
セリナは腕を組み、ふっと息を吐いた。
「ま、やれることはやったわ。あとは向こうの判断次第よ」
その言葉に、焦りはない。強がりでもない。やり切った者だけが言える静かな確信があった。
俺は、そんな姉の横顔を見て、改めて思う。いつの間に、こんなにも頼もしくなったのだろう。剣を握り始めた頃は、まだ型に振り回されていたのに。父さんに叱られ、悔しさに歯を食いしばっていた姿が、昨日のことのように思い出される。
「セリナ姉の良い職業への合格を祈ってるよ」
そう言うと、セリナは一瞬だけ照れたように視線を逸らした。
「祈るだけじゃなくて、ちゃんと祝う準備もしときなさいよ?」
「もう祝う前提なんだ」
「当然でしょ」
そう言って、にやりと笑う。その笑顔は、試験前の張りつめたものではなく、いつもの姉の顔だった。
けれど、ほんのわずかに、その指先が落ち着きなく動いているのを俺は見逃さなかった。緊張していないわけがない。人生を左右する試験だ。どれだけ自信があっても、結果を見るまでは不安は消えない。
それでもセリナは、弱さを見せない。姉だから。家族の前では、誰よりも強く在ろうとする。
俺は心の中で、静かに祈った。
どうか、あの努力が報われますように。
あの汗と、あの踏み込みと、あの覚悟が、正しく評価されますように。
一週間後、全てが決まる。
その日まで、俺はただ姉の背中を信じて待つしかなかった。
一週間後、学院の講堂はこれまでにない緊張感に包まれていた。三年間を過ごしたこの場所で、最後に突きつけられる現実。笑って通い慣れた廊下も、今日だけはどこかよそよそしい。
壇上には大水晶が据えられ、その隣には整然と並べられた職業決定書。名を呼ばれた者は前に出て、それを受け取る。それだけの流れだ。だが、その一枚の紙が、これからの人生を大きく左右する。
講堂に入ることを許されているのは三年生のみ。後輩や家族は外で待つしかない。ここは、三年間をやり切った者たちだけが立てる場だった。
職業決定書に従う義務はない。だがそれは国家資格のようなもので、生涯通用する決定書だ。能力と資質を公式に認められた証であり、その肩書きは一生消えない。だからこそ、誰もが軽い気持ちでは受け取れない。
生徒たちは静まり返り、呼名を待つ。自分の番が近づくたびに、喉が渇く音さえ聞こえそうだった。呼ばれた者の足音が、やけに大きく響く。壇上へ上がる背中に、これまでの努力の重さがにじむ。
「次に、セリナ・プラム・ブロッサム」
その名が講堂に響いた瞬間、わずかに空気が揺れた。学年上位の実力者として知られる名だ。視線が自然と集まる。
セリナは静かに立ち上がり、「はい」と短く返事をした。その声は澄んでいて、震えていない。背筋を伸ばし、一歩一歩、壇上へと進む。三年間、剣を振り続けてきた者の歩き方だった。焦りも、迷いも見せない。
試験官から職業決定書を受け取る。両手で丁寧に受け、深く一礼する。その所作に無駄はない。だが、封をされたままの決定書が、やけに重く感じられた。
壇上を降り、自分の席へ戻る。周囲の視線を感じながらも、セリナは顔色を変えない。席に着き、ゆっくりと封を切る。
紙を開いた、その瞬間。
セリナの肩が、ほんのわずかに跳ねた。
「うそっ、えっ」
抑えきれず、小さな声が漏れる。だが講堂は厳粛な空気に包まれている。それ以上は言えない。すぐに口を閉ざし、呼吸を整え、視線を落としたまま決定書を見つめる。
驚き。戸惑い。だがそれは、絶望の色ではない。予想していた未来とは違う何かを突きつけられた者の表情。目の奥に、動揺と同時に、わずかな高揚が混じる。
セリナは決定書を静かに閉じ、膝の上に置いた。外から見れば、いつも通り冷静な優等生だ。だが、指先はわずかに力を込めている。紙を握るその指が、これまでの努力を思い出しているかのようだった。
式はそのまま進行する。次々と名前が呼ばれ、決定書が渡される。歓喜をこらえる者、肩を落とす者、無表情を貫く者。三年間の積み重ねが、一枚の紙に集約される。
やがて全員分が配られ、式は終了した。
