学院1年セリナ編 第七十二章 セリナの真相② 世界からの断絶
その日を境に、景色が変わった。
「……それからね、カルディの周りが、急に騒がしくなったの」
セリナは、淡々と語ろうとしていた。
けれど、その声には、どうしても感情の揺れが滲む。
「いつも、女子の人だかりができてた。授業の前も、終わったあとも、移動の途中でも……」
視線が集まる。笑い声が上がる。噂が、勝手に形を持っていく。
「みんなね……私のこと、色々言ってたわ」
直接言われたわけじゃない。けれど、聞こえる。
ひそひそとした声。向けられる視線。目が合った瞬間に、逸らされる顔。
「冷たい女だとか、自分勝手だとか……」
セリナは、そこで小さく笑った。
「……当たってるって、思っちゃったの」
自嘲に近い笑みだった。
「私が言い出したことだし、プライドで押し通したのも、私だから」
だからこそ、言い返せなかった。
弁解する資格がないと思ってしまった。
「気づいたらね……」
セリナは、ぎゅっと膝の上で指を組んだ。
「誰にも、話しかけなくなってた」
教室では、必要最低限の返事だけ。食堂では、端の席。廊下では、足早に通り過ぎる。
「……私、やっちゃったな、って思った」
後悔は、静かに、確実に積もっていく。
「そんな毎日が続いてたら、いつの間にか……部屋から出る気力も、なくなってたの」
ルーメンは、黙って聞いていた。
言葉を挟めば壊れてしまいそうで、ただ、セリナの声を受け止めることしかできなかった。
「朝起きても、何もしたくない。剣を握る気にもならない。誰かと話すのも、怖くなってた」
胸の奥で、何かが少しずつ削れていく。
「カルディは悪くないのにね」
セリナは、何度目か分からないその言葉を繰り返す。
「悪いのは、負けを認められなかった私で、自分の言葉を撤回できなかった私で……」
声が、かすれた。
「……毎日毎日、考えてたわ」
――何やってるんだろう。
――恥ずかしい。
――もう、消えてしまいたい。
「……いなくなりたい、って」
その一言が、重く落ちた。
部屋に引きこもり、外の世界から距離を取り、心まで、閉じていく。
それは、まだ“存在が消える前”の話だ。
けれど、この孤立が……後戻りできない一歩目だった。
「……だんだん、自分が嫌いになっていったの」
セリナは、視線を落としたまま、静かに言った。
「誰かに責められたわけじゃない。無理やり決めさせられたわけでもない」
全部、自分で選んだことだった。
「それが……一番、苦しかった」
間違えたと分かっているのに、言い訳もできず、取り消す勇気も持てなかった自分。
「正しいことをしたつもりで、実は、自分のプライドを守っただけだったんだって……」
その事実が、じわじわと胸を締めつけていった。
「何を見ても、何をしても、頭の中に浮かぶのは、そればかりで」
剣を見るのも嫌だった。鏡を見るのも嫌だった。
そこに映るのは、強がって、引き返せなくなって、自分で自分を追い詰めた姿だったから。
「……毎日、思ってたわ」
声が、かすれる。
「もう消えてしまいたい。いなくなれたら、楽なのに、って」
それは逃げたい気持ちというより、自分を許せない感情だった。
「そうして……部屋から出る気力も、なくなっていったの」
カーテンを閉め、扉を閉め、時間の感覚だけが曖昧になっていく。
「……そんな日が、しばらく続いたあとね」
セリナは、そこで一度、言葉を切った。
記憶を辿るように、ゆっくりと息を整える。
「部屋から出なくなって、どれくらい経ったのかも、もう分からなくなってた」
時間の感覚は曖昧で、朝なのか夜なのかも、気にしなくなっていた。
「携帯食だけで、なんとか過ごしてたんだけど……」
そこで、ほんの少しだけ、困ったように笑う。
「それも、ついに無くなっちゃってね」
お腹が空く、という感覚が、久しぶりに現実を引き戻した。
「……食堂に行ったの」
それは、勇気を振り絞った行動だった。
誰にも会いたくなかったけれど、それでも、生きるためには食べなければならなかった。
「注文したわ。ちゃんと、いつもみたいに」
声をかけて、メニューを指して、普通に、頼んだつもりだった。
「でもね……」
セリナの指先が、膝の上で強く握られる。
「出てこなかったの」
最初は、無視されているんだと思った。
忙しいのかもしれない。聞こえなかったのかもしれない。
「だから、もう一度声をかけたわ。少し大きな声で」
それでも……反応はない。
「隣にいた人にも話しかけたの。 ……でも、返事はなかった」
その時点では、まだ、“嫌われている”とか、“無視されている”とか、そういうふうに考えていた。
「……変だな、とは思ったけど」
視線は合っている気がするのに、誰も、こちらを見ていない。
「その日だけだと思ったのよ」
だから、翌日も行った。朝も、昼も、夜も。
「……でも、何も変わらなかった」
何度頼んでも、何度声をかけても、食事は出てこない。
誰からも、反応が返ってこない。
「そこで、ようやく……」
