学院1年セリナ編 第七十一章 セリナの捜索⑤ セリナの救出
魔力は、すでに部屋全体に行き渡っていた。
だが、ルーメンはまだ動かない。
これは、力を注ぎ込めばいい魔術ではない。
対象を定めて干渉する類のものでもない。
必要なのは、理解だった。
(……今までのやり方じゃ、届かない)
セリナ姉は、どこかに隠れているわけじゃない。
別の場所に隔離されているわけでもない。
“見つからない”のではなく、“見つけられる条件が、世界に存在しない”。
ルーメンは、ゆっくりと両手を広げた。
魔力が、さらに細かく、緻密に分解されていく。
粒子のように。霧のように。
床の上に立つという条件。
空間を占有するという条件。
音として伝わるという条件。
……それら一つひとつに、触れていく。
魔力は、壁を壊さない。押しのけない。無理に書き換えもしない。
ただ、問いかける。
「なぜ、ここに存在できない?」
問いは、言葉ではない。概念として、空間へと投げかけられる。
反応は、すぐには返らない。
だが、ルーメンは焦らなかった。
これは戦いではない。競争でも、制圧でもない。
“条件の照合”だ。
魔力が、部屋の一点でわずかに滞った。
ほんの、ほんの一瞬。
だが、ルーメンは見逃さない。
(……引っかかった)
そこには、拒絶も、防御もない。ただ、噛み合わない空白がある。
存在しようとした痕跡。だが、成立しなかった残滓。
まるで、
「ここに立つための席だけが、用意されていない」
そんな感触だった。
ルーメンは、静かに理解する。
これは個体の問題じゃない。呪いでも、結界でもない。
世界が、最初から持っている“存在を認める条件”そのものが、欠けている。
なら……やることは、一つだ。
ルーメンは、魔力の流れをまとめ始める。
干渉点を中心に、空間を“編み直す”ように。
個体を呼ぶのではない。姿を映すのでもない。
存在できる前提を、ここに作る。
そのための術式が、ルーメンの中で、はっきりと形を成した。
魔力が、静かに、だが確実に収束していく。研究室の空気が、わずかに震え始めた。
ルーメンは、深く息を吸った。
魔力は、すでに限界まで展開されている。
だが、荒れてはいない。むしろ、静かすぎるほどだった。
これから行うのは、破壊ではない。修復ですらない。
……創成だ。
(存在できなかった理由を、埋める)
世界が持つ「前提条件」。
そこに、たった一つ欠けている項目がある。
それを、今ここで……新しく与える。
ルーメンは、空間の中心に立ったまま、目を閉じた。
個体を思い浮かべない。
姿も、声も、名前すらも、今は要らない。
必要なのは、ただ一つ。
“ここに在っていい”という許可。
世界に対する、宣言。
魔力が、収束を終える。
次の瞬間……ルーメンは、静かに言葉を落とした。
「……ハーモニック・ジェネシス」
その名は、命令ではなかった。定義だ。
瞬間、研究室の空間が、かすかに歪んだ。
揺れではない。衝撃もない。ただ、空気の“重なり方”が変わる。
今まで、何もなかったはずの一点が、ゆっくりと……光を帯び始めた。
眩いほどではない。だが、確かにそこにある。
存在を拒まれていた空白が、初めて“場”として成立する。
魔力が、そこへと流れ込む。
いや……流れ込ませているのではない。世界の側が、受け入れている。
床に、影が落ちた。はっきりと。否定の余地なく。
ルーメンの胸が、大きく脈打つ。
(……できた)
まだ、姿ははっきりしない。声も聞こえない。
だが……そこには、もう「何もない」という言い訳は、存在しなかった。
空間は、完成した。存在が、生まれる準備を終えた。
ルーメンは、ゆっくりと目を開く。光の中心を、まっすぐに見据えながら。
光は、静かだった。爆ぜることもなく、世界を塗り替えるような眩さでもない。
ただ……そこに「あるべきもの」を、思い出させるような光だった。
研究室の一角。空間が、わずかに揺らぐ。
最初に現れたのは、影だった。
床に落ちる、細く、震える影。それが、迷いなく“人の形”を取り始める。
次に、空気が変わった。
音のない圧。誰かが、そこに「立っている」という事実だけが、空間に刻まれる。
そして……ルーメンの視界に、色が差し込んだ。
髪の色。服の輪郭。肌の白さ。
それは、今まで何度も脳裏に浮かべては消えた像とは、まったく違っていた。
想像ではない。記憶の補完でもない。
現実だ。
喉が、ひくりと鳴る。心臓が、強く脈打つ。
「……っ」
言葉が、すぐに出てこなかった。
どれほど呼び続けたか。どれほど探し続けたか。
そのすべてが、胸の奥で一気に押し寄せる。
「……セリナ姉……?」
震える声で、ようやく紡いだ名前。
