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学院1年セリナ編 第七十一章 セリナの捜索② 過ぎていく日々

取り残された場所に、音だけが残った。

遠ざかっていく足音。

学院の中に反響する、必死な呼び声。

「セリナ姉――!」

その声は、確かにセリナの胸に届いている。

けれど、彼の背中は振り向かない。二度と、こちらを見ることもない。

セリナは、その場に立ち尽くしたまま、動けずにいた。

(……ここに、いるのに)

喉が震える。声を出そうとしても、言葉にならない。

さっきまで確かに触れていた温もりが、嘘だったかのように、完全に消えている。

「……ルーメン……」

小さく、名を呼ぶ。だが、誰にも聞こえない。

世界は、何も変わらない顔で動き続けていた。

通り過ぎる生徒。遠くで響く鐘の音。いつも通りの学院。

……その中に、自分の居場所だけがない。

セリナは、その場に崩れ落ちる。

石の床に触れた手が、冷たい。

けれど、その冷たさすら、誰にも気づかれない。

「どうして……」

声が、震えながら零れ落ちる。

「ここにいるのに……ちゃんと……生きてるのに……」

世界は、最初から自分を含んでいなかったかのように、完璧に整っている。


希望が、はっきりと見えた直後だった。

だからこそ、絶望は深かった。

(……思い出してくれたと思ったのに)

あの必死な叫び。名前を呼び続ける声。

……あれは、確かに自分のためのものだった。

なのに……。

認識されないという現実が、ゆっくりと、確実に、心を削っていく。

「……私、どうしたらいいの……」

誰にも届かない問い。

生き方が、分からない。存在の仕方が、分からない。

助けを求める先は、目の前にいるのに、

決して分かってもらえない。

セリナは、顔を伏せた。

涙が、床に落ちる。その雫さえ、誰にも見られないまま。

希望は、一度砕けた。

そして彼女は、再び、深い闇の底へと沈んでいった。


日が、傾いていく。

学院の中庭に伸びる影が、ゆっくりと長くなり、ざわめきは、いつの間にか静けさへと置き換わっていた。

それでも、ルーメンは走り続けていた。

廊下を抜け、教室を覗き、食堂の隅々まで目を走らせ、寮の周囲を何度も回る。

「セリナ姉……!」

声は、次第に掠れていく。息は荒く、足取りも重い。

けれど、止まれなかった。

(……どこだ)

いるはずだ。確かに、いるはずなのに。

呼び続けても、探し続けても、何一つ、手応えがない。

世界は、完璧なまでに「空白」を保っていた。


教師が帰り支度を始め、生徒たちが三々五々、校舎を後にしていく。

誰も、異変に気づかない。誰も、名前に反応しない。

「……今日は、ここまでだ」

自分の口から出た言葉に、ルーメンは、ほんの一瞬だけ立ち止まった。

学院の活動時間は、終わっている。

これ以上走り回っても、見つかる可能性は、限りなく低い。

理性が、ようやく現実を突きつけてきた。


(……今日は、見つけられなかった)

敗北に近い感覚だった。

走れば届くと思っていた。

呼べば振り向くと思っていた。

けれど、現実は違った。

探すという行為そのものが、世界に拒まれている。

ルーメンは、ゆっくりと息を整えた。

胸の奥には、焦りと悔しさが渦巻いている。

それでも、無理に前へ進めば、何かを壊してしまいそうな気がした。


(……一度、引こう)

