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学院1年セリナ編 第七十章 セリナの彷徨⑤ リリィと大神官

違和感を抱えたままの日々は、静かに、しかし確実にルーメンを追い詰めていった。

授業に集中しようとしても、思考の端に引っかかる。

研究室で魔術書を開いても、文字が滑って頭に入らない。


……忘れちゃいけない大切な人。

その確信だけが、妙に鮮明だった。

だからこそ、ルーメンは自分の状態を冷静に疑い始めていた。


(これは……俺の心の問題なのか?)

記憶の欠落。

説明できない確信。

世界との微妙な齟齬。


どれも、精神的な不調として片づけようと思えばできる。

だが、そう考えた瞬間に、胸の奥が強く拒絶した。

違う、と。

これは“弱さ”ではない。逃避でも、思い込みでもない。


それでも、確かめる必要はあった。

ルーメンは、研究室でリリィに自分の状態を伝えた。

思い出せない誰かのこと。

忘れちゃいけない大切な人がいる、という確信だけが残っていること。


リリィは、最初こそ慎重な表情をしていたが、やがて静かに頷いた。

「……分かりました。念のため、癒しをかけましょう」

それは、心身の異常を取り除くための、最善の判断だった。

リジェネレイトヒーリング。

癒しの魔力が、ゆっくりと体と精神を巡る。

疲労は消え、呼吸は整い、思考も澄んでいく。


……けれど。

(……何も、変わらない)

忘れちゃいけない大切な人の存在は、消えも現れもしなかった。

薄れもしなかった。

むしろ、はっきりと残ったままだった。


リリィは、結果を確かめるようにルーメンの様子を見つめ、少しだけ表情を曇らせた。

「……異常は見当たりません」

静かな声だった。


「精神も安定していますし、記憶障害の兆候もありません。体も、心も……問題がない」

その言葉は、優しいが、同時に残酷だった。

治せるものではない。

癒しで触れられる領域ではない。


しばらく沈黙が落ちる。

その沈黙を破ったのは、リリィだった。

「……ルーメン」

呼ばれて顔を上げると、彼女はいつになく真剣な目をしていた。


「イレンティア大聖堂に行きましょう」

「あなたの体や心が心配です。私の手の届く範囲では、もう確認できることがありません」

それは、突き放す言葉ではない。むしろ、守ろうとする判断だった。

「大神官や、水晶に聞くべき段階かもしれません」


ルーメンは、一瞬だけ目を伏せた。

答えは出ていない。

だが、これ以上ここで立ち止まっても、同じだということは分かる。

「……分かりました。お願いします」

そう答えると、リリィはわずかに安堵したように息をついた。


この問題は、一人で抱え込むべきものではない。

そして同時に、簡単に共有できる問題でもない。

ルーメンは、そのことを、ようやく受け入れ始めていた。

こうして、二人はイレンティア大聖堂へ向かうことになる。


研究室を出たのは、日が大きく傾く少し前だった。

特別な準備は何もない。リリィが扉を閉め、鍵をかけ、並んで歩き出す。それだけだ。

イレンティア大聖堂は、学院の敷地からほど近い場所にある。

徒歩でも、それほど時間はかからない。研究室から外に出て、石畳の道を進めば、ほどなく白い石造りの建物が視界に入る。


それでも、歩き出した瞬間から、空気は確かに変わっていった。

人の往来は徐々に減り、声は遠のき、足音だけが石に反響する。喧騒から切り離されていく感覚は、不安と同時に、胸の奥を静める作用も持っていた。

ルーメンは、歩きながらほとんど口を開かなかった。

考えがまとまらないというより、考え続けること自体に、もう意味を見出せなくなっていた。


……忘れちゃいけない大切な人。

その言葉だけが、胸の奥で静かに脈打っている。

思い出せない。それでも、確かにいる。

その矛盾を抱えたまま、ルーメンは前を見て歩いた。道の両脇に並ぶ木々の隙間から、夕方の光が差し込む。その光景を見ていると、理由もなく、昔の感覚が胸に触れる。だが、それが何なのかは、やはり分からない。


