学院1年セリナ編 第七十二章 セリナの真相⑤ 断絶からの日常
学院へ向かう道は、いつもと同じだった。
石畳の感触も、朝の空気も、行き交う生徒たちの声も。何一つ変わっていない。
それなのに、ルーメンは無意識に、セリナの半歩前を歩いていた。
守るように。確かめるように。
セリナは、そのことに気づいて、苦笑する。
「……そんなに心配しなくても、大丈夫よ」
そう言いながらも、歩調は自然とルーメンに合わせていた。
生徒たちが、当たり前のようにすれ違う。
誰も立ち止まらない。誰も振り返らない。それが、何よりの証明だった。
(……本当に、戻ってる)
ルーメンは、胸の奥でそっと息を吐いた。
廊下を進む間も、セリナに向けられる視線は、特別なものではない。好奇も、困惑も、違和感もない。
ただの、「そこにいる生徒」への視線だった。
教室の前で、二人は足を止める。
「……ここまででいいわ」
セリナが、そう言って振り返る。けれど、すぐに付け加えた。
「……念のため、少しだけ、見ててくれる?」
その声には、昨日までの恐怖の名残が、わずかに混じっていた。
「もちろん」
ルーメンは、頷いた。
教室の扉が開く。
生徒たちの声が、流れ出てくる。
「セリナ、おはよう!」
何気ない呼びかけ。
セリナは、一瞬だけ言葉に詰まり、それから、慌てて笑顔を作った。
「……おはよう」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
昨日も、一昨日も、存在が消えていた時間のことなど……誰も、覚えていない。
「昨日の剣術の授業、きつくなかった?」
「私、まだ腕が重くてさ」
続く会話も、ごく普通だった。
セリナは、一瞬戸惑いながらも、頷く。
「そ、そうね……昨日は、きつかったわよね」
そのやり取りを、教室の外から、ルーメンは黙って見ていた。
(……最初から、そこにいたみたいに)
世界は、完全に辻褄を合わせている。
セリナが消えていた時間も、泣き続けていた夜も、誰にも気づかれなかった日々も。
すべて、最初から存在しなかったかのように。
セリナが、ふと振り返る。
視線が合う。小さく、頷き合う。
……大丈夫。
その合図だけで、十分だった。
ルーメンは、ゆっくりとその場を離れる。
胸の奥に残るのは、安堵と、消えない違和感。
(……全部が、元に戻ったわけじゃない)
それでも、今は、これでいい。
ルーメンは、そう自分に言い聞かせながら、廊下を歩き出した。
教室の扉が閉まる。
その音を合図にするように、世界は完全に“日常”へと戻っていた。
廊下を歩く生徒たちは、いつも通りに談笑し、いつも通りに次の授業の話をしている。
誰一人として、「いなかったはずの時間」を引きずってはいない。
セリナが消えていた事実も、その間に起きた不可解な出来事も……世界の側では、すべて整理済みだった。
ルーメンは、無意識に拳を握った。
あれほどの断絶があったにもかかわらず、帳尻は、あまりにも自然に合わされている。
授業の記憶。出席の記録。友人たちの会話。
どれも、「昨日もそこにいたセリナ」を前提に成り立っている。
教室の中から、セリナの声が聞こえた。
笑い声。相づち。少し困ったような返事。
どれも、“いつものセリナ”のものだった。
だが……ルーメンだけは知っている。
その声が、どれほどの孤独の底から戻ってきたものなのかを。
誰にも触れられず、誰にも気づかれず、同じ世界にいながら、たった一人で生きていた時間。
それが、世界の中では「存在しなかったこと」になっている。
(……残酷だな)
優しさではない。配慮でもない。
ただ、世界がそう“整えた”だけだ。
ふと、廊下の向こうに視線をやると、女子生徒の小さな集団が、こちらを見ていた。
いや……正確には、セリナのいる教室の方を。
ひそひそと交わされる言葉。露骨ではないが、好意的とも言えない空気。
カルディの件だけは、何一つ書き換えられていない。
剣術大会。別れ。広まった噂。
そこだけは、現実として、はっきり残っている。
(……全部が、消えるわけじゃない)
セリナは戻った。存在も、認識も、世界の中に。
だが、傷は消えていない。
人の感情も、噂も、向けられた視線も。
それらは、“存在消失”とは別の場所で、確かに積み上がっている。
ルーメンは、ゆっくりと息を吐いた。
救えたものと、救えなかったもの。
取り戻せたものと、そのまま残ったもの。
すべてを抱えたまま、日常は、何事もなかったように進んでいく。
それでも……
(もう、一人にはしない)
その決意だけは、世界に書き換えられなかった。
ルーメンは、教室の扉に背を向け、静かに歩き出した。
この先も、簡単な道ではない。だが、もう“知らないふり”はしない。
それが、弟として選んだ答えだった。
放課後の鐘が鳴る。
教室から生徒たちが流れ出し、廊下は、いつものざわめきを取り戻していく。
セリナも、友人たちに囲まれていた。
「ねえセリナ、次の剣術の課題どうする?」
「昨日の授業、ほんと疲れたよね」
昨日。……“昨日”。
その言葉が、ルーメンの胸に小さく引っかかる。
世界は、迷いなく“昨日”を続けている。
セリナが消えていた時間など、最初から存在しなかったかのように。
セリナは、少しぎこちなく笑いながら、相槌を打っていた。
「……そうね、昨日はきつかったよね」
言葉は自然だった。
けれど、その一瞬、ほんのわずかな戸惑いが視線に滲んだのを、ルーメンだけは見逃さなかった。
(……無理してる)
戻ったからといって、すべてが元に戻るわけじゃない。
失った時間は、世界からは消えても、心の中には残っている。
そのときだった。
廊下の反対側で、女子生徒の小さな集団が立ち止まる。
視線が、セリナの方へ向けられる。
声は小さい。けれど、確かに、好意的とは言えない空気。
カルディの名前が、かすかに混じる。
セリナの肩が、ほんの少しだけ強張った。
世界は、そこだけは“修正”していない。
剣術大会。負けたカルディ。別れの言葉。広がった噂。
それらは、セリナが存在を失っていた間も、静かに、確実に積み重なっていた。
(……終わってない)
存在は戻った。認識も戻った。
だが、問題がすべて解決したわけではない。
それでも……セリナは、立っている。
誰にも見えなかった地獄から戻り、何事もなかった顔で、再び世界の中に立っている。
それだけで、どれほどの強さか。
セリナが、ふと振り返った。
廊下の端に立つルーメンに気づき、小さく、安心したように微笑む。
その表情に、昨日までの絶望はない。
あるのは、まだ癒えきらない不安と、それでも前を向こうとする意志。
ルーメンは、軽く頷き返した。
言葉はいらない。もう、見失うことはない。
世界がどう書き換えようと、姉が何を失おうと。
自分だけは、そのすべてを知っている。
それでいい。
セリナは戻った。
そして……姉弟は、再び並んで歩ける。
傷を抱えたままでも。
それが、この世界で選び取った、現実だった。




