表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
333/344

学院1年セリナ編 第七十章 セリナの彷徨④ 記憶喚起

午後の授業が終わり、教室にはまだ数人の生徒が残っていた。

ルーメンは自分の席に座ったまま、机に肘をつき、視線を落としていた。

ノートは開かれているが、文字は一行も増えていない。

考えているつもりで、何も掴めていない。

掴めないから、また考える……その堂々巡りだった。


「……ルーメン?」

隣の席から、少し心配そうな声がした。

顔を上げると、エアリスがこちらを見ていた。

授業の内容でも、課題の話でもない。

ただ、様子がおかしいことに気づいただけ……そんな表情だった。


「また、難しい顔してるよ」

からかうでもなく、咎めるでもない。

いつもの、少し距離を保った優しい声。


「考えすぎだよ」

そう言って、エアリスは一歩近づいた。

そして、ためらうことなく……


「ほら、大丈夫」

ぽん、と。

ごく自然に、ルーメンの頭を撫でた。


その瞬間だった。

……視界が、揺れた。

頭に触れた感触。指先の温度。力の加減。

それが、記憶の奥を強く叩いた。


エアリスが「ルーメン、考えすぎだよ、ほら大丈夫」と言って頭を撫でてくれた。その瞬間、記憶の断片が蘇った。


息が、詰まる。

(……違う)

これは、今が初めてじゃない。

小さい頃から頭を撫でて、大丈夫と言ってくれた人がいる。

いつも優しく頭を撫でて安心させてくれた人がいる。


教室の景色が、一瞬だけ遠のいた。

失敗して、俯いたとき。

夜中に、不安で眠れなかったとき。

理由もなく、胸が苦しくなったとき。


必ず……同じ仕草があった。

同じように、頭を撫でられて。

同じように、「大丈夫」と言われて。


ルーメンは、思わず息を吸い込んだ。

「……エアリス」

声が、わずかに震える。

「え? なに?」

エアリスはきょとんとした顔で首を傾げた。

自分が何か特別なことをしたとは、まったく思っていない様子だった。


けれど、ルーメンの内側では、確かな変化が起きていた。

忘れちゃいけない大切な人だ。

名前は出てこない。

顔も、姿も、まだ見えない。


それでも……

確かにいた。いつも一緒にいた。

優しく守ってくれた。とても頼りにしている人。


エアリスの手が離れ、教室のざわめきが戻ってくる。

「……ありがとう」

そう言うと、エアリスは少し驚いてから、いつものように笑った。


「どういたしまして。……でも、無理しすぎないでね」

その言葉を聞きながら、ルーメンはもう別の場所を見ていた。


喉元まで出てきそうなのに、何故か出てこない。

けれど……確信だけは、もう消えなかった。


教室を出たあとも、ルーメンの頭の中は静まり返らなかった。

頭に触れた感触が、まだ残っている。

いや、それをきっかけに、記憶が連なり始めている。


(……そうだ)

幼い頃。

今よりずっと小さくて、剣も振れなくて、魔術も失敗ばかりだった頃。

泣きそうになったとき。

怖くて立ちすくんだとき。

何が不安なのかも分からなかったとき。

必ず、同じ手が伸びてきた。

強すぎず、弱すぎず。

子どもを安心させるためだけの、ちょうどいい力で。

「大丈夫」

「平気だよ」

声の調子まで、覚えている。

叱らず、甘やかしすぎず。

ただ、そこにいてくれる声。

……守る人の声。


映像が、少しずつ形を取る。

家の中。夕方の光。木の床に落ちる影。

自分より少し前を歩く背中。

振り返って、安心させるように微笑む仕草。

そこまで来て、記憶はまた霧に包まれる。


(……見えているのに)

風景はある。感情もある。確かに、存在していた痕跡が残っている。

なのに……

顔が、見えない。名前が、出てこない。

喉の奥まで来ているのに、音にならない。

ルーメンは、ぎゅっと拳を握った。

(忘れてはいけない)

