学院1年セリナ編 第七十一章 セリナの捜索④ リリィの提案
「……状況は、はっきりしました」
リリィはそう前置きしたきり、すぐには続けなかった。
肘を机につき、指先を組み、視線を落としたまま考え込む。
その沈黙が、重かった。けれど、ルーメンは急かさなかった。
これまでと違う。これは……“整理される沈黙”だ。
やがて、リリィは静かに口を開いた。
「探しても見つからないのは……不思議ですね」
断定でも否定でもない、淡々とした声だった。
「声も聞こえない。姿も見えない。存在も感じない。それなのに、記憶だけがある」
リリィは、言葉を一つずつ積み上げるように続ける。
「それは、隠れている、という状態ではありません」
ルーメンの胸が、ひくりと鳴った。
「隠れているなら、痕跡は残る。気配、魔力、空間の歪み……何かしらに触れるはずです」
だが、と前置きして、リリィは首を振る。
「あなたの場合、それが一切ない」
「……はい」
「つまり……」
リリィは、そこで一度言葉を切った。
「“探して見つかる空間”には、いない」
その結論は、重かった。
だが、同時に、ルーメンの中で腑に落ちるものがあった。
(……やっぱり)
だから、どれだけ走っても。どれだけ呼んでも。何一つ、引っかからなかった。
リリィは、視線を上げる。
「なら、発想を変えましょう」
その一言に、ルーメンは顔を上げた。
「“探す”のではなく、“来てもらう”」
空気が、わずかに張り詰める。
「認識できなくても、到達できる場所はあります。人の意思や世界の認識とは関係なく、存在が通過できる場所」
リリィは、研究室の床を、軽く指で示した。
「ここです」
「……この、研究室?」
「ええ」
リリィは、はっきりと頷く。
「鍵を開けておきます。結界も、制限も張りません」
「認識されない存在なら、むしろ……誰にも止められず、入ってこられるでしょう」
それは、推測であり、仮説であり、賭けだった。
だが、ルーメンの胸には、はっきりとした感覚があった。
(……それしか、ない)
探すことは、もうやり尽くした。残っている道は、一つだけだ。
「……分かりました」
ルーメンは、即座に答えた。
「来てもらいます。必ず」
その声には、迷いがなかった。
リリィは、静かに微笑む。
「では、日時を決めましょう」
「いつにしますか、ルーメン」
問いは短い。だが、その裏に含まれる意味は重い。
準備の時間。覚悟の時間。そして……失敗する可能性。
どれも、軽くはない。
だが、ルーメンは迷わなかった。
「……明日でお願いします」
言葉は、すぐに口をついて出た。
間を置かない返答に、リリィは一瞬だけ目を瞬かせる。
それから、小さく息を吐いた。
「早いですね」
責める響きではない。事実を確認する、静かな声だった。
ルーメンは、はっきりと頷いた。
「これ以上、待てません」
今日も、見つからなかった。今日も、届かなかった。
その積み重ねが、胸を締めつけている。
「探している間も……きっと、あの人は、ずっとそこにいる」
声が、わずかに震えた。
「僕だけが、気づけないまま」
リリィは、何も言わずに聞いていた。
遮らず、急かさず、ただ受け止める。
やがて、ゆっくりと頷く。
「分かりました」
その一言には、覚悟があった。
「では、明日。研究室は一日、鍵を開けておきます」
「結界も、遮断も張りません。あなたの言う“存在”が、最も入りやすい状態にします」
それは、研究者としては危うい判断だった。
だが、リリィは躊躇しなかった。
ルーメンは、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、リリィ先生」
今まで何度も助けられてきた。それでも、今回ばかりは意味が違う。
これは、研究ではない。救出だ。
「結果がどうなるかは、分かりません」
リリィは、念を押すように言った。
「来ない可能性もあります。何も起きない可能性もあります」
「それでも、やります」
ルーメンの声は、揺れなかった。
「来てもらう。それが、今の僕にできる、唯一の方法です」
しばらく、沈黙が落ちた。
やがて、リリィは静かに微笑む。
「……ええ。なら、やりましょう」
