学院1年セリナ編 第七十章 セリナの彷徨④ 記憶喚起
午後の授業が終わり、教室にはまだ数人の生徒が残っていた。
ルーメンは自分の席に座ったまま、机に肘をつき、視線を落としていた。
ノートは開かれているが、文字は一行も増えていない。
考えているつもりで、何も掴めていない。
掴めないから、また考える……その堂々巡りだった。
「……ルーメン?」
隣の席から、少し心配そうな声がした。
顔を上げると、エアリスがこちらを見ていた。
授業の内容でも、課題の話でもない。
ただ、様子がおかしいことに気づいただけ……そんな表情だった。
「また、難しい顔してるよ」
からかうでもなく、咎めるでもない。
いつもの、少し距離を保った優しい声。
「考えすぎだよ」
そう言って、エアリスは一歩近づいた。
そして、ためらうことなく……
「ほら、大丈夫」
ぽん、と。
ごく自然に、ルーメンの頭を撫でた。
その瞬間だった。
……視界が、揺れた。
頭に触れた感触。指先の温度。力の加減。
それが、記憶の奥を強く叩いた。
エアリスが「ルーメン、考えすぎだよ、ほら大丈夫」と言って頭を撫でてくれた。その瞬間、記憶の断片が蘇った。
息が、詰まる。
(……違う)
これは、今が初めてじゃない。
小さい頃から頭を撫でて、大丈夫と言ってくれた人がいる。
いつも優しく頭を撫でて安心させてくれた人がいる。
教室の景色が、一瞬だけ遠のいた。
失敗して、俯いたとき。
夜中に、不安で眠れなかったとき。
理由もなく、胸が苦しくなったとき。
必ず……同じ仕草があった。
同じように、頭を撫でられて。
同じように、「大丈夫」と言われて。
ルーメンは、思わず息を吸い込んだ。
「……エアリス」
声が、わずかに震える。
「え? なに?」
エアリスはきょとんとした顔で首を傾げた。
自分が何か特別なことをしたとは、まったく思っていない様子だった。
けれど、ルーメンの内側では、確かな変化が起きていた。
忘れちゃいけない大切な人だ。
名前は出てこない。
顔も、姿も、まだ見えない。
それでも……
確かにいた。いつも一緒にいた。
優しく守ってくれた。とても頼りにしている人。
エアリスの手が離れ、教室のざわめきが戻ってくる。
「……ありがとう」
そう言うと、エアリスは少し驚いてから、いつものように笑った。
「どういたしまして。……でも、無理しすぎないでね」
その言葉を聞きながら、ルーメンはもう別の場所を見ていた。
喉元まで出てきそうなのに、何故か出てこない。
けれど……確信だけは、もう消えなかった。
教室を出たあとも、ルーメンの頭の中は静まり返らなかった。
頭に触れた感触が、まだ残っている。
いや、それをきっかけに、記憶が連なり始めている。
(……そうだ)
幼い頃。
今よりずっと小さくて、剣も振れなくて、魔術も失敗ばかりだった頃。
泣きそうになったとき。
怖くて立ちすくんだとき。
何が不安なのかも分からなかったとき。
必ず、同じ手が伸びてきた。
強すぎず、弱すぎず。
子どもを安心させるためだけの、ちょうどいい力で。
「大丈夫」
「平気だよ」
声の調子まで、覚えている。
叱らず、甘やかしすぎず。
ただ、そこにいてくれる声。
……守る人の声。
映像が、少しずつ形を取る。
家の中。夕方の光。木の床に落ちる影。
自分より少し前を歩く背中。
振り返って、安心させるように微笑む仕草。
そこまで来て、記憶はまた霧に包まれる。
(……見えているのに)
風景はある。感情もある。確かに、存在していた痕跡が残っている。
なのに……
顔が、見えない。名前が、出てこない。
喉の奥まで来ているのに、音にならない。
ルーメンは、ぎゅっと拳を握った。
(忘れてはいけない)
理由は説明できない。根拠もない。
それでも、この確信だけは揺るがない。
この人を忘れたままでは、自分は前に進めない。
世界が忘れても、記録が消えても、感情だけは、ここに残っている。
……それが、答えだ。
ルーメンは、静かに息を整えた。
記憶は、まだ霧の中にある。
だが、その霧の向こうに、確かな誰かがいる。
その感覚だけは、もう手放さない。