隣を歩くリリィは、何も言わなかった。問いかけも、助言もない。ただ、同じ歩幅で隣にいる。その事実そのものが、ルーメンにとって支えになっていた。


やがて、白い石造りの建物が目の前に現れる。

高い天井。簡素だが威厳のある外壁。

祈りの場として長い年月を重ねてきた重みが、近づくほどに感じ取れた。


「……着きましたよ、ルーメン」

リリィの声に、ルーメンは小さく頷いた。

大聖堂の門をくぐった瞬間、空気が一段、澄んだものに変わる。魔力が強いわけではない。だが、雑音が削ぎ落とされ、余計なものが入り込めない場所――そんな感覚だった。


リリィは受付を済ませ、事情を簡潔に伝える。

神官に話を聞かれ、ほどなくして、一人の老いた大神官が姿を現した。

深い皺を刻んだ顔。穏やかながら、底知れぬ眼差し。

「……話は聞きました。お困りのようですね」

その声は、慰めでも断定でもなかった。ただ、事実として受け止める声音だった。


ルーメンは、その前に一歩進み出る。

ここまで来た以上、逃げるわけにはいかない。

自分の中にある、この説明のつかない空白と向き合うために。

こうして、ルーメンは大神官へと導かれていく。

……自分の力では、もう触れられない領域へ。


大神官の部屋は、大聖堂の奥にひっそりと設えられていた。

豪奢さはない。

石造りの壁、簡素な机、そして長年の祈りによって磨かれた空気だけが満ちている。ここは権威を誇示する場所ではなく、ただ静かに「聞く」ための場所だった。


ルーメンは、促されるまま椅子に腰を下ろした。

向かいに座る大神官は、ゆっくりと視線を合わせる。その眼差しには、好奇も疑念もない。ただ、目の前にいる一人の若者を、まっすぐに見つめる静けさがあった。


「……話してみなさい」

短い言葉だった。

ルーメンは、胸の奥に溜め込んでいたものを、一つずつ言葉にしていく。

忘れちゃいけない大切な人がいるという確信。

思い出せない名前。

顔も姿もないのに、感情だけが確かに残っていること。

世界の誰に聞いても、その存在を知らないという現実。


話しているうちに、自分でも不思議になる。

これほど曖昧で、証拠のない話を、なぜここまで確信をもって語れているのか。

大神官は、途中で遮ることなく、最後まで聞いた。

頷くことも、眉をひそめることもなく、ただ沈黙のまま受け止める。


やがて、深く息をつく。

「……なるほど」

その一言に、重みがあった。

「少なくとも、記憶喪失ではありませんな」

ルーメンの指先が、わずかに強ばる。

「忘れたのではない。奪われた、という言い方も適切ではないでしょう。もっと別の……世界の側の問題です」


リリィが、思わず一歩前に出る。

「治療は……できない、ということですか?」

大神官は、静かに首を横に振った。

「神術でも、癒しでも、この欠落には触れられません。傷でも病でもない。魂の歪みですらないのです」

その言葉は、否定ではあったが、突き放すものではなかった。


「わしが感じるのは、“欠けている”という事実だけです。何が欠けているのかは……分からぬ」

ルーメンは、はっきりと理解した。

ここに来ても、答えは出ない。

神に仕える者でさえ、把握できない領域に、自分は踏み込んでいる。


沈黙が、部屋に落ちる。

やがて、大神官が、ゆっくりと視線を奥へ向けた。

「……一つだけ、手段があります」

その言葉に、ルーメンの視線が上がる。

「わしではなく、“あれ”に聞くのです」

大神官の示した先……それは、この大聖堂の中心に据えられた存在だった。


長い年月、祈りと願いを受け止め続けてきたもの。

人の記憶と感情を映すとされる、神と人の境界。

「巨大水晶です」

その名が、静かに告げられた。

「そこに、あなたが持っているすべてを流し込みなさい。断片も、感情も、焦燥も、迷いも」


大神官は、穏やかだが、確信を持った声で続ける。

「答えが出るかどうかは分かりません。しかし……今のあなたにとって、他に進める道はないでしょう」

ルーメンは、ゆっくりと息を吸った。

恐怖は、なかった。覚悟は、すでにできている。

忘れたままではいられない。

忘れちゃいけない大切な人がいる。

それだけで、十分だった。

「……お願いします」

ルーメンは、静かに頭を下げた。

こうして、彼は……神にではなく、“世界そのもの”に問いかける場所へと進むことになる。


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