その笑みは、教師のものではなく、一人の大人としての信頼だった。
こうして、捜索は……“誘導”という段階へと踏み込んだ。
明日。すべてを賭けた、一日が始まる。
翌日。ルーメンは、授業が始まる前から学院の中を歩いていた。
昨日までのように、がむしゃらに駆け回ることはしない。
代わりに、一歩一歩、確かめるように進む。
そして……
「セリナ姉」
はっきりと、名前を呼んだ。
周囲の視線が集まる。
生徒が立ち止まり、教師が怪訝な顔をする。
それでも、構わない。
「……リリィ先生の研究室に来て」
声は、張り上げない。祈るようでも、叫ぶようでもない。
ただ、伝えるための言葉。
「リリィ先生の研究室に来て」
廊下を歩きながら、同じ言葉を繰り返す。
教室の前でも、食堂の近くでも、寮の通路でも。
「セリナ姉、リリィ先生の研究室に来て」
世界は、反応しない。
誰も、その名前に意味を見出さない。
ただ「奇妙な行動」として、遠巻きに見ているだけだ。
それでいい。
これは、世界に向けた言葉じゃない。
……届く相手は、一人だけ。
セリナは、確かにそれを聞いていた。
学院の中を歩くルーメンの姿が、はっきりと見える。
その声も、言葉も、すべて届いている。
「……リリィ先生の研究室」
何度も、何度も。
自分の名前と一緒に、同じ場所を示す言葉。
それは、偶然じゃない。昨日までとは、明らかに違う。
探しているのではない。呼んでいる。
しかも……「来て」。そう、言っている。
セリナの胸に、微かな光が灯った。
(……待ってる)
初めて、そう感じた。
歩き回る背中ではない。見失ったままの姿でもない。
ここに来てほしい、と。自分を、迎え入れようとしている。
それが、どれほど危うい賭けなのか、セリナには分からない。
だが、迷う理由はなかった。
誰にも認識されないこの身で、扉を閉ざされない場所があるなら。
そこに、行く。
(……行くよ、ルーメン)
声に出しても、届かない。それでも、心の中でそう告げる。
ルーメンは、今日一日、何度も同じ言葉を繰り返した。
「セリナ姉、リリィ先生の研究室に来て」
それは、探す言葉ではなく、迎える言葉だった。
日が傾き、学院の喧騒が少しずつ引いていく。
ルーメンは、最後にもう一度だけ学院の中を歩き、同じ言葉を口にした。
「セリナ姉、リリィ先生の研究室に来て」
それが終わると、迷いなく進路を変えた。
向かう先は、もう決まっている。
リリィ先生の研究室。
扉を開けると、見慣れた空気が迎え入れた。
薬草の匂い、整然と並んだ魔術器具、壁に刻まれた術式の痕。
……ここだ。
ルーメンは、はっきりとそう思った。
「戻りました」
声をかけると、リリィが机から顔を上げる。
「おかえりなさい。……どうでしたか」
問いかけは短い。
だが、状況をすべて察した声音だった。
「……呼びかけました。何度も」
それだけで、十分だった。
リリィは小さく頷き、静かに立ち上がる。
「では、始めましょう」
その言葉に、空気が引き締まる。
「私は、奥の部屋に下がります」
「……はい」
「万が一、干渉が外に漏れるといけません。あなたの魔力は、もう“個人”の範疇ではない」
冗談めかした響きは、ない。
純粋な判断としての言葉だった。
リリィは、研究室の奥へと下がる前に、振り返る。
「ルーメン」
呼ばれ、視線を向ける。
「無理はしないで。……ですが」
間を置いて。
「あなたが“やる”と言った以上、私は止めません」
それは、信頼だった。
「ありがとうございます」
扉が閉まり、研究室にはルーメン一人が残された。
……いや。
正確には、一人だと“認識されている”だけだ。
ルーメンは、研究室の中央に立つ。
深く息を吸い、吐く。
そして、魔力を解き放った。
抑制はしない。制御だけを、徹底する。
床、壁、天井。空間の隅々へと、魔力を張り巡らせていく。
点ではない。線でもない。場だ。
存在が立つための、条件そのものを覆うように。
これから行うのは、誰かを探す魔術でも、隠れたものを暴く術でもない。
世界の前提に、触れる行為。
ルーメンは、目を閉じた。
「……来て」
小さく、だが確かに呟く。
ここは、開いている。拒まない。否定しない。
……迎え入れる。
魔力が、静かに共鳴を始めていた。




