学院1年セリナ編 第七十五章 リリィとの同棲生活① 研究室という名の新居
第七十五章 リリィとの同棲生活
ルゼリアを発って、どれくらい歩いたのか。荷物の重さより、胸の奥の落ち着かなさの方が、ずっと重く感じられた。
見慣れたはずの道の先に、リリィ先生の研究室がある。けれど今日は、ただ「訪ねる」ために向かっているんじゃない。帰る場所が、そこになる。そう思った瞬間、足元の感覚が少しだけ変わった気がした。
扉の前で深呼吸をして、ノックをする。
返事は、すぐだった。
「おかえりなさい」
扉が開いた瞬間、やわらかな声と、見慣れた青髪が視界に入ってくる。リリィ先生は、いつも通り落ち着いた表情で、けれど今日だけは、ほんの少しだけ嬉しそうに目を細めていた。
その一言が、胸の奥にすっと染みた。
「……ただいま、リリィ先生」
言ってしまったあとで、耳まで熱くなる。俺は今、確かに「帰ってきた」と言った。ルゼリアの家じゃなく、研究室に。
リリィ先生は、その反応を面白がるように、口元だけで微笑む。
「ええ。今日からここが、ルーメンの生活の場所になりますから」
生活の場所。そう言われると、言葉が妙に具体的で、背中がむず痒くなる。研究室、と呼んでいた場所に、生活、という単語が乗っただけで、急に世界が変わったように感じる。
俺が荷物を抱え直していると、リリィ先生は自然に一歩寄ってきて、荷物に手を伸ばしかけ……途中で止めた。
「……重いでしょう。持ちましょうか?」
「いえ、大丈夫です。僕が持ちます」
反射的に答えると、リリィ先生は小さく首を振った。
「そう。では……中に入りましょう。玄関口で立ち話をするものではありません」
そう言って、彼女は身を引く。まるで、ずっと前からそこに「帰ってくる」ことが当たり前だったみたいに。
俺は一歩、扉の内側へ足を踏み入れた。
空気が、違う。
同じ建物の中なのに、研究室特有の冷たい匂いよりも、どこか温かい匂いが混じっている気がした。灯りの色も、前より柔らかいように見える。そう感じただけで、胸の奥が少し緩む。
同棲……という言葉を、頭の中で勝手に転がして、勝手に恥ずかしくなって、勝手に息を詰めた。
リリィ先生は、そんな俺の緊張を見透かしているのか、いないのか。普段と変わらない余裕のまま、さらりと言う。
「ルーメン。今日からは、遠慮はいりません」
言い方が、優しいのに、逃げ道がない。
「ここは研究室でもありますが……これからは、生活の場所です。あなたが疲れて帰ってきたら、休める場所。安心して息を吐ける場所。そういうものに、私はしたい」
その「したい」という言葉に、妙な熱がある。命令じゃないのに、決意が混じっている。大人の余裕の中に、確かに覚悟が見える。
俺はうまく返せないまま、頷く。
「……ありがとうございます」
それしか言えなくて、情けないと思うのに、それでも口に出した瞬間、胸が少しだけ軽くなった。
リリィ先生は、そんな俺の表情を、楽しむみたいに見つめてから……ふっと、いつもの柔らかい微笑みに戻った。
「さあ。まずは、中を見てください。あなたがこれから暮らす場所です」
暮らす、という響きが、また心臓を鳴らす。
俺は荷物を抱えたまま、彼女の後ろに続いて、研究室……いや、これからは「住居」と呼ぶべき場所の奥へ歩き出した。
同じ屋根の下で、生活が始まる。
それがどんな日々になるのか、俺はまだ想像できない。けれど、扉の外で聞いた「おかえりなさい」が、今日という日を、確かに特別にした。
その事実だけは、もう否定できなかった。
リリィ先生の後に続いて、研究室の奥へと足を踏み入れた瞬間……俺は、思わず立ち止まった。
「……え?」
言葉が、自然と零れる。
そこは、確かに知っているはずの研究室だった。
魔術式が刻まれた床、壁一面の書架、実験用の机。
けれど、それらの配置も、空気も、記憶しているものとは決定的に違っていた。
まず目に入ったのは、壁の向こうに広がる空間だった。
「……広っ……」
研究室は、大幅に増設されていた。
以前の無機質な空間の奥に、はっきりと“生活のための場所”が続いている。
仕切られた廊下の先には、二つの個室。
きちんとした扉がついていて、それぞれが独立した空間になっているのが分かる。
さらに進めば、明るいキッチンと食卓。
簡素ながらも清潔で、使い込まれることを前提に整えられた設備。
その奥には、湯気の気配が残る浴室まであった。
「……リリィ先生」
声が、少しだけ上ずる。
「ここ……本当に、研究室ですか?」
正直な疑問だった。以前見た場所とは、あまりにも違いすぎる。
リリィ先生は、振り返って俺を見ると、少しだけ首を傾げた。
「研究室ですよ?」
あまりにも自然な答えに、俺は言葉を失う。
「ただ……生活に必要なものを、足しただけです」
