学院1年セリナ編 第七十章 セリナの彷徨⑥ 巨大水晶への祈り
巨大水晶は、大聖堂の最奥に安置されていた。
礼拝堂とは切り離された、円形の静謐な空間。
天井は高く、音を吸い込むように静かで、足音さえも遠慮がちに響く。
その中心に、巨大水晶はあった。
人の背丈をはるかに超える透明な結晶。
澄み切っているはずなのに、内部は単なる無色ではなく、見る角度によって淡い光の層が重なっているように見える。過去の祈り、願い、感情が、まだ溶けきらずに残っている……そんな錯覚すら覚えた。
ルーメンは、その前に立った。
大神官は一定の距離を保ち、リリィもまた、静かに後ろに控っている。誰も言葉を発しない。ただ、邪魔をしないという意思だけが、空間に満ちていた。
ルーメンは、ゆっくりと両手を水晶へ伸ばす。
触れた瞬間、冷たさは感じなかった。
硬さも、重さも、意識に引っかからない。
あるのは、吸い込まれていく感覚だけだった。
(……流し込め、か)
思考を整理するのは、もうやめた。
順序も、言葉も、理屈も、ここでは必要ない。
忘れちゃいけない大切な人。
思い出せない名前。
胸の奥に残る温度。
頭を撫でられた感覚。
「大丈夫」と言われた安心。
思い出そうとして失敗したすべて。
分からないまま苦しんだ時間。
それでも確かにあった感情。
……全部だ。
ルーメンは、意識を開いた。
魔力を整える必要はなかった。
術式も、詠唱もない。ただ、心を晒す。
記憶にならなかった断片。
言葉にできなかった違和感。
世界から切り取られた空白。
それらが、堰を切ったように、水晶へと流れ込んでいく。
頭の中で、何かがほどけていく感覚があった。
押さえ込んでいたものが、ようやく行き場を得たような感覚。
(……ここにいる)
その確信だけを残して、他はすべて預ける。
水晶は、まだ沈黙している。光も、音も、変化もない。
だが、ルーメンは分かっていた。
これは失敗ではない。問いは、すでに投げられた。
答えが返ってくるかどうかは、世界の側の問題だ。
ルーメンは、祈るように目を閉じた。
神にではない。運命にでもない。
ただ……忘れちゃいけない大切な人へ。
「……待ってて」
声にならない言葉が、水晶の奥へと溶けていった。
最初に変化を感じたのは、光ではなかった。音でも、温度でもない。
……“向こうから、触れられた”という感覚だった。
(……?)
ルーメンは、まだ目を閉じたまま、水晶に両手を当てている。
だが、確かに何かが返ってきている。
問いかけに対する、反応。
次の瞬間だった。
視界が、裏返る。
闇が弾け、内側から光が溢れ出した。
目を開いていないはずなのに、はっきりと“見えて”いる。
……巨大水晶が、光り輝いていた。
それは外に向かう光ではない。
周囲を照らすでも、空間を満たすでもない。
光は、水晶の内部で完結している。
まるで、閉じた世界の中で、映像が再生されるように。
(……!)
水晶の奥に、像が浮かび上がる。
最初は、輪郭だけだった。人の形。自分より少し背が高い。
次第に、線が定まり、色が宿る。
髪の色。瞳の色。見慣れているはずなのに、思い出せなかった顔。
その瞬間、喉がひきつった。
「……っ」
名が、胸の奥から突き上げてくる。
理屈ではない。思考でもない。
呼ばれるべき場所に、最初からあった音。
――セリナ・プラム・ブロッサム。
名前と同時に、声が響いた。
水晶の中から。
いや、水晶を介して、直接――心に。
『ルーメン……助けて』
懐かしい声。何度も聞いた声。
泣きそうで、必死で、けれど信じ切っている声。
その一言で、すべてが繋がった。
忘れていた理由。
思い出せなかった原因。
世界に空白が生まれていた意味。
(……そうか)
自分は、忘れていたのではない。
……消されていたのだ。
存在ごと。名前も、顔も、記録も、認識も。
世界から、丁寧に。
けれど……感情だけは、消えなかった。
頭を撫でてくれた温度。
守ってくれた背中。
「大丈夫」と言ってくれた安心。
それらは、消しきれなかった。
だから、辿り着いた。
ルーメンの視界で、水晶はなお輝いている。
だが、その光景は、あくまで“彼にだけ”向けられたものだった。
背後で、息を呑む気配はない。
ざわめきも、驚きの声も、聞こえない。
大神官も、リリィも、沈黙したままだ。
水晶の光は、ゆっくりと収束していく。
像が薄れ、声が遠ざかる。
最後に残ったのは、確信だけだった。
忘れてちゃいけない大切な人。
そして……今も、どこかで彷徨っている人。
ルーメンは、静かに目を開いた。
水晶は、何事もなかったかのように、透明なままだった。
ルーメンは、ほとんど反射的に振り返っていた。
「……リリィ先生」
声が、わずかに震える。
背後に立つリリィは、水晶から視線を外したまま、静かに首を傾げていた。
その表情には、驚きも、困惑もない。
ただ、様子を窺うような穏やかさだけがあった。
「今の……見ましたよね」
言葉が早口になる。
「水晶が光って……映像が出て……名前も、声も……」
