学院1年セリナ編 第七十三章 セリナの今後① 世界の整合性
第七十三章 セリナの今後
授業が終わり、教室に流れていたざわめきが少しずつ収まっていく中で、ルーメンは立ち上がった。
窓の外には、いつもと変わらない午後の光が差し込んでいる。昨日までの出来事が嘘だったかのように、学院は平穏そのものだった。
……だからこそ、確かめなければならない。
教室を出る前、ルーメンはセリナの方へ視線を向けた。
彼女は友人と何気ない会話を交わしながら、教科書を片づけている。その様子に、異変はない。表情も、声の調子も、歩き方も……すべてが、いつものセリナだった。
それでも。
「セリナ姉」
名前を呼ぶと、セリナはすぐに振り向いた。
「なに?」
当たり前のように返ってくる反応に、胸の奥がわずかに緩む。
「授業が終わったら、またリリィ先生の研究室に来てほしいんだ。少し、話したいことがある」
セリナは一瞬だけ考えるような顔をして、それから小さく頷いた。
「うん、分かったわ。用事があるなら行く」
特別な意味を含ませるでもなく、理由を深く尋ねるでもなく。ただそれだけのやり取りだった。
……もう、特別扱いは必要ない。
その事実が、ルーメンにとっては何よりの確認だった。
「じゃあ、後で」
そう言って教室を出ると、ルーメンは自分のクラスへと足を向けた。廊下ですれ違う生徒たちは、普段通りに挨拶を交わし、今日の授業や次の予定について話している。誰一人として、昨日までの“空白”に気づいている様子はない。
自分だけが知っている。
セリナが、世界から切り離されていた時間。そして、その時間が、世界の側では最初から存在しなかったものとして処理されていること。
教室に戻り、自分の席に腰を下ろしたルーメンは、ふっと息を吐いた。
これでいいのだろうか。いや、これでいいのだ。
世界が無理なく回っていること。
セリナが“普通に”存在していること。
それは、取り戻した結果として、最も自然な形だった。
それでも……確認は必要だ。
自分だけが抱えている違和感を、世界の中でどう折り合いをつけるのか。
セリナ自身が、これからをどう生きていくのか。
ルーメンは、静かに次の授業の準備をしながら、放課後の研究室を思い浮かべていた。
自分の席に着いても、ルーメンの意識は授業内容に向かわなかった。板書を写す手は動いているのに、思考だけが別の場所にある。
……本当に、戻っているのか。
それを確かめる方法は、一つしかなかった。世界の側が、どう認識しているのかを聞くことだ。
授業の合間、ルーメンは横を向いた。
エアリスは、頬杖をつきながらノートを見つめている。いつも通りの姿。変わった様子は、どこにもない。
「エアリス」
声をかけると、彼女はすぐに顔を上げた。
「なに、ルーメン?」
何気ない返事。それだけで、少し肩の力が抜ける。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど……セリナ姉のこと、知ってる?」
あえて、曖昧な聞き方をした。探るような質問ではなく、日常会話の延長として。
するとエアリスは、きょとんとした顔をしてから、すぐに眉をひそめた。
「何言ってるの?」
呆れたように、しかし冗談だと思った様子で続ける。
「知ってるに決まってるでしょ。小さい頃から一緒に遊んでたし」
その言葉に、ルーメンの胸がわずかに締まる。
「この前だって、剣術大会、一緒に見に行ったじゃない」
迷いのない声音。記憶を辿る様子もない。
それは、世界が完全に整合している証だった。
「……そっか」
思わず、短く返してしまう。
エアリスは、首をかしげた。
「今日のルーメン、変だよ? どうしたの?」
「いや……ちょっと確認したかっただけ」
そう言って、視線をノートに戻す。
だが、もう一つだけ、聞いておかなければならないことがあった。
「じゃあさ」
エアリスは再びこちらを見る。
「その……剣術大会のあと、セリナ姉と会った?」
エアリスは、少し考えるように視線を上へ向け、それから首を振った。
「ううん。あれからは会ってないかな」
ごく自然な答えだった。
「最近は、別々に行動してたし。詳しいことは分からないよ」
「……そうなんだ」
その言葉を聞いた瞬間、ルーメンの中で何かが、静かに噛み合った。
エアリスは、セリナを“知っている”。過去も、関係も、問題なく認識している。
けれど……セリナが存在を失っていた期間については、何も知らない。
知らないというより、最初から無かった。
「今日のルーメン、ほんとに変」
エアリスは軽く笑って、そう付け加えた。
「変な質問ばっかりするし」
「ごめん」
そう返すと、エアリスはもう興味を失ったように、再びノートに視線を落とした。
……やっぱり、そうなるか。
ルーメンは、机の下で拳を軽く握った。
世界は修復されている。セリナの存在は、完全に“連続した日常”として再配置されている。
消えていた事実だけが、切り取られ、どこにも接続されていない。
それを知っているのは、自分とセリナだけ。その重みを、ルーメンは静かに受け止めていた。
放課後、ルーメンはそのままリリィの研究室へ向かった。
廊下を歩く足取りは、普段と変わらない。変わらないはずなのに、胸の奥には小さな棘のような違和感が残っていた。
……世界は、本当に何も覚えていない。
それを、もう一度だけ確かめておきたかった。
研究室に入ると、リリィは机に資料を広げていた。顔を上げ、いつもの穏やかな視線を向ける。
