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学院1年セリナ編 第七十五章 リリィとの同棲生活④ いずれは避けられませんから

食後の余韻がまだ残る中、リリィ先生がふと壁の時計に目を向けた。

「……少し時間がかかりそうですね」

そう言ってから、こちらを振り返る。

「ルーメン、お風呂のお湯をお願いしてもいいですか?」

その一言に、俺は一瞬だけ目を瞬かせた。

頼まれる、という行為そのものが新鮮だった。

守られる側にいることの多かった日々の中で、生活の一部を任せてもらえることが、思いのほか胸に残る。

「はい。任せてください」

浴室に向かいながら、俺は魔力を整えた。


ウォーターボールを展開し、ファイヤーボールで適温まで温め、浴槽へと一気に流し込む。

湯気が立ち上り、浴室がほのかに白く曇る。

……うまくいった。

学院での研究や訓練とは違う。これは、生活のための魔術だ。

誰かの役に立つための、誰かと暮らすための魔術。

浴室から出ると、リリィ先生が待っていた。

「もう、できましたか?」

「はい。ちょうどいい温度だと思います」

覗き込み、湯気に包まれた浴槽を確認したリリィ先生は、少し驚いたように目を細めた。

「……本当に、頼もしくなりましたね」

その声には、研究者の評価ではない、生活を共にする相手への、素直な感嘆が滲んでいた。

「ルーメンがいてくれると、こういうことも安心して任せられます」

その言葉が、胸に静かに落ちる。

初めてだった。研究の成果でも、戦闘の結果でもなく。

“一緒に暮らす中で役に立てた”そう実感できたのは。


「では……」

リリィ先生は、柔らかく微笑む。

「ルーメンが準備してくれたお湯ですし、先に入ってください」

「え? でも……」

「遠慮はいりません。これは、同棲生活の最初のルールです」

冗談めかした口調だったが、どこか本気も混じっていた。

俺は頷き、浴室へ向かう。

湯に浸かりながら、思う。

……守るだけじゃない。

……守られるだけでもない。

同じ生活の中で、小さな役割を分け合っていく。

それが、リリィ先生との同棲生活の、確かな始まりだった。


風呂から上がり、軽く体を拭いて居間へ戻ると、室内には静かな時間が流れていた。

食卓には片付けられた食器。卓上には読みかけの魔術書。

生活の匂いが、少しずつ、この場所に根を下ろし始めている。

俺は椅子に腰を下ろし、ページをめくりながら、頭を切り替えようとしていた。


その時だった。背後から、かすかな足音がする。

振り返るより早く、空気が変わったのが分かった。

湿り気を含んだ、柔らかな香り。

湯上がり特有の、温度を帯びた気配。

思わず視線を向けて……次の瞬間、息が止まった。


そこに立っていたのは、バスタオルを一枚だけ体に巻いたリリィ先生だった。

青い髪は、まだ少し湿っていて、肩口から水滴が、ゆっくりと滑り落ちていく。

白い素肌。

隠されているはずの輪郭が、隠されていないことを、はっきりと主張していた。

「……っ」

反射的に視線を逸らす。

逸らした……はずだった。

けれど、ほんの一瞬でも見てしまえば、十分すぎた。


「……ルーメン」

落ち着いた声。

責めるでもなく、からかうでもなく。

ただ、事実を確かめるように。

「今、見ましたよね?」

逃げ場はなかった。沈黙が、肯定になってしまうことも分かっていた。

「……はい」

正直に答えるしかなかった。

すると、リリィ先生は少しだけ目を細め、ふっと微笑った。

「やっぱり」

その反応に、動揺が増す。

慌てて言い訳を探そうとしたが、言葉が追いつかない。

「ご、ごめんなさい。すぐに目を逸らしましたし、わざとじゃ……」

「分かっています」

遮るように、しかし柔らかく。

「責めているわけではありません」

そう言って、リリィ先生は一歩、こちらに近づいた。

バスタオルの擦れる音が、やけに大きく聞こえる。

「それに……」

声が、少し低くなる。

「見られることを、分かっていて出てきましたから」

胸が、どくりと鳴った。

無防備だったのではない。不用意だったのでもない。

……意図して、そうしている。

その事実が、エアリスとはまったく違う種類の緊張を生んでいた。

大人の余裕。そして、自覚的な大胆さ。

リリィ先生は、そのどちらも隠そうとしなかった。


「同じ屋根の下で暮らす、というのは」

一歩、また一歩。

距離が、確実に縮まる。

「こういう場面も、いずれは避けられませんから」

試すような視線。

逃げることも、押し返すこともできず、俺はただ、その場に立ち尽くしていた。

……これは事故じゃない。

そう、はっきりと理解していた。

これは、リリィ先生が“選んだ距離”だった。


リリィ先生は、俺が一歩も動けないことを、当然のように理解していた。

焦り。動揺。それらが顔や呼吸に出ていることも、きっと。

「そんなに固まらなくても大丈夫ですよ、ルーメン」

そう言いながら、さらに一歩、距離を詰めてくる。

視界の端に、青い髪。鼻先に届く、湯上がりの香り。

石鹸と、彼女自身の匂いが混じった、落ち着くのに、落ち着かない香りだった。

思わず息を詰める。

バスタオル一枚という事実が、視覚だけでなく、空気そのものに重さを持たせていた。


リリィ先生は、俺の反応を確かめるように、ほんの少し首を傾ける。

「そんな顔をされると……」

一瞬、言葉を選ぶように間を置き、

「私のほうが、悪いことをしているみたいですね」

声には、からかいと、ほんの少しの慈しみが混じっていた。

そう言って、リリィ先生は俺のすぐ横に腰を下ろす。

距離は、もう肩が触れるほど。いや、触れていた。

布越しではなく、はっきりと伝わる体温。

「生活を共にする、というのは」

低く、落ち着いた声が、耳元で響く。

「安心することでもあり、同時に……意識せざるを得なくなる、ということでもあります」

逃げ場はなかった。

立ち上がろうにも、この距離では不自然すぎる。

視線を逸らしても、存在そのものが、すぐ隣にある。

「……怖いですか?」

そう聞かれて、答えられなかった。

怖い、とは違う。

けれど、落ち着かないのは確かだった。

「いいんですよ」

答えを待たずに、リリィ先生は続ける。

「今は、それで」

からかうようでいて、どこか優しい声。

「ルーメンが、まだ追いついていないことも、ちゃんと分かっていますから」

その言葉に、胸の奥が、少しだけ軽くなる。

理解されている。置き去りにされていない。

けれど同時に、この人は、確実に一歩先に立っている。


「ただ……」

リリィ先生は、ほんのわずかに距離を詰め直す。

「逃げないでくれるのは、嬉しいです」

その一言が、何よりも強かった。

俺は、何も言えず、ただ小さく頷く。

同棲生活は、始まったばかりなのに。

もう、こんなにも近い。

甘さと、危うさが、同じ空間に、確かに存在していた。


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