学院1年セリナ編 第七十一章 セリナの捜索① 認識不能
第七十一章 セリナの捜索
俺の行動は、イレンティア大聖堂を出た、その瞬間から始まった。
扉をくぐり、外の空気に触れた途端、胸の奥で何かが弾けた。
考えようとしたわけじゃない。
計画を立てたわけでも、順序を決めたわけでもない。
ただ、足が前に出た。石畳を蹴り、身体が自然と走り出す。息が乱れ、視界が揺れる。
そして……
「セリナ姉っ!!」
気づいたときには、声が外に飛び出していた。
喉の奥から、絞り出すように。
いや、違う。抑え込んでいたものが、勝手に溢れただけだ。
名前を呼びながら走る。理由はない。意味も、説明もない。
あるのは、ひとつだけ。
……俺は、知っている。
声も聞こえない。姿も見えない。存在も、気配も、感じられない。
それでも、確かに「いる」と知っている。
忘れちゃいけない大切な人がいる。
その事実だけが、胸の奥で確定していた。
だから、走る。呼ぶ。叫ぶ。
理性は、分かっている。
この行動が、周囲から見れば異常だということも。
名前を呼んでも、誰も応えないということも。
それでも……止まれなかった。
「セリナ姉!!」
声を張り上げるたびに、胸が痛む。
応えがないたびに、焦りが増す。
だが、足は止まらない。
さっき、リリィ先生に宣言した。
自分は、これから少し変な行動を取る、と。
今、それが現実になっている。
内側で確定した真実が、理性の殻を突き破り、行動として外に噴き出している。
正しいかどうかは、もう関係なかった。
探さずにはいられない。呼ばずにはいられない。
そうしなければ、自分が自分でいられなくなる。
俺は、学院へ向かって全力で走り続けた。
誰にも認識されない名前を、何度も何度も叫びながら。
学院へ向かう道を、俺は全力で駆けていた。
息が切れる。喉が焼ける。足の裏が石畳を叩くたび、鈍い衝撃が伝わる。
それでも、止まらない。
「セリナ姉!!」
名前を呼ぶ声が、通りに響いた。
すれ違う人々が、ぎょっとしたように振り向く。
何人かは足を止め、何人かは顔をしかめ、何人かは困惑した視線を向ける。
「……誰だ?」
「今の、名前か?」
「姉……?」
小さなざわめきが、背後に広がっていく。
だが、そのどれもが、俺の耳にはほとんど届かなかった。
届いても、意味を持たない。世界は、反応していない。
いや……正確には、反応できていない。
呼ばれている名前が、何を指しているのか、誰の存在なのか、誰一人として理解できていない。
それは、拒絶ですらなかった。否定でも、無視でもない。ただ、分からない。
世界にとって、その名前は、最初から存在しないものと同じだった。
「セリナ姉!!」
もう一度、叫ぶ。
視線が集まる。ざわめきが強まる。
「おい、あの生徒……」
「学院の子だよな?」
「何を探してるんだ?」
疑問と困惑だけが、周囲に積み重なっていく。
誰も止めない。誰も答えない。
止めようにも、理由が分からず、答えようにも、前提が共有されていない。
……俺だけが、知っている。
声も、姿も、存在も、感じられない。それでも、「いる」と知っている。
この断絶が、はっきりと形になっていく。
俺の世界と、世界そのものの認識が、決定的にズレている。
だが、それでも走る。呼ばずにはいられない。
学院の門が、視界に入った。
俺は、そのまま減速することなく、駆け込んだ。
学院の門をくぐった瞬間、空気が変わった。
外よりも整えられたはずの場所。
規則があり、秩序があり、日常が回っている空間。
……なのに。
俺の中では、はっきりと分かった。ここには、何かが欠けている。
「セリナ姉!!」
叫びながら、廊下へ駆け込む。
石床に反響する足音。壁に跳ね返る声。
教室の扉を次々と開け、顔を覗かせる。
「……え?」
「ルーメン?」
「どうしたんだ?」
返ってくるのは、戸惑いと困惑だけ。
黒板の前で立ち止まった教師も、机に向かっていた生徒も、俺の声に反応はする。
……だが、名前には反応しない。
「セリナ姉!!」
食堂へ走り込む。
ざわめきが、一瞬だけ止まる。
視線が集まり、ざわつきが広がる。
「誰のことだ?」
「姉……?」
「そんな人、いたか?」
誰も、知らない。誰の記憶にも、引っかからない。
寮の周囲を回り、中庭を横切り、人気の少ない通路へも足を伸ばす。
……いない。
痕跡も、気配も、反応もない。それでも、呼ぶ。
「セリナ姉!!」
声が枯れ始めているのが分かる。
