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学院1年セリナ編 第七十五章 リリィとの同棲生活③ リリィの手料理

研究室の扉を閉めると、外の気配がすっと切り離された。

買い物袋を台に置き、靴を揃える。その一連の動作が、もう“帰宅”のそれになっていることに、遅れて気づく。

「……不思議ですね」

リリィ先生が、そう呟いた。

「研究室なのに、ちゃんと家の匂いがします」


そう言って、キッチンを一望する。

作業台、棚、食器、火口。どれも実用的で、どれも“使われる前提”で整えられていた。

「一人で来ると、ただの作業になりますけど」

買い物袋を一つ開けながら、続ける。

「二人だと、選ぶ時間も、運ぶ時間も……全部が残りますね」

俺は頷いた。

「話しながら選ぶの、楽しかったです。何を作るか考えるのも……」

「でしょう?」


振り返ったリリィ先生の笑みは、どこか満足そうだった。

「これは、私にとって大切な予行演習なのです」

軽い調子で言うが、言葉の選び方は慎重だった。

「……予行演習、ですか?」

「ええ」

一瞬だけ、視線が重なる。

「生活を共にする、ということの」

そのまま目を逸らし、棚に食材を並べ始める。


「失敗も含めて、慣れていくための。ルーメンは、気にしないでください」

気にしないで、と言われるほど、気になってしまう。

だが、それを指摘するのは、今は違う気がした。

「……はい」

短く返すと、リリィ先生は満足そうに頷いた。

「それでいいのです。急がなくていい。逃げなくていい。ここは、帰る場所、なのですから」

その一言が、胸に静かに落ちた。

研究室。新居。そして、二人で暮らす場所。

まだ何も始まっていない。けれど、もう戻れないところまで来ている。

予行演習……その言葉の意味を、俺は少しだけ理解し始めていた。


その夜、キッチンに立ったのはリリィ先生だった。

白いエプロンを身につけ、作業台の前に立つ姿は、研究室で魔術式を組み立てているときとは、まるで雰囲気が違う。

どこか柔らかく、穏やかで……そして、少しだけ緊張しているようにも見えた。

「……実はですね」

棚から一枚の紙束を取り出し、こちらに見せる。

「ルーメンのお母様からいただいた、料理のレシピです」

見覚えのある文字だった。

母がよく使っていた、少し丸みのある筆跡。

「無理に完璧に再現しようとは思っていません。でも……せっかく一緒に暮らすのですから」

そこで、ほんの一瞬だけ言葉を選ぶ。

「口にするものくらいは、安心できるものを出したいと思いまして」

その言い方に、胸がじんわりと温かくなる。

「ありがとうございます。でも、無理しなくていいですよ。リリィ先生の負担になるなら……」

そう言いかけたところで、リリィ先生は首を振った。

「いいえ。これは、私がしたいことです」

包丁を手に取り、静かに続ける。

「研究でも、魔術でもなく。生活の一部として、ルーメンを迎え入れる行為です」

その言葉には、迷いがなかった。


火口に火を入れ、鍋を温める。野菜を切る音が、規則正しく響く。

だが……最初から、すべてがうまくいったわけではない。

「……あ」

焦げた匂いが、わずかに立ち上った。

「す、すみません。火加減を誤りましたね」

慌てて鍋をずらすリリィ先生に、思わず笑みがこぼれる。

「大丈夫です。こういうの、慣れていけばいいと思います」

「……そう、ですね」

少し照れたように微笑み、再び鍋に向き直る。

焼きすぎたもの。少し生焼けのままのもの。

それでも、食卓に並んだ皿は、どれも温かかった。


「ルーメン、味はいかがですか?」

不安を隠しきれない声。

俺は一口食べ、正直に答える。

「……美味しいです。すごく」

その瞬間、リリィ先生の肩から、ふっと力が抜けた。

「そう言ってもらえると、救われますね」

皿を見つめながら、小さく息を吐く。

「料理は、研究と違って……結果がすぐ出ますから。少し、怖かったのです」

怖い、と言いながらも、その表情は穏やかだった。

「でも、失敗も含めて、続けていけばいい。そう思える相手がいるのは……悪くありません」

その夜の食卓は、豪華でも特別でもなかった。

けれど、間違いなく……“二人の生活”の最初の食事だった。



食事を終え、皿を下げたあとも、リリィ先生はなかなか席を立たなかった。

向かいに座ったまま、俺の表情をじっと観察している。

研究対象を見るときの視線とは違う、どこか慎重で、柔らかい眼差しだった。


「……ルーメン」

「はい?」

「本当に、遠慮していませんか?」

そう言われて、少しだけ言葉に詰まる。

「いえ、遠慮というか……。作ってもらえるだけで、十分すぎるくらいで」

すると、リリィ先生は小さく息を吐いた。

「それが、少し困るのです」

困る、という言葉とは裏腹に、声は穏やかだった。

「同じ屋根の下で暮らすのですから、“我慢される”関係にはなりたくありません」

椅子に深く腰掛け直し、指を組む。

「好きな味、苦手な食材、量の加減。そういう細かいことを知るのは、信頼の一部だと思うのです」

研究者らしい言い回しだったが、言っていることはとても生活的だった。

「……なるほど」

「はい。ですから」

少しだけ身を乗り出し、にこりと微笑む。

「要望があれば、何でも言ってください。ルーメン好みに、近づけたいのです」

その言葉に、胸の奥がくすぐったくなる。


「じゃあ……」

少し考えてから、正直に答える。