その瞬間……目の前の人物が、はっきりと顔を上げた。
視線が合う。逃げない。揺れない。
確かに、こちらを見ている。
次の瞬間、世界が音を取り戻した。
「ルーメン……っ!!」
叫ぶような声。
何度も、何度も、心の中だけで呼び続けてきた声。
その声が、今……確かに、耳に届いた。
同時に、ルーメンの視界が歪む。
セリナが、泣いていた。
堪えることも、隠すこともできず、大粒の涙を零しながら、立っていた。
彼女は、一歩踏み出す。
迷いはない。躊躇もない。
まるで……最初から、ここに来ると知っていたかのように。
そして……次の瞬間、ルーメンの胸に、強い衝撃が走った。
抱きつかれた。思いきり。力いっぱい。
逃がさないとでも言うように、両腕が、ルーメンの背中に回される。
額が、胸に押し付けられる。
体温がある。重さがある。震えが、はっきりと伝わってくる。
「……っ、ルーメン……っ!!」
嗚咽混じりの声。
必死に息を整えようとしながらも、感情が溢れて止まらない。
「助けてくれて……ありがとう……っ」
途切れ途切れの言葉。
「私……私……」
それ以上、言葉にならなかった。
喉が詰まり、声が崩れ、ただ、泣くことしかできない。
それは……見つけてもらえなかった時間すべてを、吐き出す泣き方だった。
ルーメンは、しばらく動けなかった。
頭が、理解に追いつかない。
だが……体は、ずっと前から答えを知っていた。
この距離。この温度。この、無条件の安心感。
ゆっくりと、腕を上げる。
震える指先で、そっと、セリナの頭と背に触れる。
「……見えてる?」
掠れた声。それでも、はっきりと言った。
「セリナ姉……姿が見える」
セリナの体が、びくりと震えた。
顔を上げる。涙に濡れたまま、必死に問いかける。
「……本当……?」
「私の顔……分かる……?」
「私の声……聞こえてる……?」
その問いは、何度も、誰にも届かなかった確認だった。
ルーメンは、迷わず頷いた。
「分かるよ」
「ちゃんと、顔も見える」
「声も聞こえる」
「セリナ姉……もう大丈夫だ」
腕に、力を込める。
「僕がついてる」
「安心して」
その言葉を聞いた瞬間、セリナは、声を上げて泣いた。
抑えてきたものが、耐えてきた時間が、一気に崩れ落ちる。
誰にも認識されなかった日々。
呼びかけても、触れても、届かなかった絶望。
それらすべてが、今、この腕の中で、報われていく。
ルーメンは、何も言わなかった。
言葉は、もう必要なかった。ただ、抱きしめる。何度も、確かめるように。
ここにいる。見える。触れられる。
……それが、姉弟の再会だった。
しばらくのあいだ、二人は何も言わずに抱き合っていた。
泣き声だけが、研究室に残る。
セリナの指先が、ルーメンの服を強く掴んでいた。
離したら、また消えてしまうのではないかと怯えるように。
やがて、セリナが、か細い声で呟いた。
「……ひどいよ……」
その声は、責めるようでいて、どこか安堵に崩れていた。
「どれだけ……どれだけ呼んでも……」
言葉が震え、途切れる。
「声をかけても……抱きついても……」
「ルーメン、全然……気づいてくれなかったんだもん……」
セリナは、ルーメンの胸に顔を埋めたまま、嗚咽混じりに続ける。
「もう……私、このまま……」
「誰にも見つけてもらえないまま……」
「消えちゃうんだって……思って……」
腕の力が、さらに強くなる。
「苦しかった……」
「怖かった……」
「……一人で、ずっと……」
その言葉一つ一つが、ルーメンの胸に、深く突き刺さった。
ルーメンは、唇を噛みしめる。
喉が、詰まる。胸の奥が、熱くなって、視界が、じわりと滲んだ。
「……ごめん」
掠れた声。
「セリナ姉……本当に、ごめん」
ゆっくりと、セリナの背中に回した腕に、力を込める。
「……忘れてた」
その言葉を口にするのが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
「忘れてて……気づけなくて……」
「どれだけ呼んでくれてたかも……」
言葉が震える。
「……でも」
「それでも……どうにかして……」
「思い出して……」
息を吸い、胸の奥から、言葉を引き上げる。
「一生懸命、探したんだ」
「走って……叫んで……」
「誰に否定されても……」
「セリナ姉がいるって、分かってたから」
セリナの体が、びくりと揺れた。
ルーメンは、泣きそうな声で、続ける。
「……見つけられて、よかった」
「本当に……よかった……」
その瞬間……セリナの嗚咽が、大きくなった。
堪えきれず、声を上げて泣く。
「……うぅ……」
「……よかった……」
「見つけてくれて……」
「本当に……ありがとう……」