それから数日、ルーメンは同じことを繰り返していた。
授業を受け、研究室で過ごし、夜になれば一人で考える。
けれど、思考はもう空回りしなかった。
思い出そうとするたびに、胸の奥に、はっきりとした“基準”がある。
――頭を撫でてくれた人。
――大丈夫と言ってくれた人。
それは、偶然の一致ではない。
エアリスの行為が引き金になっただけで、もともとそこにあった感情だ。
(……確かに、いた)
何度考えても、その結論だけは揺らがなかった。
小さい頃から、そばにいた。
いつも一緒にいた。
自分より強くて、優しくて、迷ったときには前に立ってくれた。
失敗したとき、不安になったとき、怖くて何も言えなかったとき。
――必ず、守ってくれた。
名前は出てこない。顔も、声も、まだ霧の向こうだ。
それでも、存在そのものが、胸の奥に確定していた。
(忘れちゃいけない大切な人だ)
理屈ではなく、本能に近い確信だった。
もし、この人を失ったまま進めば、自分はどこかで必ず道を踏み外す。
強くなっても、賢くなっても、魔術を極めても。
“支え”を失ったままでは、立っていられない。
ルーメンは、ゆっくりと目を閉じた。
思い出せなくてもいい。
今は、無理に名前を掴まなくてもいい。
大切なのは……忘れてはいけないと、自分が知っていること、そして大切な人だということ。
世界が否定しても、記録が消えても、他人が首をかしげても。
この感情だけは、嘘をつかない。
(……必ず、辿り着く)
どこにいるのか。なぜ消えたのか。どうして自分だけが、こうして気づいたのか。
答えはまだ、何も分からない。
だが……探す理由は、もう十分だった。
ルーメンは、静かに席を立った。
彷徨っているのは、記憶だけじゃない。
きっと、今もどこかで、“助けて”と呼んでいる。
その声が聞こえなくても、その姿が見えなくても。
忘れちゃいけない大切な人は、確かに、この世界のどこかにいる。
それだけを胸に、ルーメンは次の一歩を踏み出した。
次の日から、ルーメンの周囲で起こる出来事は、さらに奇妙さを増していった。
授業中、黒板に向かってノートを取っていると、ふと視界の端で何かが揺れた気がする。
振り向いても、そこには誰もいない。
廊下を歩いていると、背後で足音が一瞬だけ重なる。
立ち止まっても、追い越してくる人はいない。
錯覚だ、と片づけようとすると、胸の奥がきしむ。
まるで、世界のほうが「見落としている」とでも言いたげだった。
(……おかしい)
違和感は、確実に“方向”を持っている。
無秩序ではない。偶然でもない。
自分の感覚だけが暴走しているのなら、もっと曖昧で、もっと不安定なはずだ。
だが今は違う。
――足りない。
――欠けている。
その感覚が、日に日に明確になっていく。
ルーメンは、意識的に周囲を観察するようになった。
人の会話。掲示板。授業の名簿。記録庫に並ぶ文書。
どこにも、不自然な空白はない。
誰もが、世界は完全だと言わんばかりに振る舞っている。
それが、逆に異様だった。
(世界は、何も失っていない顔をしている)
けれど、自分だけは知っている。
失われたものがあることを。
忘れちゃいけない大切な人が、確かに“いる”ことを。
誰にも共有できない確信。
誰にも説明できない欠落。
それでも、恐怖はなかった。
怖いのは、分からないことじゃない。
本当に怖いのは、「忘れてしまうこと」だ。
ルーメンは、無意識に胸元を押さえた。
そこに、まだ温度が残っているのを確かめるように。
(……消えてない)
名前はなくても。姿が思い出せなくても。
忘れちゃいけない大切な人は、今も、自分の内側にいる。
ならば、やるべきことは一つしかない。
世界が認識していなくても構わない。
記録が追いついていなくても構わない。
自分が知っている限り、その人は“存在している”。
……探す。
理由を見つけるために。
答えに辿り着くために。
そして何より、もう一度、その人に手を伸ばすために。
ルーメンは、静かに息を整えた。
彷徨は、まだ終わらない。
けれどこれは、迷子ではない。
忘れちゃいけない大切な人へ向かう、確かな一歩だった。




