学院1年セリナ編 第七十五章 リリィとの同棲生活⑤ 掟と覚悟
沈黙が、少しだけ長く続いた。
気まずさではない。
むしろ、言葉にしてしまえば壊れてしまう、張りつめた間。
リリィ先生は、俺の横に腰を下ろしたまま、ゆっくりと息を整え……そして、バスタオル一枚のまま、ほんのわずか距離を詰めてきた。
顔が近い。視線を落とせば、胸元も、自然と視界に入ってしまう距離。
意図していないはずがない近さに、俺は反射的に呼吸を浅くする。
「……ルーメン」
低く、近い声。
名前を呼ばれ、俺は無意識に背筋を伸ばした。
「先に、はっきり伝えておきます」
視線を逸らさない。逃がさない距離で、言葉が落とされる。
「これは、冗談ではありません」
胸が、強く打たれた。
「エルフの血を引く者には……裸を見てしまった人は、生涯を共にしなければならない、そう定められた掟があります」
淡々とした口調だった。
けれど、距離が近すぎて、言葉の一つひとつが、直接胸に届く。
「それは、恋だとか、好意だとか、そういう感情とは関係ありません」
「“見た”という事実そのものが、人生を共有する覚悟を問う行為になる」
俺は、息を呑んだ。
「一度、その掟に触れてしまえば」
声が、静かに、しかし確実に重くなる。
「見た側は、退くことを許されません」
「関係を曖昧にしたり、都合のいい距離に戻ったりすることは、できない」
逃げ道は、最初から存在していなかった。
「掟を破った場合、責を負うのは……見た側です」
「見られた側ではありません」
その言葉が、胸の奥に沈む。
リリィ先生は、さらにほんのわずか、顔を近づける。
視線が合う。逃げ場のない距離。
「だから、問います」
低く、確かな声。
「ルーメン。あなたは、この掟を知った上で、ここにいますか?」
「同じ屋根の下で暮らすという選択を、軽い覚悟で済ませることは、許されません」
俺は、喉を鳴らした。
逃げる言葉も、誤魔化す余地もない。
「……覚悟が、決まっていないことは分かっています」
そう前置きされても、退路は示されない。
「ですが、“逃げない”という選択は、もう終えていますね」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
それだけしか、言えなかった。
「よろしい」
その一言で、場の空気が確定する。
リリィ先生は、ようやく少しだけ距離を戻した。
「今夜は、これ以上踏み込みません」
だが、それは猶予であって、免除ではない。
「ですが……同棲生活が始まった以上、この掟は、常にあなたの足元にあります」
静かな宣告だった。
「忘れないでください、ルーメン」
「あなたはもう、“戻れる場所”を選ばなかったのですから」
胸の奥が、熱を帯びる。
甘さと同時に、取り返しのつかなさが、確かにそこにあった。
張りつめていた空気が、ほんのわずかに、ほどけた。
リリィ先生は、俺の前から一歩だけ距離を取り、バスタオルの端を軽く整えながら、息を吐く。
「……ふふ」
小さな、けれど確かな笑み。
「そんなに、真剣な顔をしなくても大丈夫ですよ、ルーメン」
その声色が、ほんの少し柔らかくなる。
俺は、言葉を探して口を開きかけ……けれど、何を言えばいいのか分からず、閉じた。
すると、リリィ先生は、俺の沈黙を責めることもなく、静かに続ける。
「先ほどの話……」
「“掟”という言い方は、少し強すぎましたね」
胸の奥が、わずかに緩む。
「誤解しないでください。本当に処罰されるような、絶対の禁忌、というわけではありません」
そう言いながらも、視線は逸らさない。
「ですが……」
声が、再び落ち着いた低さに戻る。
「軽く扱ってほしくなかった、というのは本心です」
俺は、息を吸う。
「……試した、ということですか?」
恐る恐るそう聞くと、リリィ先生は、少しだけ困ったように笑った。
「ええ。正直に言えば」
そして、はっきりと。
「私は、大人ですから」
その言葉には、自嘲も、誇示もなかった。
「ルーメンが、どこまで誠実なのか。どこで逃げてしまうのか」
「それを、確かめたかった」
静かな告白だった。
俺は、視線を落とす。
「……すみません。正直、さっきは、頭が真っ白でした」
すると、リリィ先生は小さく首を振る。
「それでいいのです」
優しく、しかし逃がさない声。
「軽口で流されたり、冗談として受け止められるよりも……」
一歩だけ、近づく。ただ、さっきほどではない。
「真剣に悩んでくれる方が、ずっと安心できます」
俺は、ようやく顔を上げた。
リリィ先生は、からかうような微笑ではなく、落ち着いた、大人の微笑みを浮かべている。
「今夜は、これくらいにしておきましょう」
そう言って、視線を外す。
「これ以上は……さすがに、いじめすぎですから」
その言葉に、少しだけ、冗談めいた響きが戻る。
俺は、ほっと息を吐いた。
「……助かります」
正直な言葉だった。
……けれど。
胸の奥で、小さく、確かに何かが引っかかった。
“今夜は”。
それは、続きがあることを前提にした距離の取り方のようにも聞こえた。
「ふふ」
リリィ先生は、くすりと笑う。
「ですが、覚えておいてくださいね、ルーメン」
最後に、もう一度だけ、こちらを見る。
「私は、あなたを“子供扱い”しているつもりはありません」
その一言が、胸の奥に、静かに沈んだ。
からかわれたわけでもない。拒まれたわけでもない。
ただ……試され、受け止められた。
同棲生活は、始まったばかりだ。
けれど、この夜だけで。
俺は、「今夜は、これくらい」の先にある時間を、否応なく意識してしまっていた。