これは逃げではない。立て直すための後退だ。

今日一日で分かったことがある。

……力任せでは、辿り着けない。

ルーメンは、最後にもう一度だけ、学院の建物を振り返った。

夕暮れに染まる校舎は、何事もなかったかのように静まり返っている。

その中に、確かに「探すべきセリナ姉」がいると、自分だけが知っている。

それだけを胸に刻み、ルーメンは、踵を返した。

今日は、ここまでだ。だが、終わりではない。捜索は、だ始まったばかりだった。


翌朝。学院は、何事もなかったかのように動き始めていた。

朝の鐘が鳴り、廊下には生徒たちの足音が重なり、昨日の混乱など最初から存在しなかったかのようだ。

……それが、余計に胸に刺さった。


ルーメンは、登校してすぐ、エアリスを見つけた。

教室の入口。窓際の席に向かう途中だった彼女は、声をかけると、いつも通りに振り返った。

「おはよう、ルーメン。昨日は……顔色、よくなかったけど大丈夫?」

心配そうな声。その様子に、違和感はない。

だからこそ、確かめなければならなかった。


「エアリス」

呼び止めて、言葉を選ぶ。

一息、置いてから、はっきりと口にした。

「僕の姉さんの……セリナ。覚えてる?」

エアリスは、きょとんとした顔で瞬きをした。

冗談を言われたのかどうか、判断しかねているような表情。

「……お姉さん?」

首を傾げる。

「ルーメン、……ルーメンにお姉さんなんて、いないでしょ?」

躊躇はなかった。

作り笑いでも、話を逸らす様子でもない。

ただ、当然の事実を述べる声だった。

「セリナって人も……聞いたことないよ」


胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちた。

(……やっぱり)

想定していた答え。それでも、実際に突きつけられると、重みが違う。

世界は、完全に否定している。

昨日まで走り回っていた自分が、まるで存在しない人を追いかけていたかのように。

「……そっか」

ルーメンは、それ以上何も言えなかった。

エアリスは一瞬だけ心配そうな視線を向けたが、

深く踏み込むことはなかった。

それが、普通なのだ。


教室に向かうエアリスの背中を見送りながら、

ルーメンは、はっきりと理解していた。

……誰に聞いても、同じ答えが返ってくる。

この世界には、セリナという存在は、最初から存在していない。

(……それでも)

自分は知っている。忘れちゃいけない大切なセリナ姉が、確かにいることを。

その事実だけは、どれだけ否定されても、揺るがなかった。


ルーメンは、静かに席についた。

今日も、探す。

世界にいないと証明されても、自分が知っている限り、それは「いない」ことにはならない。


エアリスの言葉を聞いたあとも、ルーメンは席に座ったまま、しばらく動けなかった。

否定されたから、迷いが生じたわけじゃない。

むしろ逆だった。

(……やっぱり、世界そのものが否定している)


だからこそ、感情だけで走り続けるのは、ここで終わりにする必要があった。

探す。だが、闇雲にではなく、確かめるために。


授業が終わるのを待ち、ルーメンは担任のアーネストのもとを訪ねた。

職員室。忙しなく書類を整理していたアーネストは、ルーメンの姿を見ると、少し意外そうに眉を上げた。

「どうした、ルーメン。何か問題か?」

「はい。研究目的で、学院内の行動許可をいただきたいんです」

言い淀みも、言い訳もない。

アーネストは一瞬、言葉を失ったが、すぐに椅子に深く腰掛け直す。


「……研究、とは?」

「記憶と認識の乖離についてです。

個人の記憶と、記録、そして周囲の認識が食い違う事例について調べたい」

具体的な名称は伏せた。

だが、嘘はついていない。


アーネストはしばらく黙り込み、ルーメンの目を見つめた。

冗談を言っている顔ではない。

逃げ道を探している様子もない。

「……通常なら、却下だ」

重い声。それでも、アーネストは視線を逸らさなかった。


「だが、お前は根拠のないことを言う生徒じゃない。条件付きで許可しよう」

「ありがとうございます」

「授業時間外のみだ。他の生徒の妨げになる行為は避けろ。あくまで“研究”としての行動だ。いいな?」

「はい」

短い返答。だが、その一言には、覚悟が詰まっていた。


こうして、ルーメンは特別生徒権限を得た。

授業の合間。放課後。夜に近づく時間帯。

学院の中を、歩く。

走らない。叫ばない。

ただ、歩きながら、呼ぶ。

「……セリナ姉」

声は小さい。それでも、確かに届くように。

廊下。教室。食堂。寮の周囲。

昨日と同じ場所。同じ空間。

だが、結果は変わらない。

誰も反応しない。痕跡も、記録も、気配もない。


それでも、ルーメンは歩き続けた。

感情を抑え、理性を保ち、それでも“探す”という行為を、やめなかった。

世界が否定している事実を、一つずつ、確かめるための研究だ。

……そのはずだった。

だが、歩くほどに、胸の奥で、別の何かが軋み始めていた。

理性を保ったままの異常行動。

それが、どれほど残酷なものかを、ルーメンは、まだ知らなかった。


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