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学院1年セリナ編 第七十四章 エアリスとの学院生活④ 逃がさない

その日の夕方。研究室に戻ると、リリィはいつものように机に向かっていた。

書類と魔術式に囲まれたその姿は、学院の中でも変わらず落ち着いている。


「リリィ先生、少しよろしいですか」

声をかけると、彼女は顔を上げ、すぐに柔らかな表情になった。

「ええ、どうしました?」

俺は、ほんの少しだけ言いにくそうに視線を泳がせる。

「今週末なんですが……エアリスと、街を歩く約束をしてしまって」

「……しまって?」

その言い回しに、リリィは小さく笑った。

「いいじゃありませんか。学院の外も、大切な学びの一つですよ」

予想外に、あっさりとした返答だった。

「魔術の特訓と研究は、どうしますか?」

「週末は一日だけにしましょう」

そう言って、リリィは指を一本立てる。

「もう一日は、イーストレイクの街を知ることに使いなさい。ここで暮らす以上、土地を知ることも必要です」

その言葉に、俺は素直に頷いた。

「ありがとうございます。助かります」

リリィは満足そうに微笑む。

……だが、次の言葉は、少しだけ間があった。


「本当は」

リリィは、ふと視線を外す。

「私が案内して差し上げたいのですけれど」

その一言に、胸が小さく跳ねた。

「ですが、子供だけで行ける範囲も限られていますし……それに、エアリスさんと行く時間も、大切でしょう」

声は穏やかで、嫉妬や不満は感じられない。

それなのに、なぜか妙に意識してしまう。

「空いている日にでも、改めて街のことは教えますから」

そして、少しだけいたずらっぽく続けた。

「その時は、私とも一緒に歩いてくださいね」

「はい」

俺は、何の迷いもなく答えていた。

「それは、楽しみです」

リリィは、ふっと小さく笑う。

「素直ですね、ルーメンは」

その言葉に、何か含みがあるような、ないような。


研究室の空気は、いつも通り穏やかだった。

だが、俺の中では、はっきりと感じていた。

エアリスとの約束。

そして、リリィ先生との約束。

どちらも自然で、どちらも大切で。

……その二つが、同じ場所に並び始めている。



約束していた週末。

学院の正門前で待っていると、エアリスは少し早足でこちらにやってきた。いつもより身軽な服装で、髪も整えられている。

「待たせた?」

「いや、今来たところだよ」

そう答えると、エアリスは安心したように微笑んだ。

「じゃあ、行こっか」

学院を出て、しばらくは並んで歩く。石畳の道、行き交う人々、街のざわめき。

どれも初めてではないはずなのに、今日は少し違って見えた。


学院から少し距離が離れた、そのときだった。

エアリスが、何の前触れもなく、俺の腕に自分の腕を絡めてきた。

「……エアリスさん?」

思わず声が出る。

だが、エアリスは自然なまま、歩く速度も変えない。

「ん? なに?」

「いや、その……」

腕に伝わる体温と、柔らかな感触。それがはっきりと意識に上ってきて、言葉が続かない。

エアリスは、ちらりとこちらを見て、少しだけ笑った。

「街、初めてでしょ?」

「まあ……学院とその周辺くらいしか知らないけど」

「だから」

そう言って、腕を離そうとはしなかった。

「ルーメンと一緒なら、安心するの」

その言葉は、とても静かで、当たり前のようだった。

「それに……せっかく一緒に来たんだもん。離れて歩く理由、ないでしょ?」

否定できなかった。否定する理由も、見つからなかった。

「……そうだね」

そう答えると、エアリスは満足そうに腕に力を込める。

「ふふ。じゃあ、このままね」

街の景色が、ゆっくりと流れていく。

商店の呼び声。子供たちの笑い声。魔石灯の淡い光。

その全部を、エアリスは楽しそうに見回していた。

「同じ景色を見て、同じ時間を歩くのって、いいよね」

何気ない言葉だった。

けれど、その一言で、胸の奥が少しだけ温かくなる。

「ルゼリアにいた頃みたいにさ」

「……うん」

あの頃と、同じ。でも、どこか違う。

エアリスの腕は、離れないままだ。

俺は、視線を前に向けながら、内心で深く息を吐いた。

……これは、街歩きというより。もう、立派なデートなのではないだろうか。

そんな考えが浮かんだが、口には出さなかった。

エアリスは、俺の腕に寄り添ったまま、楽しそうに歩いている。

それだけで、今は十分だった。


しばらく歩いていると、エアリスはあちこちに視線を向けるようになった。

店先に並ぶ商品。通りを行き交う人たち。学院の中とは違う、少しだけ賑やかな空気。

「ね、ルーメン」

腕を組んだまま、エアリスが顔を上げる。

「こうやって歩くの、楽しいね」

「うん。思ってたより、街って広いな」

「でしょ?でもね」

エアリスは、少しだけ歩く速度を落とした。

「私、一人で来ても、たぶんこんなに楽しくなかったと思う」

「そうなの?」

「うん」

エアリスは、俺の腕に軽く体重を預ける。

「同じ景色を見てさ、同じタイミングで立ち止まって、同じことで『これいいね』って言えるのが、楽しいの」

その言葉は、穏やかで、柔らかい。押しつけがましさはない。

けれど、確かに、気持ちは伝わってくる。

「思い出って、一人で作るより、誰かと一緒の方が残るでしょ?」

「……まあ、それは」

否定しようがなかった。

ルゼリアでのこと。旅の途中で見た風景。笑い合った時間。

思い返してみれば、印象に残っているものは、誰かと一緒にいた記憶ばかりだった。

「だからね」

エアリスは、少しだけ声を落とす。

「イーストレイクでも、ルーメンと一緒に、たくさん思い出作りたいなって思ってる」

胸の奥が、じんわりと熱くなる。

腕に触れている温もりが、さっきよりもはっきりと感じられた。

「……そうだね」

俺は、素直に答えた。

「ルゼリアで過ごしたみたいに、ここでも、色々見て回れたらいいな」

エアリスは、その返事を聞いて、嬉しそうに目を細めた。

「うん。約束ね」

約束、と言われるほど大げさなものではないはずなのに、その言葉は、胸に残った。

街の音に紛れて、二人の足音だけが、並んで響く。

エアリスは、時折こちらを見上げては、にこりと笑う。

そのたびに、俺は少しだけ視線を逸らした。

恥ずかしい。けれど、不思議と嫌ではない。むしろ……心地いい。

学院生活は、まだ始まったばかりだ。

けれど、この時間が、これからの毎日へ自然に繋がっていく気がしていた。


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