足した、というには、あまりにも大胆だ。
ここまで整えられた空間を前にすると、研究の延長というより、完全に“住居”だ。
俺が呆然としているのを見て、リリィ先生は、くすっと小さく笑った。
「そんな顔をしないでください。これから、ルーメンが毎日使う場所なのですから」
毎日。その言葉が、胸に落ちる。
研究室に来る、ではない。
研究室に帰る、でもない。
……ここで、暮らす。
その事実が、改めて重く、そして現実味を持って迫ってくる。
俺は、もう一度、ゆっくりと空間を見渡した。
生活の匂いがする。人が、長く過ごす前提で整えられた空間。
無機質だった研究室が、誰かの“居場所”へと変わっている。
「……すごいです」
ようやく、それだけ絞り出す。
「ここまで……用意してくれるなんて、思ってなくて」
率直な言葉だった。驚きも、戸惑いも、そして少しの照れも、全部混ざっている。
リリィ先生は、俺の反応を確かめるように一瞬だけ見つめてから、静かに頷いた。
「驚くのは、無理もありませんね」
その声音は落ち着いていて、どこか誇らしげでもあった。
「ですが、これは、必要なことです」
必要。その言葉に含まれる意味を、俺はまだ全部理解できていない。
けれど、少なくとも一つだけ分かることがある。
この場所は、もうただの研究室ではない。
そして俺は、もう“客”ではない。空間そのものが、そう告げていた。
同じ屋根の下で生活をする……その現実が、静かに、しかし確実に、俺の足元に根を下ろし始めていた。
研究室……いや、もはや住居と呼ぶべきその空間を一通り見終えたあとも、俺の頭はまだ追いついていなかった。
驚きと戸惑いが、胸の内で静かに渦を巻いている。
そんな俺の様子を横目に、リリィ先生は実に落ち着いた仕草で、食卓の椅子に腰を下ろした。
「どうですか、ルーメン」
穏やかな声だった。
「住み心地は」
その問いかけに、思わず言葉を詰まらせる。
「す、住み心地って……まだ、来たばかりなので……」
正直な反応だった。
だが、それを聞いたリリィ先生は、少しだけ目を細めて微笑む。
「そうですね。ですが……」
一度言葉を切り、はっきりと続けた。
「ここは、ルーメンと私がこれから過ごす場所です。ですから、最初から“住む”前提で整えました」
さらりとした口調。まるで当たり前のことを説明するかのように。
「……それに」
リリィ先生は、視線を外さずに続ける。
「私は、ルーメンのためなら、何でもすると言いましたよね」
その言葉に、胸がわずかに跳ねる。
覚えている。確かに、そう言われた。
けれど、それは覚悟の表明であって、ここまで具体的な形になるとは思っていなかった。
「ですから、これはその一環です。気にしないでください」
そして、少しだけ声の調子を変えて、付け加える。
「それに……」
リリィ先生の唇が、わずかに弧を描いた。
「私としては、ここは“研究室”というより……ルーメンとの新居、ですから」
……新居。その言葉が、はっきりと耳に残った。
自分でも分かるほど、頬が熱くなる。
「し、新居、って……」
否定する言葉も、受け入れる言葉も、すぐには出てこなかった。
胸の奥が落ち着かず、視線が自然と彷徨う。
「正直……すごくびっくりしました」
ようやく、そう口にする。
「ここまでしてくれるなんて……。その、新居って言葉は、ちょっと……恥ずかしいですけど」
言いながら、自分でも顔が赤くなっているのが分かる。
「でも……嬉しいです。ありがとうございます」
率直な感謝だった。取り繕う余裕もない、本音。
その反応を見て、リリィ先生は満足そうに小さく息を吐いた。
「ふふ……やはり、そういう反応をしますね」
楽しげな声音。
「無理に平然としてほしいわけではありませんよ。むしろ、その方が安心します」
安心、という言葉に、少しだけ首を傾げる。
「安心……ですか?」
「ええ」
リリィ先生は、迷いなく頷いた。
「ルーメンが、ちゃんと戸惑って、照れて、考えてくれる。それは、私にとって都合のいい反応ではありませんが……」
そこで、意味ありげに言葉を切る。
「信頼できる反応です」
その一言が、胸に静かに落ちた。
押しつけではない。一方的でもない。
それでも、確実に一歩先へ進もうとしている。
「必要なものがあれば、遠慮せずに言ってくださいね」
リリィ先生は、穏やかに続ける。
「ルーメンに、快適に過ごしてもらうことが、今の私の最優先事項ですから」
その言葉には、冗談めいた響きはなかった。
俺は、ゆっくりと息を吐く。
「……はい。ありがとうございます」
まだ実感は追いつかない。けれど、この場所が“新居”だと呼ばれたことだけは、確かに胸に残っていた。
同じ屋根の下で暮らす。その事実が、静かに、しかし確実に現実として根を下ろし始めていた。




