学院1年セリナ編 第七十二章 セリナの真相① セリナのプライド
第七十二章 セリナの真相
夜の研究室は、ひどく静かだった。
昼間は魔術式や書類で埋まっている机も、今は片づけられ、ランプの灯りだけが柔らかく部屋を照らしている。外から聞こえるのは、風に揺れる木々の音と、遠くで鳴る学院の鐘の余韻だけだった。
ルーメンとセリナは、ルーメンの部屋にあるベッドの縁に並んで座っていた。
セリナは毛布を肩にかけ、両手でそれを握りしめている。顔色はまだ完全ではないが、先ほどまでの激しい震えは収まり、呼吸も落ち着いてきていた。目は少し赤いが、怯えきった色は薄れている。
ルーメンは、隣にいる姉の様子を何度も確かめるように横目で見てから、そっと声をかけた。
「……セリナ姉、大丈夫?」
問いかけは、慎重だった。壊れ物に触れるような、静かな声。
セリナは一瞬、視線を落とし、それから小さく頷いた。
「うん……少し、落ち着いてきた」
その声はまだ弱かったが、確かに現実に根を下ろしていた。
ルーメンは、胸の奥で小さく息を吐く。
今は無理に何かをさせる必要はない。ただ、ここに一緒にいることが大切だった。
ランプの光が、二人の影を床に重ねる。
長い沈黙が流れたが、それは重苦しいものではなかった。ようやく訪れた、語るための静けさだった。
ルーメンは、意を決したように視線を前に向けたまま、言った。
「……セリナ姉。どうして、こんなことになったんだと思う?」
責める響きはない。ただ、真実を知りたいという気持ちだけが込められていた。
セリナは、すぐには答えなかった。
毛布を握る指に、わずかに力が入る。視線が揺れ、唇が一度、固く結ばれる。
そして、ほんの少し間を置いてから……
「……あるわ」
低く、静かな声で、そう答えた。
それは、長い時間胸の奥に押し込めてきた記憶の扉を、今まさに開こうとする声だった。
それきり、しばらく沈黙が続く。
セリナは視線を伏せ、過去を辿るように指先を毛布の縁に滑らせていた。
ルーメンは、急かさなかった。
ここまで来るのに、どれだけの時間がかかったのかを、誰よりも知っている。
「……無理に話さなくていい」
そう言いかけて、ルーメンは言葉を止めた。
セリナの肩が、わずかに揺れたからだ。
「ううん」
セリナは首を振り、ゆっくりと顔を上げた。
その表情には、覚悟に近いものが浮かんでいる。
「話すわ。今、話さないと……きっと、また飲み込んじゃうから」
ルーメンは、黙って頷いた。
セリナは一度、深く息を吸い込む。
胸いっぱいに空気を入れてから、静かに吐き出すように言った。
「きっかけは……剣術大会のときよ」
その一言で、ルーメンの脳裏に、あの日の光景が浮かぶ。
歓声、剣がぶつかる音、張り詰めた空気。
「私ね……カルディに言ったの」
セリナは、目を閉じたまま続ける。
「『私に負けたら、別れるから』って」
ルーメンは息を詰めた。
「……本気だったの?」
問いは、自然と零れた。
セリナは、すぐに首を振る。
「ううん。本気じゃない」
その声には、はっきりとした否定があった。
「カルディに、本気で剣術に向き合ってほしかっただけなの。勝つつもりで、全力で来てほしかった」
一瞬、苦笑が浮かぶ。
「カルディは、自分が勝つって思ってたから。だから……別れるなんて言葉を出せば、絶対に本気になるって、そう思ったの」
ルーメンは、何も言えなかった。
「でもね……」
セリナの声が、わずかに震えた。
「私、勝っちゃったのよ。本当に、カルディに」
その瞬間から、すべてが狂い始めた。
そのことを、セリナはまだ言葉にしていない。
けれど、ルーメンには分かった。ここが、始まりだったのだ。
剣術大会の光景は、今でもはっきりと思い出せる。
観客席を埋め尽くす生徒たち。張りつめた空気。一振りごとに、勝敗が近づいていく感覚。