「もう少しだけ、塩は控えめでもいいかもしれません。でも、全体の味は好きです」

一瞬、リリィ先生の目が見開かれ、次いで嬉しそうに細められた。

「……貴重なデータですね」

そう言いながら、どこか楽しそうだ。

「次は、その点を調整してみましょう。記録しておきます」

冗談めかした口調だったが、ノートに何かを書き留める仕草は本気だった。

「ありがとうございます。こうして言ってもらえると、作り甲斐がありますね」

その言葉に、俺の方が慌てる。

「いえ、こちらこそ。リリィ先生の料理、好きですよ」

その一言で、リリィ先生の動きが止まった。

ペンを置き、こちらを見る。

「……それは、光栄です」

少しだけ、声が低くなった。

「味だけでなく、気持ちごと受け取ってもらえるのは……大人として、とても嬉しいものですね」

食後の静かな時間。湯気の消えた皿の向こうで、二人の距離は、確かに少しだけ縮んでいた。


それから数日後のことだった。

その日の夕食は、見た目だけなら完璧だった。

湯気の立ち方も、盛り付けも、色合いも申し分ない。

……なのに。

一口、口に運んだ瞬間。

(……あ)

思わず表情が固まる。

甘い。いや、正確には―……砂糖と塩を、完全に取り違えた味だった。

咀嚼しながら、どう反応するべきかを必死に考える。

正直に言うべきか。黙って飲み込むべきか。


俺が迷っている間に、リリィ先生がこちらを見た。

「……ルーメン?」

視線が、やけに鋭い。

「その顔は……失敗、ですね?」

逃げ場はなかった。

「い、いえ、その……」

言いかけたところで、リリィ先生自身も一口食べ、すぐに気づいたらしい。

「あ……」

小さく声を漏らし、すぐに箸を置く。

「……すみません。これは、完全に失敗です」

そう言って、少し困ったように笑った。


「ルーメン、それは食べなくていいですよ。私も残しますので」

そう言われたが、俺は箸を置かなかった。

もう一口、今度は覚悟を決めて食べる。

確かに味はひどい。でも、それ以上に……。

「ルーメン?」

心配そうに覗き込まれる。

「大丈夫、です」


ゆっくりと噛みしめながら、正直な気持ちを口にする。

「これは……愛情の途中経過の味だと思います」

その言葉に、リリィ先生が目を見開いた。

「失敗も含めて、一生懸命作ってくれたものですから」

飲み込んでから、笑う。

「ちゃんと、美味しくいただきます」

一瞬、部屋の空気が止まった。


次の瞬間、リリィ先生はそっと顔を伏せ、肩を震わせた。

「……困った人ですね、ルーメンは」

そう言いながらも、声は柔らかい。

「そんなことを言われたら……もっと、頑張りたくなってしまうではありませんか」

顔を上げたリリィ先生の表情は、どこか照れていて、真剣だった。

「でも、無理はしないでください。背伸びしない、いつものリリィ先生が好きですから」

その一言で、今度は完全に言葉を失ったようだった。

数秒の沈黙のあと、深く息を吐く。

「……分かりました」

微笑みながら、静かに言う。

「では、完璧を目指すのではなく、一緒に“慣れていく”ことにしましょう」

失敗した料理を前に、それでも温かい空気が、食卓を満たしていた。

同棲生活は、こうして少しずつ、味も距離も、調整されていくのだと……そんな予感が、確かにあった。


夕食を終え、食器を片づける音が、静かな研究室に響いていた。

失敗作だったはずの料理は、結局、空になっている。

リリィ先生はその皿を手に取り、少しだけ苦笑した。

「……全部、食べてしまいましたね」

「はい。ごちそうさまでした」

そう答えると、リリィ先生は一瞬だけ目を伏せたあと、穏やかに微笑んだ。

「本当は、もっとちゃんとしたものを出したかったのです」

責める口調ではない。

ただ、自分自身に向けた言葉のようだった。


「ルーメンは、まだ学院生活も始まったばかりで、環境も変わって、不安も多いでしょう?」

流し台に手を伸ばしながら、続ける。

「そんな中で、私まで完璧でいようとしたら……きっと、息が詰まってしまいますね」

俺は、首を横に振った。

「完璧じゃなくていいです」

その言葉は、自然に出てきた。

「一緒に暮らしてるんですから。失敗も含めて、少しずつ慣れていけたら、それで」

リリィ先生は、ゆっくりとこちらを振り返った。

研究者としてではなく、教師としてでもなく。

同じ屋根の下で生活を共にする、一人の女性として。


「……そうですね」

小さく、でもはっきりと頷く。

「私、つい張り切りすぎてしまう癖があるのです。守ると決めたら、全部背負ってしまいたくなる」

そして、少し照れたように笑った。

「でも、ルーメンが隣にいるなら……支え合う、という形も悪くありませんね」

その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。

守られるだけではない。守るだけでもない。

同じ生活の中で、同じ失敗をして、同じ時間を積み重ねていく関係。

「これからも、無理はしないでください」

俺がそう言うと、リリィ先生は少しだけ驚いた顔をしてから、柔らかく微笑んだ。

「ええ。では、その代わり、ルーメンも無理はしないでくださいね」

近すぎず、遠すぎない距離。

大人の余裕の中に、確かな対等さが芽生えた瞬間だった。

同棲生活は、こうして“背伸びをしない約束”から、静かに形を整えていく。


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