学院1年セリナ編 第七十二章 セリナの真相③ 絶望の中の光
「……それでね」
セリナは、少し間を置いてから、続きを語った。
「鏡を、見に行ったの」
自分が本当にここにいるのか。それを確かめるために。
「……ちゃんと、映ったわ」
そこには、見慣れた自分の顔があった。
泣きはらした目も、乱れた髪も、いつもの制服も。
「消えてなんか、いなかった」
安堵したかった。けれど、その安堵は、すぐに別の混乱に変わった。
「だって……おかしいでしょ」
映っているのに。確かに存在しているのに。
「誰にも、見えないのよ」
セリナは、自分の腕を掴むような仕草をした。
「ここも、ここも……ちゃんと触れるの」
痛みもある。温度もある。
「普通なの。全部」
身体は、何一つ失われていない。壊れてもいない。
「なのに……」
声が、震える。
「誰にも、触れられない」
世界と、自分の間に、見えない壁があるようだった。
「その時ね……」
セリナは、唇を噛みしめた。
「初めて、分からなくなったの」
自分が、何なのか。どこにいるのか。
「私は、生きてるの?」
「それとも……もう、死んでるの?」
答えは、どこにもなかった。
「生きてるって言うには、誰にも認識されない」
「死んでるって言うには、こうして考えてる」
どちらにも、当てはまらない。
「……ねえ、ルーメン」
セリナは、小さく笑った。
「存在してるのに、世界にいないって」
「想像したこと、ある?」
それは、問いというより、押し殺した叫びだった。
「誰かに話しかけたいのに、声が届かない」
「触れたいのに、何も返ってこない」
「同じ場所にいるのに、自分だけ、違う世界に放り込まれたみたいで」
息が、少し荒くなる。
「……頭が、変になりそうだった」
否定したかった。夢だと、錯覚だと、思いたかった。
「でも……どれだけ考えても」
結論だけは、変わらなかった。
「私は、確かに“ここにいる”のに」
「世界の側が、私を認識していない」
それは、無視ではない。拒絶でもない。
最初から、存在していない扱い。
「……怖かった」
セリナは、はっきりとそう言った。
「何が起きてるのか、分からないのに」
「誰にも、聞けない」
「助けを求めても、届かない」
そこで、ふと顔を上げる。
「……それで、まずは、みんなに色々したの」
セリナはそう前置きしてから、ゆっくりと言葉を続けた。
「誰かのノートに落書きしたり、黒板に文字を書いたり、ペンやコップ、食器を動かしたりもしたわ。でもね……」
小さく首を振る。
「誰も、何とも思わないの。目の前で起きているのに、不思議だね、で終わり。目の前にいる“私”には、誰も気づかない」
無視されている、という感覚ですらなかった。ただ、最初から存在しないものとして扱われている。
「それで……次は、ルーメンのところに行ったの」
声が、わずかに震えた。
「だって、ルーメンなら、って思ったから」
部屋の前に立ち、何度も名前を呼んだ。扉を叩いた。中からは声が聞こえる。エアリスと話している、いつもの日常の音だった。
「何度呼んでも、何度叩いても、気づいてくれなかった」
視線を落とし、続ける。
「だから、ルーメンに向けて、色々したわ。カーテンを揺らしたり、ノートに“助けて”って書いたり……それでも気づいてくれないから、花瓶を落としちゃった」
そこで、ルーメンが静かに口を挟んだ。
「……それは、覚えてるよ」
セリナが顔を上げる。
「不思議なことが起きてるな、って思った。カーテンも、ノートも、花瓶も。でも……」
ルーメンは、少しだけ視線を逸らした。
「セリナ姉の姿は、見えなかった」
その一言に、セリナは小さく息を吐いた。
「……そう。伝わってた。でも、私だけが抜け落ちてたの」
みんなに向けた行為は、誰にも届かなかった。
ルーメンに向けた行為は、現象としてだけ残った。
「それが、一番つらかった」
同じ世界にいるのに、同じ時間を生きているのに、ただ“存在”だけが共有されない。
「……あのとき、思ったの」
声が、かすれる。
「このまま誰にも気づかれなかったら、私は本当に、一人になるんだって」
それでも、諦めきれなかった。
「泣きながらでも、何度でも、ルーメンの名前を呼んだ」
届かなくても、見えなくても。
「だって……」
セリナは、はっきりと言った。
「私の世界には、もう、ルーメンしか残ってなかったから」
「……そんな毎日が、ずっと続いてたわ」
セリナは静かに語り始めた。
「もうね、引きこもって生きていこうって思ったの。このまま誰にも気づかれないなら、同じ世界にいても意味がないって」
声に、諦めが滲んでいた。
「ルゼリアに帰ろうかとも思ったわ。ここにいても、私は“いない人”なんだもの」
そこで、セリナは一度言葉を止める。
「……そんなとき」
視線を上げ、はっきりと言った。
「聞こえたの。ルーメンが……私の名前を呼んでくれた」
ルーメンの喉が鳴る。
「セリナ姉、って」
その一言を思い出しただけで、セリナの目に涙が滲む。
「本当に、嬉しかった」
「私……まだ、覚えてもらえてたんだって」
少し息を整えてから、セリナは続けた。
「あれからね、ルーメンは毎日、私の名前を呼びながら走ってくれたでしょう」
声が、少しだけ震える。
「……実は私、その間ずっと、ルーメンと一緒に走ってたのよ」
学院中を。何日も、何度も。
「見えていなくても、気づいてもらえなくても」
「それでも……希望が持てたの」
それが、闇の中で掴んだ、たった一つの光だった。
「……でもね」
セリナの声が、はっきりと震えた。
「やっぱり、苦しかった」
一緒に走っていた。すぐ隣にいた。
それなのに……
「声をかけても」
「抱きついても」
「ルーメンは、前だけを見て走ってて……一度も、私の方を見てくれなかった」
責める調子ではなかった。ただ、事実だった。
「悪意がないのが、分かるから……余計につらかった」
セリナは、深く息を吸い……
「……その場で、膝から崩れ落ちたわ」
抑えていた感情が、堰を切った。
「何でなの……!」
「何で私が、こんな目に遭わなくちゃいけないの……!」
声は、誰にも届かない。
「もうどうしていいか分からない!」
「どうやって生きていけばいいの……!」
顔を覆い、泣き叫ぶ。
「お願いだから……助けて……」
「見つけ出してよ、ルーメン……!」
叫んでも、泣いても。世界は、何一つ応えなかった。
「……そのとき、思ったの」
掠れた声で。
「私は、同じ世界にいるのに……その中で、私だけ一人なんだって」
完全な孤独。完全な断絶。
それが、存在を失った者の現実だった。
「……それでもね」
セリナは、静かに言った。
「完全には、諦めきれなかった」
「一度でも、私の名前を呼んでくれたから」
「それに……」
小さく、笑う。
「ルーメンは、弟でしょ?」
幼い頃から知っている。
途中で投げ出さないこと。諦めないこと。
「だから、信じられたの」
声に、迷いはなかった。
「絶対に、何とかしてくれるって」
それが、存在を失っても、心が壊れきらなかった理由。




