学院1年セリナ編 第七十三章 セリナの今後② セリナもいたよね
研究室の扉が、軽くノックされた。
「失礼します」
聞き慣れた声だった。その響きは、少しだけ慎重で、それでいて落ち着いている。
「どうぞ」
リリィが答えると、扉が静かに開き、セリナが姿を現した。
制服は整っている。髪もきちんとまとめられていて、表情にも大きな乱れはない。
だが、ルーメンには分かった。
……完全に元通り、というわけではない。
どこか、慎重すぎる。世界を確かめるような歩き方をしている。
「来てくれてありがとう、セリナ姉」
ルーメンが声をかけると、セリナは小さく頷いた。
「うん。言われた通り、授業が終わってすぐ来たわ」
リリィが視線で椅子を示す。
「座ってください。無理はしなくていいですよ」
「ありがとうございます」
セリナはそう言って腰を下ろした。
背筋は伸びているが、どこか力を抜こうとしている様子が見て取れる。
一瞬、沈黙が落ちた。誰から切り出すべきか、分かっているようで、分からない空気。
ルーメンが、ゆっくり口を開いた。
「……今日の学校、どうだった?」
あえて、直接的な言葉は選ばなかった。
セリナは静かに答える。
「正直に言うと……ちょっと、不思議だったわ」
「不思議?」
「うん」
セリナは、自分の膝の上で指を組み直した。
「みんな、普通に話しかけてきたの。昨日も一緒に授業を受けてたみたいな感じで」
ルーメンは、息を整えながら続きを待つ。
「私が出てなかった授業のこともね、『あの時さ』って、当たり前みたいに話すの」
そこに、戸惑いはあったが、恐怖はなかった。
「でも、不思議なのよ」
セリナは、言葉を選ぶように続ける。
「私が何をしてたか、とか誰と何を話したか、とか……そこは、みんな揃って覚えてないの」
ルーメンは、リリィの方を一瞬だけ見た。
リリィは、静かに頷いている。
「『セリナもいたよね』って言われるだけ」
セリナは、肩をすくめた。
「私が“いた”ことだけは確定してて、でも“接点”がない感じ」
「……それで、困ったりは?」
「今のところは、大丈夫」
セリナは、はっきり答えた。
「変に問い詰められることもないし、避けられることもない」
それは、世界が選んだ、最も自然な修復だった。
「普通に、学院生活は続けられそう」
その言葉に、ルーメンの胸が少し軽くなる。
「それなら……よかった」
思わず、本音が漏れた。
セリナは、そんな弟の表情を見て、ほんの少しだけ笑った。
「心配してたんでしょ」
「……まあ」
否定はしなかった。
「でも、私も分かったの」
セリナは、静かに言う。
「世界は、何もなかったみたいに進むけど……それでいいんだって」
無理に抗う必要はない。戻れた場所で、生きていけばいい。
「今は、それでいいと思ってる」
その言葉には、受け入れと、前向きな諦観が混じっていた。
リリィは、穏やかに頷く。
「精神状態も、安定していますね」
診断ではなく、確認としての言葉だった。
ルーメンは、はっきりと安心した。
少なくとも……セリナは、今ここにいる。それが、何より重要だった。
セリナは、少し考えるように視線を落とした。
「たぶんね……世界が、辻褄を合わせたんだと思う」
その言い方は、どこか淡々としていた。だが、そこに諦めや投げやりな響きはない。
「私が“いなかった時間”を、そのまま空白にするんじゃなくて……“いたこと”にして、埋めた、みたいな」
ルーメンは、ゆっくり頷いた。
確かに、それが一番自然だ。空白を空白のまま残せば、必ず歪みが生まれる。
「でもね、不思議なの」
セリナは、指先で膝をなぞる。
「私が何をしてたか、とか誰と一緒にいたか、とか……そういう“具体的な話”になると、みんな曖昧なのよ」
「覚えてない?」
「うん。『そんな細かいこと覚えてないよ』って、口を揃えて言うの」
それは、忘却とは少し違う。最初から、そこに情報がなかったかのような反応。
「だからね……」
セリナは、小さく息を吸った。
「私が存在していなかった時間は、“私が何もしていなかった時間”として、処理されてるみたい」
存在はある。だが、行動の履歴がない。世界にとっては、それで十分なのだ。
「怖くは……ない?」
ルーメンは、慎重に尋ねた。
セリナは、すぐには答えなかった。少しだけ間を置いてから、首を横に振る。
「正直に言うと……最初は、戸惑ったわ」
「だって、私は知ってるもの」
誰にも見えず、誰にも触れられず、同じ世界にいながら、切り離されていた時間を。
