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学院1年セリナ編 第七十五章 リリィとの同棲生活② 石化病の感覚の残る右手

ひと息ついたところで、リリィ先生はふと思い出したように立ち上がった。

「そうだ、ルーメン」

柔らかな声で名前を呼ばれ、俺は顔を上げる。

「今から、少し買い出しに行こうと思うのですが……一緒に来てもらえますか?」

買い出し。その言葉に、胸の奥がわずかにざわめいた。

研究室での生活が始まった、という実感が、急に現実味を帯びる。

「はい、もちろんです。お供します」

そう答えると、リリィ先生は嬉しそうに微笑んだ。


外へ出る準備を整え、並んで歩き出した、その直後だった。

「……ルーメン」

リリィ先生が、少しだけ声の調子を落とす。

「右手を……握ってもらっても、いいですか?」

その言い方は、どこか慎重で、遠慮がちだった。

「え?」

一瞬、聞き返してしまう。


リリィ先生は、視線を逸らしながら、言葉を続けた。

「その……分かっていると思いますが……石化病のこと、まだ、完全に怖くなくなったわけではないのです」

胸が、きゅっと締まる。

「あの時、右手と右腕が……動かなくなってしまった感覚は、どうしても、身体に残ってしまっていて」

そう言って、そっと自分の右手を見る。

「ですから……」

少しだけ、ためらいを含んだ間。

「治してくれたルーメンの魔力を、こうして近くで感じていると……とても、安心するのです」

決して甘えるだけの声ではなかった。

弱さを、きちんと理由として差し出す声だった。


俺は、迷わず右手を差し出した。

「もちろんです」

そう言って、そっとリリィ先生の右手を包む。

「僕も、先生のことは守ります。安心してください」

その瞬間、指先が触れ合い、ゆっくりと手が重なった。

「……ありがとうございます」

リリィ先生の声は、ほんの少しだけ柔らいでいた。

「やはり……ルーメンの手は、落ち着きますね」

そう言って、指を絡める。

ぎゅっと強く握るわけでもなく、離れない程度に、確かめるように。

手のひら越しに伝わってくる体温と、微かな魔力の流れ。

それは、守る者と守られる者、という単純な関係ではなかった。

弱さを預け、受け止める。その行為そのものが、すでに生活の一部になりつつある。

並んで歩きながら、俺は思う。

……これが、同棲生活なのかもしれない。

特別な言葉がなくても、こうして手を取り合う理由が、自然に存在すること。

その距離感が、エアリスとはまったく違う形で、胸に静かに広がっていた。


手を繋いだまま、街へ出る。

研究室の周辺から大通りを抜け、一本脇へ入ると、そこは食材の店が軒を連ねる通りだった。

香辛料の匂い、焼きたてのパンの甘い香り、野菜の瑞々しさ。生活の音と匂いが、自然と鼻腔を満たしていく。


リリィ先生は、空いている左手で小さなメモを取り出した。

「今日は、これと……これですね」

そう呟きながら、迷いなく店を選んでいく。

研究室で見る姿とは違う。

魔術師としてでも、教師としてでもなく、“生活者”としてのリリィ先生だった。

「ルーメン、嫌いな食べ物はありませんか?」

歩きながら、ふと問いかけられる。

「特にはないですけど……あ、香草は少し苦手かもしれません」

「では、控えめにしておきましょう」

すぐにそう返されるのが、少し照れくさい。

「食べたいものがあれば、遠慮なく言ってくださいね。一緒に暮らすのですから」

……一緒に暮らす。

その言葉が、何でもない会話の中に溶け込んでいる。


店先で野菜を選び、肉屋で相談し、パン屋の前で足を止める。

その一つ一つが、どこか穏やかで、落ち着いていて。

手は、ずっと繋がれたままだった。

離そうと思えば、いつでも離せる距離。

けれど、リリィ先生は指先に少しだけ力を込めて、離れない。

「……こうしていると」

ぽつりと、独り言のように言う。

「一人で買い物に来るより、ずっと楽しいですね」

俺は頷いた。

「はい。一人だと、必要なものを買って終わりですけど……二人だと、話しながら選べますし」

「ええ」

リリィ先生は、少しだけ目を細める。

「それが、とても大切なのだと思います」

買い物袋が増えていくのと同時に、俺の中でも、“ここはもう帰る場所なのだ”という実感が、静かに積み重なっていった。

繋いだ手の温度が、街のざわめきの中で、やけに確かだった。


袋を提げた手が増えたところで、俺は声をかけた。

「その荷物、僕が持ちますよ」

言い終える前に、リリィ先生は小さく首を振った。

「ありがとうございます。でも……」

ためらいのない動作で、俺の右腕に自分の右腕を絡めてくる。

ぎゅっと、逃がさないように。

「こうしていたいのです」

耳元で、低く落ち着いた声がした。

「……まだ、怖いのです」

石化病のことだと、すぐに分かった。

治っている。今はもう、問題ない。

理屈では、分かっているはずなのに。

「右手と右腕で、ルーメンの魔力を感じていると……安心します」

絡められた腕越しに、確かに伝わってくる。体温と、脈と、わずかな魔力の流れ。

守られているというより、預けられている感覚だった。

「……それに」

リリィ先生は、少しだけ微笑んだまま続ける。

「今は、離したくありません」

その言葉に、胸の奥が静かに鳴る。

歩き出すと、自然と歩幅が揃った。

荷物の重さより、腕にかかる温もりの方が、ずっとはっきりしている。

通りを抜け、研究室へ戻る道。

夕方の光が、二人の影を長く伸ばしていた。

「……一人で帰るより、ずっと楽ですね」

リリィ先生が言う。

「生活を共にする、という実感があります」

俺は、少し考えてから答えた。

「はい。買い物も、帰り道も……全部、日常になりますね」

「ええ」

絡めた腕は、最後まで解かれなかった。

それは甘えであり、信頼であり、同じ屋根の下へ戻るための、静かな合図のように思えた。


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