それは、助けを求め続けた時間が、ようやく報われた泣き方だった。
存在を否定され、誰にも触れられず、それでも消えずに耐え続けた時間。
そのすべてが、今、この腕の中で、救われていく。
ルーメンは、何度も、何度も頷いた。
「もう……大丈夫だ」
震える声で、そう言いながら、セリナを抱きしめ続ける。
二人の涙は、しばらく止まらなかった。
けれど、それはもう……失われる恐怖の涙ではなかった。
ようやく、辿り着けたことを、確かめ合うための涙だった。
しばらくして、ようやくセリナの嗚咽が、少しずつ落ち着いてきた頃だった。
ルーメンは、そっと息を整える。
抱きしめた腕の中にある温もりは、確かだ。消える気配は、もうない。
「……リリィ先生」
その声に応じて、研究室の奥から、リリィが顔を出した。
書類を片手に、いつもと変わらない足取りで。
そして……二人の姿を見るなり、少しだけ目を細める。
「あら?」
不思議そうに、首を傾げる。
「セリナさん、来てたの?」
その言葉は、確認でも、驚愕でもなかった。
ただ、久しぶりに会った教え子に向ける、ごく普通の声音。
セリナは、その一言を聞いた瞬間、きょとんとした表情で、リリィを見上げた。
そして、自分が泣いていることを思い出したように、慌てて目元を拭う。
「……あ、あの……」
声が、まだ震えている。
リリィは、そんなセリナを見て、穏やかに笑った。
「どうしたの?そんなに泣いちゃって」
責めるでも、詮索するでもない。
ただの、心配。
その何気ない問いかけに……セリナの肩が、ふるりと揺れた。
世界は、もう何事もなかったかのように動いている。
セリナは、最初からここにいた。
今日も、普通に研究室に来ただけ。
そういう“現実”が、当たり前の顔で成立している。
ルーメンは、その様子を見て、胸の奥で、静かに確信した。
(……大丈夫だ)
自分だけが知っている断絶も、探し続けた時間も、叫び続けた意味も。
すべては、世界の表側からは、きれいに消えている。
それでいい。
ルーメンは、セリナの肩にそっと手を置く。
「セリナ姉」
その呼び方に、リリィは何の疑問も抱かない。
「もう安心だよ」
それは、セリナだけに向けた言葉だった。
「もう……普通に戻ってるから」
セリナは、一瞬きょとんとしたあと、ゆっくりと、力を抜いた。
「……うん」
短い返事だったが、そこには、確かな安堵があった。
世界は、何も知らない。だが……それでいい。
ルーメンは、静かに息を吐き、そっと、セリナの隣に立った。
日常は、何事もなかったかのように、再び、動き出していた。
研究室の空気は、すっかり落ち着いていた。
窓の外は、もう夕暮れに近い。いつの間にか、時間だけが静かに進んでいたらしい。
セリナは、まだルーメンの服の裾を、ぎゅっと握っていた。
力を込めているわけじゃない。ただ……離れてしまわないように、確かめるように。
「……ねえ、ルーメン」
小さな声だった。
「なに?」
セリナは、少しだけ視線を落とす。
さっきまでの激しい泣き方が嘘みたいに、声は静かだった。
「……今日は……その……」
言葉を選んでいるのが、分かる。
「一人になるの、ちょっと……怖い」
それは、甘えの言葉だった。でも、弱さではない。
失った時間が、確かに心に影を落としている証だった。
ルーメンは、すぐに答えなかった。
代わりに、そっとセリナの頭に手を置く。
……撫でる。
幼い頃と同じように。強くもなく、弱くもなく。
「……大丈夫だよ」
その一言に、セリナの肩から、すっと力が抜けた。
リリィは、その様子を少し離れた場所から見ていた。
そして、ふっと微笑む。
「今日は、そのまま一緒にいなさい」
何の説明もない。理由も、前置きもない。
まるで、最初からそうする予定だったかのように。
セリナは、はっと顔を上げる。
「……いいんですか?」
「ええ」
リリィは、あっさりと頷いた。
「セリナさん、今日は随分疲れているみたいですし」
それ以上、何も言わない。
“特別な事情”は、存在しない。ただ、少し疲れた日常の延長。
セリナは、恐る恐るルーメンを見る。
ルーメンは、優しく笑った。
「……一緒にいよう」
その言葉を聞いた瞬間、セリナの目に、また涙が浮かんだ。
でも今度は、零れなかった。
「……うん」
短く、でも確かに。
セリナは、ルーメンの隣に立つ。肩が、触れる距離で。それだけで、十分だった。
世界は、もう何も問題を抱えていない。
異常も、欠落も、存在しない。
けれど……ルーメンだけは知っている。
この「普通」が、どれほど危うく、どれほど尊いものかを。
だからこそ、今は何も言わない。ただ、隣にいる。
それが、この夜にできる、すべてだった。