「でもね」
セリナは、はっきりと言った。
「みんなが普通に接してくれるなら、それでいいって、思えるようになった」
リリィが、静かに口を挟む。
「世界が修復される際、“個人の苦痛”までは記録されないことが多いのです」
「事実関係だけが整えられ、感情や経緯は、当事者の内側にだけ残る」
それは、残酷でもあり、同時に救いでもあった。
「……私だけが覚えてるってことね」
セリナは、苦笑した。
「そういうことになりますね」
リリィは、否定も肯定もしない。
「ですが、それは“消された”のとは違います。あなたの中に、きちんと残っている」
セリナは、その言葉を噛みしめるように目を閉じた。
「……うん」
「それでね、ルーメン」
再び目を開き、ルーメンを見る。
「今日一日過ごしてみて、思ったの」
「このまま、普通に戻っても……私は、ちゃんとやっていけそうだって」
無理に明るく振る舞っているわけではない。ただ、現実を受け入れた声だった。
「学院にも、居場所はあるし、友達も、話しかけてくれる」
「だから……」
セリナは、少しだけ肩の力を抜いた。
「少なくとも、“存在が消える前の私”には、戻れそう」
ルーメンは、その言葉に胸を打たれた。
完全に元通りではない。だが、前に進むことはできる。
「……それなら、安心した」
素直な言葉だった。
セリナは、小さく笑う。
「心配性なんだから」
だが、その表情は柔らかかった。
世界は、何事もなかったかのように続いていく。だが、その裏で……確かに、一つの地獄が終わっていた。
セリナの言葉を聞き終えたとき、ルーメンの胸にあった重石が、ゆっくりとほどけていくのを感じた。
存在が戻ったかどうか。世界に認識されているかどうか。
それだけでは足りなかった。
本当に知りたかったのは……これから、普通に生きていけるのかという一点だった。
「……そっか」
ルーメンは、息を吐くように言った。
「じゃあ、今後も学院生活は、問題なさそうだね」
その言葉には、確認と安堵が混じっていた。
セリナは、少し考えてから頷く。
「ええ。少なくとも……今のところは」
曖昧さを残した返事だったが、そこには恐怖よりも現実的な判断があった。
「無理して元気に振る舞うつもりもないし、何事もなかった顔をする気もないわ」
「でもね」
セリナは、ルーメンを見る。
「“普通に扱われる”って、やっぱり大きいのよ」
存在を否定されないこと。声をかけられること。名前を呼ばれること。
それらが、どれほど人を支えているかを、彼女は身をもって知ってしまった。
「だから……」
セリナは、静かに続ける。
「私は、前に進めると思う」
それは、決意というよりも受容だった。
完全に癒えたわけではない。心に傷が残っていないわけでもない。
それでも、立ち止まり続ける理由はなくなった。
「無理しないでね」
ルーメンは、自然とそう言っていた。
「何かあったら、すぐ相談して。今度は、一人で抱え込まなくていいから」
セリナは、少し驚いたように目を瞬かせ、それから、穏やかに笑った。
「ありがとう。……そうするわ」
その返事は、以前のような強がりではなかった。
リリィは、二人の様子を静かに見守りながら、頷く。
「現時点では、魔術的な不安定さも見られません」
「学院生活を続ける上で、制限をかける必要もないでしょう」
その言葉は、専門家としての判断だった。
「つまり……」
ルーメンは、確認するように言う。
「セリナ姉は、もう“特別扱い”される必要はないってことですね」
「ええ」
リリィは、頷いた。
「特別だったのは“状態”であって、あなた自身ではありませんから」
セリナは、その言葉を聞いて、わずかに肩の力を抜いた。
「……よかった」
小さな声だったが、心からの言葉だった。
「正直ね、“戻れないんじゃないか”って、少し思ってたの」
「世界が修復されても、自分だけが浮いた存在になるんじゃないかって」
だが、現実は違った。
世界は残酷なほど自然に、彼女を受け入れている。
それが、救いでもあり、同時に、どこか不思議でもあった。
「……じゃあ」
ルーメンは、静かに言った。
「セリナ姉の今後については、ひとまず安心、ってことでいいかな」
セリナは、はっきりと頷いた。
「ええ。ありがとう、ルーメン」
その言葉に、重さはなかった。だが、確かな信頼があった。
こうして……セリナの“存在”に関する問題は、一区切りを迎えた。