「どうしました、ルーメン。授業は終わったのですね」
「はい。……少し、確認したいことがあって」
椅子に腰掛けながら、ルーメンは言葉を選んだ。
感情を混ぜず、事実だけを並べる。そうしなければ、話が歪むと分かっていた。
「セリナ姉のことで、です」
リリィは、ほんの一瞬だけ視線を伏せ、それから頷いた。
「ええ。何でしょう」
「……先生は、セリナ姉が“いなかった期間”に、何か接点はありましたか」
問いは、率直だった。
リリィはすぐに首を横に振る。
「ありません」
「特別に話す機会はありませんでした。普段通りです」
その“普段通り”という言葉が、胸に引っかかる。
「魔術的な記録は?」
「残っていません」
きっぱりとした口調だった。
「結界、履歴、魔力残滓、どれも異常なし。セリナさんが存在していなかったという痕跡は、世界のどこにも確認できません」
ルーメンは、静かに息を吐いた。
……やはり、そうなる。
「つまり……」
自分で言葉にする。
「世界にとっては、セリナ姉はずっと“いた”。ただ、特定の期間、誰とも接点がなかっただけ……そういう扱いになる」
「ええ」
リリィは頷く。
「記憶の整合性としては、その形が最も自然です」
存在は連続している。行動の空白だけが、曖昧に埋められている。
「……やっぱり、俺とセリナ姉だけなんですね」
「何を、ですか」
「消えていたことを、知っているのは」
リリィは、少し考えるように目を細めた。
「そうでしょうね。あなたが関与し、セリナさん本人が経験した事象ですから」
その言葉は、正しい。そして同時に、残酷でもあった。
世界は、すでに先へ進んでいる。何事もなかったかのように。
「……リリィ先生」
ルーメンは、視線を落としたまま言った。
「これで、問題はないって判断していいんでしょうか」
リリィは、静かに答える。
「ええ。少なくとも、学院生活を送る上では」
魔術的にも、社会的にも。異常は切り取られ、封じられている。
「残るのは……当事者の心だけです」
その一言で、ルーメンははっきりと理解した。
世界は、完全に修復された。だが、傷まで消えたわけではない。
……だからこそ。この先は、セリナ自身の意思が重要になる。
ルーメンは、静かに立ち上がった。
「ありがとうございます、先生」
「ええ」
リリィは、穏やかに頷いた。
「この後、セリナさんも来るのでしょう。落ち着いて話せるといいですね」
その言葉に、ルーメンは小さく頷いた。
世界は何も覚えていない。だからこそ、忘れてはいけないものがある。それを、胸の奥に刻みながら。
研究室には、午後の静けさが戻っていた。外から聞こえるのは、遠くの足音と、風に揺れる木々の気配だけだ。
リリィは、資料を閉じ、改めてルーメンの方を見た。
「ルーメン。もう一つ、大切なことを伝えておきます」
その声は、教師としての落ち着きと、研究者としての厳密さを併せ持っていた。
「今回の件……セリナさんの存在消失は、結果だけを見れば、完全に切り離されています」
「切り離し……?」
「ええ。原因も、経過も、世界側の記録からは削除されている」
リリィは、机の端を指で軽く叩いた。
「魔術的に言えば、“異常事象として確定する前に、修復された”状態です」
それは、失敗が起きなかった世界。最初から、問題が存在しなかったかのような構造。
「だからこそ、矛盾が残らない」
リリィは続ける。
「誰かが『なぜセリナさんはあの時いなかったのか』と疑問を持つこともない。記憶も、履歴も、すべて自然に繋がっている」
ルーメンは、ゆっくりと頷いた。
それは、彼自身がすでに感じていたことでもある。
「……世界は、優先順位を選ぶんですね」
「そうです」
リリィは否定しなかった。
「世界は、整合性を最優先にします。個人の苦しみより、全体の連続性を守る」
淡々とした言葉だった。
だが、その奥には、冷たさではなく、現実への理解があった。
「今回、あなたが行ったことは、本来なら世界に拒否されてもおかしくない行為です」
「……ハーモニック・ジェネシス、ですよね」
「ええ」
リリィは、静かに肯定する。
「存在条件そのものに干渉し、認識の層を書き換えた。極めて危険で、前例もほとんどない」
それでも、成功した。
「成功した理由は、一つです」
リリィの視線が、まっすぐルーメンを捉える。
「あなたが、世界を壊すためではなく、“戻すため”に使ったからです」
その言葉に、ルーメンの胸がわずかに熱くなる。
「セリナさんは、本来、ここにいる存在だった。世界も、それを否定する理由がなかった」
だから、異常は残らなかった。傷跡すら、世界は許さなかった。
「……でも」
ルーメンは、ぽつりと漏らす。
「セリナ姉の中には、全部残ってます」
「ええ」
リリィは、はっきりと答えた。
「それは消えません。消してはいけないものです」
世界が忘れた代わりに、誰かが覚えている。それで、ようやく均衡が取れる。
「あなたが、その記憶を知っていることには、意味があります」
リリィは、穏やかに微笑んだ。
「セリナさんが前に進むための“錨”になるでしょう」
ルーメンは、深く息を吸った。
世界は、もう正常だ。異常は切り取られ、封じられた。
……けれど。守るべきものは、まだ残っている。
そのことを、はっきりと自覚しながら。
ルーメンは、研究室の扉の方へ視線を向けた。
もうすぐ、セリナが来る。次は、彼女自身の言葉を聞く番だ。




