学院1年セリナ編 第七十四章 エアリスとの学院生活② 距離感
学院生活が本格的に始まって、しばらく経った頃だった。授業の合間、エアリスはよく俺に質問をしてくるようになった。
「ねえ、さっきの魔術理論のところなんだけどさ」
「ここ、どういう意味だった?」
教本を指でなぞしながら、少し首を傾げて聞いてくる。
けれど、その質問内容を聞くたびに、俺は内心で首をかしげていた。
……それ、エアリスなら分かってるはずだ。
魔術の理解力は、エアリスもかなり高い。むしろ、俺よりも呑み込みが早いことも多いくらいだ。
それなのに。
「うーん……この式のここが、ちょっとだけ」
そんなふうに言って、わざわざ俺の方に身を寄せてくる。
俺は、教本を覗き込みながら説明する。
「ここはね、魔力の流れを前提にしてて……」
「なるほど、そういうことかぁ」
エアリスは、分かったように笑う。
その笑顔を見て、思う。
(……やっぱり、分かってたよな)
けれど、エアリスは次の瞬間、また別のページを開く。
「じゃあ、ここは?」
「あと、この先生の言い回し、ちょっと分かりにくくない?」
質問は、途切れない。
結果として、休み時間のほとんどは、俺とエアリスの会話で埋まる。
周囲を見れば、他の生徒たちは友人同士で話したり、次の授業の準備をしたりしている。
その中で、俺とエアリスだけが、ずっと同じ空間を共有していた。
説明している間、エアリスはちゃんと俺の話を聞く。
目を合わせて、相槌を打って、時々小さく笑う。
その距離が、自然で。
長引く会話も、時間を取られる感覚がなかった。
「ルーメンの説明、分かりやすいね」
そう言われると、少し照れる。
「そ、そうかな。ありがとう」
エアリスは、満足そうに微笑んだ。
……これが、目的なんだろうか。
質問そのものより、この時間が欲しいのだと。
その可能性が、ふと頭をよぎる。
けれど、俺はそれ以上深く考えなかった。
エアリスと話す時間は、楽しい。それで十分だと思っていた。
入学してから、少しずつ。本当に、少しずつだった。
最初は、ただ隣の席に座っているだけだったはずなのに、
気がつけば、エアリスとの距離は以前とは比べものにならないほど近くなっていた。
授業中、肘が触れる。
ノートを取るとき、肩が当たる。
身を乗り出して教本を覗くと、自然と体が寄る。
それらはすべて、「たまたま」、「偶然」と言い訳できる範囲だった。
最初のうちは、俺も少しだけ身を引いていたと思う。
けれど、エアリスは気にした様子もなく、むしろ、それが当たり前であるかのように振る舞っていた。
「ねえ、ここ」
そう言って、エアリスが指差すと、俺は無意識のうちに身を寄せていた。
距離が近い。そう思う前に、もう、近くにいる。
休み時間も同じだった。
ベンチに座ると、自然と隣。廊下を歩けば、並んで。人が多いと、少しだけ近づいてくる。
その距離が、嫌じゃなかった。むしろ、安心する。
(……不思議だな)
ルゼリアにいた頃よりも、学院に来てからの方が、エアリスとの距離はずっと近い。
なのに、違和感がない。エアリスも、何も言わない。
ただ、当たり前のようにそこにいる。
まるで……最初から、この距離だったかのように。
「ルーメン」
名前を呼ばれるたびに、ほんの少しだけ、胸がざわつく。
それでも俺は、まだこの時点では深く考えていなかった。
学院生活に慣れてきたから。同郷で、隣の席で、話す時間が多いから。
そう、自分に言い聞かせていた。
けれど。距離が縮まるのは、慣れのせいだけじゃない。
その日は、魔術理論の授業だった。
いつも通り、エアリスは隣に座っていて、いつも通り、俺たちは同じ教本を開いていた。
「ねえ、ルーメン」
エアリスが声をかけてくる。
「このページの……ここ」
そう言って、エアリスが教本に手を伸ばした瞬間だった。
ふわり、と。
甘くて、どこか落ち着く香りが鼻先をかすめる。
赤紫色の髪が、視界の端に入り、気づけば、エアリスの顔が……近い。