肺が痛み、視界が少し揺れる。
それでも、止まらない。
(……いるはずなんだ)
理屈は、もう追いついていない。証拠も、手がかりも、何一つない。
けれど、確信だけがある。
ここにいないはずがない。
学院という場所は、人を記録し、人を管理し、人の存在を否定しないはずの場所だ。
なのに……
まるで最初から、その人が存在しなかったかのように、すべてが整っている。
整いすぎている。それが、何よりも異常だった。
俺は、廊下の途中で立ち止まった。
息が切れ、膝に手をつき、視界がゆっくりと上下する。
それでも、頭の中では、ただ一つの言葉が回り続けている。
(……セリナ姉)
ここには、空白がある。
俺にしか見えない、だが、確実に存在する空白が。
そして……その空白の中心にいるはずの存在だけが、世界から、完全に消えている。
俺は、再び顔を上げた。まだ、終われない。まだ、諦められない。
この学院のどこかに、いるはずの誰かを見つけるまで。
石床に膝をついたまま、ルーメンは大きく息を吸い込んだ。
肺が熱を持ち、喉がひりつく。視界の端が、わずかに暗くなる。
……走りすぎた。
それでも、立ち上がろうとした、その瞬間だった。
セリナは、少し離れた場所で、立ち尽くしていた。
学院の中庭の片隅。
人の流れから外れた、静かな場所。
そこにいるルーメンの姿を、はっきりと見つけていた。
(……ルーメン)
何度も呼び続けていた声。必死に走り回る姿。
そのすべてが、胸に突き刺さる。
――探している。
――自分を、探している。
それが、ようやく分かった。
記憶は、完全には戻っていない。
声も、姿も、触れ合う感覚も、まだ届いていない。
それでも……自分の存在を、忘れてはいない。
その事実だけで、胸の奥が熱くなった。
セリナは、足を動かした。
一歩、また一歩。
泣きそうになるのを必死に堪えながら、ルーメンへ近づく。
(思い出してくれたんだ……)
名前を呼んでいる。理由も分からないまま、それでも呼び続けている。
それは、確かな証だった。
セリナは、とうとう堪えきれなくなった。
駆け寄り、その背中に、その身体に……ぎゅっと、抱きついた。
「ルーメン……!」
声は、震えていた。
嬉しさと、安堵と、積もり積もった恐怖が、一気に溢れ出す。
「……やっと……」
言葉にならない。ただ、腕に力を込める。
探してくれた。呼んでくれた。
セリナは、ルーメンの背に顔を埋めた。
涙が、止まらない。
今は、ただこの瞬間にしがみついていたかった。
やっと辿り着いた、その事実を、離したくなかった。
だが……ルーメンには、何も伝わっていなかった。
背中に触れたはずの重みも、
腕に回された感触も、
耳元で震えたはずの声も。
すべてが、存在しないものとして抜け落ちている。
ルーメンは、ただ荒い呼吸を整えながら、地面を見つめていた。
(……まだだ)
胸の奥にあるのは、焦燥だけだった。
呼び続けているのに、見つからない。
知っているはずなのに、何一つ掴めない。
「……セリナ姉……」
掠れた声で、名前を呼ぶ。
その声は、確かにセリナに届いていた。
けれど、ルーメン自身には……誰かが、すぐそばにいるという感覚すらない。
セリナは、息を詰めた。
抱きついている。確かに、触れている。
なのに、彼の身体は一切反応しない。
(……どうして)
胸の奥で、恐怖が膨らむ。
セリナは必死に声を張り上げた。
「ルーメン……! 私、ここにいる……!」
返事はない。
ルーメンはゆっくりと立ち上がった。
その動きは、決して乱暴ではなかった。
だが、セリナの腕を振りほどくように、前へ踏み出す。
……いや。振りほどいたという自覚すら、彼にはない。
ただ、前に進んだだけだった。
「……まだ、だ」
低く呟き、再び走り出す。
「セリナ姉……!!」
名前を呼びながら、学院の中へ、再び駆けていく。
セリナは、その場に取り残された。
伸ばした手は、空を掴む。
抱きしめていたはずの温もりが、急速に遠ざかっていく。
(……気づいてない)
分かってしまった。
ルーメンは、自分を知っている。けれど、認識できていない。
それは、再会ではなかった。
希望が見えたからこそ、現実は、より残酷に胸を抉る。
セリナは、立ち尽くしたまま、走り去る背中を見送ることしかできなかった。
呼び止めることも、追いかけることも、意味を持たないと知りながら。
学院に響くその声だけが、何度も、何度も、彼女の胸を打ち続けていた。




