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学院1年セリナ編 第七十五章 リリィとの同棲生活⑥ 今夜はこれくらい

リリィ先生は、そのまま何事もなかったかのように背を向けた。

バスタオル姿のまま、ゆっくりと自分の部屋の方へ歩いていく。

その後ろ姿を、俺は見送ることしかできなかった。

足音が、研究室の奥へと遠ざかっていく。


扉が開き、静かに閉まる音がした。

……がちゃり。

その音は、ただの生活音のはずなのに、妙に重く胸に残った。

俺は、無意識のうちに、自分の部屋の扉へと視線を向けていた。

同じ造りの鍵。同じ仕組み。

リリィ先生の部屋と、俺の部屋。

違うのは……今、どちらの扉が“開けられる側”なのかだけだ。


……今夜は、これくらい。

その言葉が、頭の中で何度も反芻される。

“今夜は”。

それは、今後も同じ屋根の下で夜を迎えることを、当然の前提として語られた言葉だった。

俺は、ゆっくりと息を吐く。

胸の奥に残るのは、安心と、緊張と、そして……はっきりとした自覚。

ここはもう、研究室ではない。

通う場所でも、一時的に滞在する場所でもない。

帰る場所であり、共に暮らす場所だ。

俺は、自分の部屋に入り、扉を閉める。

鍵をかける音が、やけに大きく響いた。


「……鍵、勉強しておかないとな」

思わず、独り言が漏れる。

それは、防ぐためでも、侵すためでもない。

ただ、いつか、対等に向き合うための準備だった。

ベッドに腰を下ろし、天井を見上げる。

静かな夜。すぐ隣の部屋には、確かにリリィ先生がいる。

同じ屋根の下。同じ時間。

それだけで、心臓の鼓動が、少し速くなる。

同棲生活は、本当に、始まったばかりだ。

けれど。今夜は、これくらい。

……その“これくらい”の先が、いつか必ず来ることだけは、もう、疑いようがなかった。



扉が閉まったあと、リリィは自室の中で、しばらくその場に立ち尽くしていた。

胸の奥が、わずかに熱を帯びている。

……少し、やりすぎましたね。

自嘲するように、心の中でそう呟く。

けれど、後悔はなかった。


バスタオル一枚で出ていった理由は、衝動ではない。

計算でもあるが、それ以上に……確かめたかったのだ。

ルーメンが、目を逸らすのか。冗談で流すのか。それとも、逃げるのか。

(……逃げませんでした)


視線は揺れていた。呼吸も、はっきりと乱れていた。

それでも、背を向けなかった。

軽く扱わなかった。

「……それで、十分です」

小さく息を吐き、バスタオルを握る指に力が入る。

石化病の恐怖が残る右腕に、まだ、かすかな違和感がある。


けれど、それ以上に……ルーメンの魔力に触れていたい、あの温度を感じていたいという気持ちが、確かにそこにあった。

それは、保護欲でも、依存でもない。

恋心だ。

同じ屋根の下で暮らすことを選んだのは、研究の都合だけではない。

教師としての責任だけでもない。

「……好きですよ、ルーメン」

誰にも聞こえない声で、そう口にしてみる。

まだ、伝えるつもりはない。

急がせる気も、追い詰める気もない。


けれど……今夜は、これくらい。

そう言った自分の言葉が、彼の胸に引っかかったことも、ちゃんと分かっている。

(それでいいのです)

恋は、少しずつ、生活の中に溶けていけばいい。

同じ食卓で。同じ夜の気配の中で。

リリィはそっと照明を落とし、静かな微笑を浮かべた。

同棲生活は、まだ始まったばかりなのだから。


夜が更け、研究室全体が静まり返った頃。

リリィは机に向かいながらも、書類の文字を、ほとんど追えていなかった。

意識は、自然と……隣の部屋にいるルーメンへと向かってしまう。

(……眠れていますか、ルーメン)

同じ屋根の下にいる。それだけの事実が、思った以上に重い。

教師としての立場。年齢差。責任。


それらは、最初から分かっていた。

だからこそ、同棲という選択をする前に、何度も、自分に問い直した。

……逃げではないか。

……甘えではないか。

……彼の未来を縛ることにならないか。

それでも。最終的に、選んだ。

「……私は、大人ですから」

さきほど口にしたその言葉は、彼を試すためだけのものではない。

自分自身への宣言でもあった。


好意を抱くだけなら、簡単だ。守るだけなら、教師のままでいられる。

けれど、生活を共にし、同じ時間を積み重ね、彼の成長と選択を見届ける覚悟を持つなら……

中途半端な距離は、許されない。

(……だからこそ、引き返せない位置に立ちました)


バスタオル一枚で出ていったのは、誘惑のためだけではない。

自分が、「守る側」だけに逃げないため。

女性として見られる覚悟を、先に引き受けるためだった。

もし、彼が目を逸らし、軽く笑って流していたなら……

そこで、一線を引くつもりだった。

だが、ルーメンは違った。

怯えながらも、戸惑いながらも、その場から逃げなかった。

(……本当に、不器用ですね)

けれど、その不器用さこそが、彼の誠実さなのだと、リリィは知っている。


「今夜は、これくらい」

そう言ったとき、彼の心が一瞬引っかかったことも、ちゃんと伝わってきた。

踏み込まれなかった安堵と、踏み込まれなかった寂しさ。

その両方を、抱えている顔だった。

(……ええ、それでいいのです)

恋は、急がせるものではない。

けれど、曖昧に濁すものでもない。

同棲生活は、彼に選択肢を与え続ける。

同時に、自分自身にも、問い続ける。

教師として。一人の女性として。

どちらも捨てないと、リリィは決めていた。

机の上のランプを消し、静かに立ち上がる。

扉の向こうに気配を感じながら、小さく微笑んだ。

(……おはよう、と言える明日を)

その明日を、彼と迎える覚悟は……もう、とっくにできているのだから。


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