静寂が解かれた瞬間、講堂は一気にざわめきに包まれる。抑えていた声が溢れ出す。喜びの声、驚きの声、悔しさをにじませる声。友人同士で結果を見せ合い、肩を叩き合う者もいる。
セリナも、友人たちに囲まれていた。何かを言われ、決定書を見せ、驚きと興奮が混じった顔で応えている。その表情は、さきほどの一瞬の動揺とは違う。戸惑いを越えた先にある確信の光が、確かに宿っていた。
まだ、その内容は口にされない。
だが、その紙に書かれた文字は、セリナのこれまでを肯定するものであることだけは、誰の目にも明らかだった。
講堂の外は、春の陽射しがやわらかく降り注いでいた。厳粛な式が終わった直後とは思えないほど、空は穏やかで、風も静かだ。
しかし扉が開くたびに流れ出てくる三年生たちの空気は、それとは対照的だった。歓声、安堵、涙ぐむ声、悔しさを滲ませた沈黙。三年間の重みが、それぞれの顔に浮かんでいる。
講堂の中で何が起きたのか、俺には分からない。ただ、結果はもう出ている。その事実だけが胸をざわつかせていた。隣でエアリスも落ち着かない様子で人波を目で追っている。
「……いた」
エアリスが小さく呟いた。
人の流れの中に、見慣れた後ろ姿があった。背筋を伸ばし、決定書を胸に抱えたセリナ姉。歩き方はいつも通りだが、その足取りにはわずかな高揚が混じっているように見える。
やがて視線が合った。
セリナ姉は俺たちを見つけると、まっすぐこちらへ歩いてきた。周囲の友人たちに何か言われながらも、最後は俺たちの前で立ち止まる。
「お疲れ様、セリナ姉。どうだった?」
俺がそう声をかけると、セリナ姉は少しだけ顎を上げた。
「私を誰だと思ってるの?」
その一言に、自然と笑いがこみ上げる。いつもの姉だ。その声音に不安はない。
「見てみなさい」
そう言って、職業決定書をこちらに差し出す。俺は息を呑みながら、そこに記された文字を追った。
「……えっ」
思わず声が漏れる。
「近衛兵……?」
自分でも驚くほど、声が裏返った。本命として挙げていた職ではない。もっと堅実に、現実的に選んでいたはずの道ではない。だがそこに刻まれているのは、それよりもはるかに高い位置の名だった。
「そうよ、近衛兵よ」
セリナ姉は、誇らしげに言う。
「私も最初見た時、びっくりしたけどね。でも……これが私の実力ってことみたい」
その言葉には、迷いがない。講堂の中で封を開けた瞬間は、きっと驚いたのだろう。だが今は違う。結果を受け止め、自分の歩いてきた三年間と重ね合わせている顔だ。
「すごいよ、セリナ姉……本当にすごい」
言葉が自然に溢れる。誇張でもお世辞でもない。本心だった。
「努力したかいがあったね。父さんも母さんも、きっと泣いて喜ぶよ」
セリナ姉は一瞬だけ視線を落とし、それから小さく笑った。
「そうね。……努力が報われたのよ」
三年間の稽古の日々が脳裏をよぎる。教師を捕まえては相手を頼み込み、腕が震えても剣を振り続けていた姿。父さんを呼び寄せてまで自分を追い込んだ時間。そのすべてが、この一枚の決定書に結実している。
「大魔術師ルーメンには、姉として絶対負けられないんだから」
以前、そう言っていた顔を思い出す。半分は冗談だったかもしれない。だが残り半分は、本気だったのだろう。弟に負けない姉であること。それはセリナ姉にとって、譲れない誇りだ。
エアリスも決定書を覗き込み、目を丸くした。
「……すごい。ほんとにすごいよ、セリナさん」
素直な感嘆だった。
セリナ姉は照れくさそうに肩をすくめる。
「まだ始まりよ。これからが本番なんだから」
浮かれた様子はない。むしろ、覚悟がにじんでいる。近衛兵という肩書きは栄誉だが、それは同時に、より重い責任を背負うことを意味している。
俺は改めて思い知らされた。
やっぱり、セリナ姉はすごい。
努力を積み重ね、結果を掴み取り、それを誇るだけで終わらせず、すぐに次を見据える。その背中は、もう学院生のものではない。
三年間の集大成が、一枚の紙に刻まれている。
そしてその文字は、確かにセリナ・プラム・ブロッサムという名にふさわしいものだった。