「……私ね」
セリナは、ゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「カルディが負けるなんて、思ってなかったのよ」
それは、言い訳でも誇張でもない。本心だった。
カルディは強かった。剣の筋も、間合いの取り方も、実戦で積み上げてきたものがあった。
勝つのは当然……周囲も、本人も、そう思っていた。
「だから……勝った瞬間、頭が真っ白になった」
セリナは、両手をぎゅっと握りしめる。
「嬉しいとか、達成感とか……そういうの、なかった。ただ……え?って」
自分が勝ったという事実が、現実として受け止めきれなかった。
「次の瞬間には、もう、あの言葉が頭にあったの」
……私に負けたら、別れる。
試合前に、自分が口にした言葉。
軽い気持ちで放った、はずの言葉。
「取り消せばよかった」
セリナは、かすれた声で言った。
「その場で笑って、『今のは冗談』って言えばよかった。『次は負けないでよ』って、そう言えば……」
言葉は、途中で途切れた。
「でも……言えなかった」
理由は、はっきりしている。
「……私の、プライドよ」
勝ってしまった自分。負けたカルディ。その状況で、先に引くことができなかった。
「負けたのに、約束をなかったことにするなんて……そんなこと、できなかった」
ルーメンは、静かに歯を食いしばった。
セリナの言葉は、正論でもあり、同時に残酷でもあった。
「本気じゃなかったのにね」
セリナは、自嘲するように微笑んだ。
「別れるつもりなんて、なかったの。本当に……ただ、剣術に本気で向き合ってほしかっただけなのに」
結果だけが、残った。
勝った事実。言ってしまった言葉。引き返せなかった沈黙。
そのすべてが、積み重なって……セリナの日常は、静かに崩れ始めていた。
試合が終わったあとも、時間は流れ続けていた。
観客はざわめき、教師は結果を告げ、生徒たちは勝者と敗者をそれぞれ囲む。
剣術大会という舞台は、何事もなかったかのように次の場面へ進んでいく。
けれど……セリナだけは、その流れに乗れなかった。
「……次の日にはね、取り消そうと思ってたの」
ぽつりと、セリナは言った。
「一晩寝たら、きっと落ち着くと思ったし、『やっぱり昨日のは言い過ぎだった』って、ちゃんと話そうって」
それは、本気だった。逃げるつもりも、なかった。
「でも……」
翌日になると、状況は変わっていた。
「私の周りにも、カルディの周りにも、人が集まってきて……」
祝福とも、好奇とも、噂ともつかない視線。誰かが見ていて、誰かが聞いていて、誰かが勝手に話を広げていく。
「言う機会が、なくなっちゃったの」
偶然を装った沈黙が、積み重なっていく。
廊下ですれ違っても、周囲に人がいる。
声をかけようとすると、誰かに話しかけられる。
二人きりになる瞬間が、ない。
「手紙も書いたわ」
セリナは、少しだけ視線を落とした。
「毎日、言おうと思ってた。今日は言える、明日は言えるって……」
けれど、その“明日”は、来なかった。
「気づいたらね……」
セリナの声が、わずかに震えた。
「カルディが、周りに言ってたの。『セリナとは別れた』って」
ルーメンは、息を呑んだ。
「……え」
「本当に、そう言ってた」
責める調子ではない。ただ、事実として。
「カルディは、悪くないのよ」
セリナは、すぐに続けた。
「私が言ったことだから。約束だから。 ……だから、彼は守っただけ」
その言葉が、胸に突き刺さる。
「でもね……」
セリナは、ゆっくりと息を吐いた。
「その瞬間から、全部がズレ始めた気がした」
取り消せなかった一言。守られてしまった約束。
そして……自分自身が引くに引けなくなった現実。
「私は、黙ったまま、立ち止まった」
それが、取り返しのつかない沈黙だった。




