学院1年セリナ編 第七十二章 セリナの真相④ 信頼と感謝
「……それでね」
セリナは、少しだけ視線を落としたまま、続けた。
「そして、ルーメンが言ったの。“リリィ先生の研究室に来て”って」
その一言は、命令でもお願いでもなかった。
ただ、いつも通りの声だった。
「でも、私……場所が分からなかったの」
当然だった。
セリナは、そこに“存在していなかった”のだから。
「だからね……」
ほんの少し、困ったように笑う。
「ずっと、ルーメンについて行ったのよ」
名前を呼びながら歩く背中。迷いなく進む足取り。
「廊下も、階段も、全部一緒に」
見えていなくても。気づかれていなくても。
「……不思議だったわ」
セリナは、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「その時はもう、怖さよりも……“何かが変わる”って感覚の方が、強かったの」
理由は分からない。理屈もない。
それでも……
「ルーメンが、立ち止まった瞬間があって」
研究室の前。扉の前。
「その時ね……」
セリナの声が、わずかに強くなる。
「はっきり分かったの」
何かが、違うと。
「ルーメンが、部屋に入って」
「手を、かざした瞬間」
空気が、変わった。
「……魔力が、来たの」
驚きではなく、確信に近い口調だった。
「離れた場所にいたはずなのに」
「ルーメンの魔力が……私の中に、入ってきたの」
それは、痛みでも衝撃でもなかった。
「温かくて」
「懐かしくて」
「……引っ張られる、感じ」
まるで、迷子になっていたものが、本来いるべき場所へ戻されるような。
「その時ね」
セリナは、はっきりと言った。
「分かったのよ」
声が、静かに震える。
「……私は、戻れるって」
世界に。自分の居場所に。
「ルーメンが、呼んでくれてるって」
それは、まだ再会ではなかった。まだ、姿も声も届いていない。
それでも……
「確かに、そこに“道”ができたの」
存在が、戻るための道が。セリナは、そっと胸元に手を当てた。
「……あの瞬間がね」
小さく、息を吐く。
「闇の中で、初めて感じた“帰れる”って感覚だったわ」
「ルーメンの優しくて、引き戻されるような魔力が私の体の中に流れ込んできて」
世界が、揺れた。
視界が歪み、音が遠のき、足元の感覚が一度、失われる。
「怖くなかった」
「だって、ルーメンの魔力だったから」
幼い頃から知っている。隣に立つと、なぜか安心できた感覚。
それと、まったく同じだった。
「世界が……裏返るみたいな感じがして」
押し出されていた場所から、本来いるべき場所へ。
「引っ張られるんじゃなくて……戻される感じ」
言葉を選びながら、続ける。
「最初から、そこにいるはずだった場所に」
胸の奥で、何かが“噛み合った”。
今まで、ずっとズレていたものが、音もなく、正しい位置に収まっていく。
「そのとき、確信したの」
セリナは、はっきりと言った。
「私……帰れる、って」
存在が、世界に拒まれていた感覚が、少しずつ、薄れていく。
「ルーメンが、私を……」
一度、言葉を切る。
「この世界に、呼び戻してくれてるって」
それは、魔術の理屈じゃない。名前のつかない、確信だった。
「だから……」
セリナは、小さく息を吸った。
「私は、ただ待ったの。泣きながらでも、不安でも……信じて」
次に目を開いたとき、世界がどうなっているのかは、分からなかった。
でも……
「もう、独りじゃないってことだけは、分かってた」
それだけで、十分だった。
「……だからね」
セリナは、少し照れたように、けれど真っ直ぐにルーメンを見た。
「ありがとう、って言葉じゃ……全然、足りないの」
それは、礼儀としての感謝ではなかった。
生き延びた者が、命を繋いでくれた相手に向ける言葉だった。
「本当に……本当に、ありがとう」