セリナの声が、わずかに震える。
「これは、無視されてるんじゃないって、思ったの」
無視なら、苛立ちや戸惑いがある。
拒絶なら、感情が向けられる。
でも……
「誰の感情にも、引っかからない」
怒りも、困惑も、視線もない。
ただ、最初から、そこにいないみたいだった。
「……おかしいでしょ」
自嘲するように、セリナは呟いた。
「生きてるのに。ちゃんと、ここにいるのに」
それでも、この時点では、まだ確信には至っていなかった。
「……それでね」
セリナは、少しだけ視線を落とした。
思い出すのが、つらい記憶なのだと、すぐに分かる。
「朝も、昼も、夜も……何度行っても、同じだったから」
お腹は空いたまま。頭も、体も、まともに働かなくなっていた。
「もう、限界だったの」
だから……普段なら、絶対にしないことをした。
「食堂の……厨房に、入ったのよ」
その言葉に、ルーメンの指が、わずかに動いた。
「本当は、ダメだって分かってたわ。でも、あまりにもお腹が空いてて……」
職員に止められる。怒鳴られる。追い出される。そう思っていた。
「……でも」
セリナは、ゆっくりと首を振る。
「誰も、何も言わなかった」
料理をしている人たちは、そこにいた。
鍋を振り、皿を並べ、忙しそうに動いていた。
「私が入ってきたのに」
誰一人として、振り向かない。
注意もしない。視線すら、向けない。
「……見向きもしなかったの」
その瞬間、胸の奥が、すうっと冷えていくのを感じた。
「おかしい、って思ったわ」
生徒に無視されるのは、まだ分かる。噂も、悪口も、あったから。
「でも……食堂の人にまで、無視されるのは」
それは、説明がつかなかった。
「だから……」
セリナは、唇を噛みしめる。
「自分で、よそったの」
鍋を開け、皿を取り、食事を盛りつける。
「誰も、止めなかった」
注意も、驚きも、怒りもない。
まるで……最初から、誰もいないかのように。
「……食べたらね」
少しだけ、力が戻った。
「だから、思ったの。気のせいじゃない。体調の問題でもない、って」
その時、胸の奥で、はっきりと何かが音を立てた。
「……ああ、私」
言葉が、自然と出た。
「誰にも、見えてないんだ、って」
世界は、動いている。人も、時間も、日常も。
その中で……自分だけが、引っかからない。
「……そこではじめて、分かったの」
セリナの声は、かすれていた。
「無視されてるんじゃない」
「……最初から、存在してないんだって」
それは、拒絶よりも、憎悪よりも、ずっと残酷な理解だった。
「同じ場所にいるのに」
「同じ世界にいるのに」
「……私だけ、世界の外にいるみたいだった」
セリナは、ぎゅっと自分の腕を抱いた。
「……怖かった」
その一言に、すべてが詰まっていた。
「……でも、すぐには信じられなかった」
セリナは、そう前置きして、苦笑するように目を伏せた。
「だって、そんなの……ありえないでしょ」
自分は生きている。考えている。感じている。触れれば、ちゃんとそこにある。
「だからね……必死だったの」
何かの勘違いだ。一時的な錯覚だ。きっと、誰かが気づいてくれる。そう思いたかった。
「まず、友達のところに行ったわ」
名前を呼び、肩に手を置き、すぐそばで顔を覗き込んだ。
「……何も、返ってこなかった」
返事もない。視線も動かない。
「じゃあ、って思って」
少し声を張った。廊下で、教室で、食堂で。
「セリナは、ここにいるよ!」
叫んだ。
「聞こえてるでしょ!お願いだから、気づいて!」
声は、ちゃんと出ていた。喉が痛くなるくらい、確かに。
「……でも」
誰も、振り向かない。
ざわめきの中に、自分の声だけが、吸い込まれていく。
「それでも、まだ信じられなくて」
今度は、触れた。
腕に、背中に、抱きついた。
「ねえ、お願い……」
縋るように、必死に。
「……何も、起きなかった」
驚かれることもない。拒まれることもない。
最初から……そこに誰もいないかのように。
「……ねえ、ルーメン」
セリナの声が、少しだけ低くなる。
「無視されるのって、つらいでしょ」
「でもね……それより、ずっと、つらかったの」
無視なら、感情が向けられている。
嫌われている、という実感がある。
「でも、これは違った」
「……誰の感情にも、引っかからない」
存在として、扱われていない。
「怒りも、嫌悪も、困惑もない」
ただ、完全な空白。
「……叫んでも、抱きついても」
「誰の世界にも、私は入れなかった」
セリナは、そこで一度、言葉を止めた。
指先が、わずかに震えている。
「……あの時ね」
声が、少し掠れた。
「私……本当に、怖かった」
「このまま、ずっと」
「誰にも触れられないまま、同じ世界を、たった一人で生きていくんだって」
それは、孤独という言葉では足りない。
存在を共有できない恐怖。
「……だから、次にやったのは」
セリナは、静かに息を吸った。
「自分が、本当に“ここにいる”か、確かめることだったの」