理由は説明できない。根拠もない。

それでも、この確信だけは揺るがない。

この人を忘れたままでは、自分は前に進めない。

世界が忘れても、記録が消えても、感情だけは、ここに残っている。


……それが、答えだ。

ルーメンは、静かに息を整えた。

記憶は、まだ霧の中にある。

だが、その霧の向こうに、確かな誰かがいる。

その感覚だけは、もう手放さない。


それから数日、ルーメンは同じことを繰り返していた。

授業を受け、研究室で過ごし、夜になれば一人で考える。

けれど、思考はもう空回りしなかった。

思い出そうとするたびに、胸の奥に、はっきりとした“基準”がある。

 ――頭を撫でてくれた人。

 ――大丈夫と言ってくれた人。

それは、偶然の一致ではない。

エアリスの行為が引き金になっただけで、もともとそこにあった感情だ。


(……確かに、いた)

何度考えても、その結論だけは揺らがなかった。

小さい頃から、そばにいた。

いつも一緒にいた。

自分より強くて、優しくて、迷ったときには前に立ってくれた。

失敗したとき、不安になったとき、怖くて何も言えなかったとき。

 ――必ず、守ってくれた。

名前は出てこない。顔も、声も、まだ霧の向こうだ。

それでも、存在そのものが、胸の奥に確定していた。


(忘れちゃいけない大切な人だ)

理屈ではなく、本能に近い確信だった。

もし、この人を失ったまま進めば、自分はどこかで必ず道を踏み外す。

強くなっても、賢くなっても、魔術を極めても。

“支え”を失ったままでは、立っていられない。


ルーメンは、ゆっくりと目を閉じた。

思い出せなくてもいい。

今は、無理に名前を掴まなくてもいい。

大切なのは……忘れてはいけないと、自分が知っていること、そして大切な人だということ。

世界が否定しても、記録が消えても、他人が首をかしげても。

この感情だけは、嘘をつかない。


(……必ず、辿り着く)

どこにいるのか。なぜ消えたのか。どうして自分だけが、こうして気づいたのか。

答えはまだ、何も分からない。

だが……探す理由は、もう十分だった。

ルーメンは、静かに席を立った。

彷徨っているのは、記憶だけじゃない。

きっと、今もどこかで、“助けて”と呼んでいる。

その声が聞こえなくても、その姿が見えなくても。

忘れちゃいけない大切な人は、確かに、この世界のどこかにいる。

それだけを胸に、ルーメンは次の一歩を踏み出した。


次の日から、ルーメンの周囲で起こる出来事は、さらに奇妙さを増していった。

授業中、黒板に向かってノートを取っていると、ふと視界の端で何かが揺れた気がする。

振り向いても、そこには誰もいない。


廊下を歩いていると、背後で足音が一瞬だけ重なる。

立ち止まっても、追い越してくる人はいない。


錯覚だ、と片づけようとすると、胸の奥がきしむ。

まるで、世界のほうが「見落としている」とでも言いたげだった。


(……おかしい)

 違和感は、確実に“方向”を持っている。

無秩序ではない。偶然でもない。

自分の感覚だけが暴走しているのなら、もっと曖昧で、もっと不安定なはずだ。

だが今は違う。

 ――足りない。

 ――欠けている。

その感覚が、日に日に明確になっていく。


ルーメンは、意識的に周囲を観察するようになった。

人の会話。掲示板。授業の名簿。記録庫に並ぶ文書。

どこにも、不自然な空白はない。

誰もが、世界は完全だと言わんばかりに振る舞っている。


それが、逆に異様だった。

(世界は、何も失っていない顔をしている)

けれど、自分だけは知っている。

失われたものがあることを。

忘れちゃいけない大切な人が、確かに“いる”ことを。


誰にも共有できない確信。

誰にも説明できない欠落。

それでも、恐怖はなかった。

怖いのは、分からないことじゃない。

本当に怖いのは、「忘れてしまうこと」だ。


ルーメンは、無意識に胸元を押さえた。

そこに、まだ温度が残っているのを確かめるように。

(……消えてない)

名前はなくても。姿が思い出せなくても。

忘れちゃいけない大切な人は、今も、自分の内側にいる。


ならば、やるべきことは一つしかない。

世界が認識していなくても構わない。

記録が追いついていなくても構わない。

自分が知っている限り、その人は“存在している”。

……探す。

理由を見つけるために。

答えに辿り着くために。

そして何より、もう一度、その人に手を伸ばすために。


ルーメンは、静かに息を整えた。

彷徨は、まだ終わらない。

けれどこれは、迷子ではない。

忘れちゃいけない大切な人へ向かう、確かな一歩だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