近すぎる。数センチもない距離。
白くて、柔らかそうな頬。伏せた睫毛。真剣な横顔。
顔だけが近いのかと思った。
……違った。
体ごと、ぴったりと寄ってきている。
俺の右腕に、はっきりとした感触があった。
柔らかくて、温かくて、どう考えても“当たってはいけないもの”だ。
(……え、えっと)
心臓が、急にうるさくなる。
俺はじっと耐えた。
きっと、すぐ離れるだろう。そう思って。
……離れない。
それどころか、エアリスはさらに少し、体を寄せてくる。
逃げ場がない。
周囲は普通に授業を受けているし、今さら大きく動くのもおかしい。
さすがに限界だった。
「あ、あの……エアリスさん」
声が、少し裏返る。
「ちょっと……近すぎやしませんか?それに、その……当たってますよ」
エアリスは、ゆっくりとこちらを向いた。
そして、何事もなかったかのような、優しい笑顔で言った。
「何が当たってるの?」
……追い詰めてくる。
顔が、熱い。
耳まで赤くなっているのが、自分でも分かった。
「そ、その……」
逃げたかったが、逃げられない。
「……む、胸が当たってます」
ようやく絞り出した瞬間だった。
エアリスは、一瞬だけ体を離した。
……助かった、と思った次の瞬間。
俺の耳元に、顔を寄せてくる。
吐息が、かかるほど近くで。
「……当ててるんだよ、ルーメン」
囁くような声。
背筋に、ぞくりと何かが走った。
「エ、エアリスさん……?」
情けない声が出る。
エアリスは、今度こそ少しだけ距離を取って、楽しそうに微笑んだ。
「少しは、私のこと意識してくれたかな?」
俺は、何も誤魔化せなかった。
「あ……はい。とても」
正直な答えだった。
エアリスは、満足そうに頷く。
「それなら、よかった」
そして、軽やかに言った。
「私、負けられないからね。頑張らないと」
その言葉の意味を、この時の俺は、もうはっきりと理解してしまっていた。
その日からだった。
エアリスの「近さ」が、偶然でも、無意識でもなく……明確な意思を持ったものだと、俺が理解してしまったのは。
大接近事案のあとも、
エアリスは何事もなかったかのように振る舞っていた。
いつも通りに授業を受け、いつも通りにノートを取り、いつも通りに、隣にいる。
けれど……距離だけは、元に戻らなかった。
肩が触れる。腕が当たる。時々、髪が俺の腕にかかる。
そのたびに、俺の意識は引き戻される。
(……意識、してる)
エアリスを。
それを、エアリスは……分かっている。
休み時間、俺が少し席をずらそうとすると、エアリスは、ほんの少しだけ近づいてくる。
逃げると、詰めてくる。
さりげなく。自然に。でも、確実に。
「ルーメン」
小さな声で、名前を呼ばれるだけで、心臓が跳ねるようになっていた。
あるとき、俺が視線を逸らしたのに気づいたのか、エアリスは、楽しそうに微笑んだ。
「……嬉しいでしょ?」
図星だった。
嬉しい。確かに。でも、それ以上に……恥ずかしい。
「エ、エアリスさん……」
俺が名前を呼ぶと、エアリスは、少しだけ目を細める。
「なあに?」
責めるでもなく、からかうでもなく。
ただ、近い距離で、じっと見つめてくる。
逃げ場がない。
(……ああ)
この人は、もう隠すつもりがないんだ。
鈍感な俺でも、ここまでされたら、さすがに分かる。
エアリスの言っていた「負けられない」。
それは、魔術の話でも、成績の話でもなかった。
……恋だ。
俺に向けられた、まっすぐで、積極的な恋心。
エアリスは、勝ち誇ったような顔はしなかった。
ただ、少しだけ誇らしそうに、そして、とても優しく笑った。
「ね、ルーメン」
囁くような声。
「ちゃんと、私のこと見てね」
その一言で、俺の胸の奥に、はっきりとした自覚が生まれた。
……これは、もう逃げられない。
甘くて、穏やかで、でも確実に、踏み込んできている。
エアリスの恋は、この学院生活の中で、確実に、俺のすぐ隣に存在していた。