声が、自然と震える。
「私ね、もう……どうしていいか分からなくなってた」
存在を失い、誰にも見えず、声も届かず。
「同じ世界にいるのに……その中で、私だけ一人だったの」
静かな言葉が、重く落ちる。
「何をしても、気づいてもらえなくて」
「叫んでも、触れても……何も変わらなくて」
そこで、セリナは小さく笑った。
自嘲でも、諦めでもない、不思議な笑みだった。
「それでもね……」
視線を上げる。
「ルーメンだけは、信じられたの」
理由は、単純だった。
「だって、弟だもの」
その一言に、迷いはなかった。
「見えなくても」
「気づかなくても」
「必ず、何とかしてくれるって」
それは、期待ではない。確信だった。
「……だから、怖かったけど」
「それ以上に、嬉しかった」
ルーメンが自分の名前を呼び、走り続けてくれた日々。
「私、ずっと……横にいたのよ」
小さく、でも誇らしげに。
「一緒に走って」
「一緒に探して」
「気づいてもらえなくても……一緒だった」
そして、最後に。
「ルーメン」
名前を呼ぶ声は、もう震えていなかった。
「大好きよ」
「ルーメン、本当に……大魔術師よ」
それは称号ではない。力の大きさを指す言葉でもない。
「だって、世界から消えた私を……」
「ちゃんと、この世界に連れ戻してくれたんだもの」
セリナは、そっと頭を下げた。
「ありがとう」
「私を、見つけてくれて」
そして、最後に。
「私の弟でいてくれて……ありがとう」
その言葉を言い終えた瞬間、張りつめていた糸が、静かに切れた。
セリナは、ルーメンの隣で、安心したように目を閉じる。
ほどなくして、穏やかな寝息が、部屋に響き始めた。
……ようやく、休めたのだ。
存在を取り戻し、居場所を取り戻し、何より……“家族”を取り戻して。
セリナは、そのまま深く眠り続けた。
泣き疲れたわけでも、話し疲れたわけでもない。張りつめ続けていたものが、ようやくほどけただけだった。
呼吸は穏やかで、表情も安らいでいる。存在を取り戻す前の不安や怯えは、今は影もなかった。
ルーメンは、しばらくその寝顔を見つめていた。
(……ちゃんと、戻ってきたんだ)
世界から消えていた時間の重さを思うと、胸の奥がまだ少し痛む。
それでも……今、ここにいる。それだけで、十分だった。
ルーメンは、そっと毛布をかけ直した。その夜は、それ以上何も起きなかった。
魔力の乱れも、空間の歪みもない。
まるで、最初から何も起きていなかったかのように。
翌朝、柔らかな光が、研究室の窓から差し込んでいた。
目を覚ましたセリナは、一瞬だけ周囲を見回し、すぐに、安堵したように息を吐く。
「……夢じゃ、なかった」
隣の部屋から、食器の音が聞こえる。
「起きたみたいですね」
リリィの声だった。
用意されていた朝食は、どれも素朴で温かいものだった。
湯気の立つスープ。焼きたてのパン。香草の香りが、部屋に広がる。
セリナは、少し戸惑いながら席につく。
「……いただきます」
口に運んだ瞬間、思わず目を見開いた。
「……おいしい」
それは味だけじゃない。“当たり前に食べられる”という事実が、胸の奥にじんわりと広がっていく。
ルーメンは、その様子を黙って見ていた。
昨日まで、食堂で食事を出してもらえなかった姉が、今はこうして、普通に朝食をとっている。
誰も、不思議がらない。誰も、疑問を持たない。
世界は、完全に、元に戻っていた。
「……学院、行けそう?」
ルーメンが、慎重に尋ねる。
セリナは、一瞬だけ考えてから、頷いた。
「うん。……少し、緊張はするけど」
そう言って、微笑む。
「でも、大丈夫よ」
その言葉に、無理はなかった。
恐怖は、まだ残っている。傷も、消えてはいない。
それでも、前に進むだけの力は、もう戻っていた。
こうして、セリナの“普通の朝”が、静かに始まった。