確かめずにはいられなかった。
自分だけが見たのではないと、誰かに肯定してほしかった。
だが……。
「ルーメン」
リリィは、慎重に言葉を選ぶようにして口を開いた。
「巨大水晶は……光っていませんでしたよ」
一瞬、意味が理解できなかった。
「……え?」
「いつも通り、何の反応もありませんでした。映像も、声も……何も」
その声は、嘘をついている調子ではない。
取り繕う様子もない。純粋に、見えていない。
ルーメンの喉が、きゅっと鳴った。
「……そんなはずは」
水晶を見つめる。今はもう、透明なままだ。
さっきまで、確かに……名前があった。顔があった。声が、あった。
「リリィ先生……」
抑えきれない焦りが、言葉に滲む。
「俺の……俺の姉の……セリナ・プラム・ブロッサム……覚えていますよね。」
リリィは、ルーメンの様子をじっと見つめてから、ゆっくりと首を横に振った。
「……ルーメン」
優しく、しかしはっきりと。
「あなたに、お姉さんはいません」
その言葉は、刃のように鋭かった。
だが同時に、疑いの余地がないほど、真剣だった。
「少なくとも……私の知る限り、あなたには妹のエレナさんがいるです、お姉さんはいません。セリナ、という名前も、私は知りません」
世界が、静かにずれる。音が遠のき、空間が薄くなる。
(……そうか)
ようやく、理解が追いついた。
これは、見解の違いじゃない。
記憶違いでも、思い込みでもない。
……認識が、分断されている。
自分は、思い出した。だが、世界はまだ、思い出していない。
リリィは、心配そうに一歩近づく。
「大丈夫ですか? 無理をしていませんか。もし、ここに来ても変わらないなら……」
その言葉を聞きながら、ルーメンは静かに息を整えた。
動揺は、もうない。恐怖も、混乱も、確かにあった。
だが、それ以上に……確信があった。
忘れちゃいけない大切な人、セリナ姉は、確かに存在している。
そして、その存在を“今”認識できているのは、自分だけだ。
「……ありがとうございます、先生」
ルーメンは、深く頭を下げた。
「もう、大丈夫です」
その声は、意外なほど落ち着いていた。
リリィは戸惑いながらも、ゆっくりと頷く。
「そう……ですか。なら、少し休みましょう。無理は禁物です」
ルーメンは返事をせず、もう一度だけ、水晶を見た。
透明な表面には、何も映っていない。
けれど……もう、迷いはなかった。
自分が知っている。それで、十分だ。
世界が認識しなくても、構わない。
忘れちゃいけない大切な人は、確かに“いる”。
その事実だけを胸に、ルーメンは静かに立ち上がった。
……ここから先は、自分の役目だ。
大聖堂を出ようと聖堂内を歩いているとき、その空気は不思議なほど澄んでいた。
足元を踏みしめる感触も、近くで鳴る鐘の音も、いつもと変わらない。平穏で、人々はそれぞれの生活に戻っている。……世界は、何事もなかったかのように動き続けている。
けれど、ルーメンの中では、はっきりと線が引かれていた。
(……俺だけなんだ)
巨大水晶は俺にだけしか反応しなかった。
リリィには何も見えず、何も聞こえなかった。
それでも、自分には確かに「あった」。
名前。顔。声。
そして、「ルーメン、助けて」と、助けを求める、切実な感情。
それが幻だとは、もう思えない。思えるはずがなかった。
もし幻なら、ここまで胸の奥に残らない。
もし妄想なら、世界との齟齬を、ここまで明確に感じることもない。
(世界が忘れているだけだ)
その結論に至ったとき、奇妙なほど心は静まっていた。
恐怖は、もうない。混乱も、ない。あるのは、役割の自覚だけだった。
世界が認識していないなら、無理に納得させる必要はない。
記録が消えているなら、書き直せばいい。
名前が呼ばれないなら、自分が呼べばいい。
それだけのことだ。
リリィが隣で、気遣うように声をかける。
「……本当に、大丈夫ですか」
ルーメンは、少し考えてから頷いた。
「はい。もう、何が起きているかは分かりました」
今はまだ……自分だけが知っていればいい段階だ。
(忘れちゃいけない大切な人、セリナ姉は、確かに存在している)
世界がそれを否定しても、誰も覚えていなくても、自分の中で、それは揺るがない。
この感情は、消されていない。消せなかったのだ。
それはつまり……まだ、終わっていないということ。
ルーメンは、ゆっくりと歩き出した。
誰にも気づかれないまま。誰にも共有されないまま。ただ一人、知っている者として。
必ず、探し出す。
その確信だけを胸に、ルーメンは次の一歩を踏み出した。
そして、リリィ先生にこれからの事を告げた。
「……リリィ先生」
歩きながら、ルーメンは言った。
「これから、少し変な行動を取ります」
リリィは驚きもせず、ただ目を細めた。
「目的があってのこと、でしょう?」
「はい」
「行き詰まったら、また相談しなさい」
「はい」
短いやり取りだった。だが、それで十分だった。
理性は、ここで役目を終えた。
理解した。把握した。覚悟も決めた。
あとは……動くだけだ。




