学院1年セリナ編 第七十章 セリナの彷徨③ 世界からの消失
名簿という最後の拠り所を失ってから、ルーメンの中で一つの仮説が、ゆっくりと形を持ち始めていた。
……これは「忘れられた」のではない。
……「消された」のでもない。
最初から、存在しなかったことにされている。
その感覚は、重く、しかし奇妙なほど静かだった。恐怖よりも先に、理解が来ている。世界の側が、あまりにも自然に振る舞っているからだ。
試すように、ルーメンは周囲に問いを投げ続けた。
何気ない会話の中で、学院の出来事を辿る。
過去の訓練の話、入学当初の思い出、寮ではなく研究室で過ごした夜の雑談……どれも、違和感なく語られる。
だが、決定的に欠けている。
話題の流れの中に、空白がある。話は自然につながっているのに、どこか一箇所、意図的に避けられたような「間」が生まれる。
「そういえば、あの時は大変だったよな」
誰かがそう言っても、「だね」と返るだけで、具体が続かない。
不思議に思って掘り下げようとすると、相手は首を傾げる。
「……何の話だっけ?」
責める様子はない。誤魔化す様子もない。本当に、何も思い出せない。
ルーメンは、その反応を見るたびに、胸の奥が冷えていくのを感じた。
記憶が抜け落ちた人間特有の混乱や恐怖が、どこにもない。
忘却ではない。欠落ですらない。
最初から、その情報が存在しなかった反応。
試しに、リリィの研究室にある古い資料も調べた。
学院の歴史、訓練記録、表彰一覧。
どこにも齟齬はない。空白も、訂正跡もない。
完璧すぎるほど、整合している。
(……世界が、完成している)
本来なら、誰か一人が欠ければ、歪みが出るはずだ。
関係性がずれ、記録に矛盾が生まれ、説明できない穴が残る。
だが、今の世界にはそれがない。
最初から、その人を含まない構造で組み直されている。
ルーメンは、机に手をつき、深く息を吐いた。
ここまで来ると、もはや否定する理由がない。
世界は、確かに“何か”を排除し、その状態を正として保っている。
そして……それを異常だと感じているのは、自分だけだ。
(……どうして、僕だけ)
答えは出ない。出るはずもない。
だが、はっきりしたことが一つある。
この現象は、外からの観測では解けない。
記録を辿っても、証言を集めても、真実には辿り着けない。
なぜなら、世界そのものが、それらを「正解」として更新しているからだ。
ルーメンは、静かに目を閉じた。
自分の中に残っているものを、改めて確認する。
名前も、姿も、声もない。
それでも……確かに、大切だったという感覚だけが残っている。
理由のない焦燥。
理由のない喪失感。
理由のない、守らなければならないという衝動。
それらは、世界がどれだけ整っていようと、消えなかった。
(……なら)
答えは、外にはない。
残された唯一の手がかりは……自分自身。
ルーメンは、ゆっくりと立ち上がった。
世界が忘れても、世界が否定しても。
自分の中に残ったこの感情だけは、嘘じゃない。
それを辿る。それを信じる。
それが、この彷徨の始まりだと、ルーメンは理解していた。
それから、何日が過ぎたのか。
ルーメンは、自分でもはっきりとは分からなくなっていた。授業には出ている。課題もこなしている。研究室の手伝いもしている。周囲から見れば、何も変わっていない日常だ。
……だが、内側だけが、確実に壊れていく。
(考えるな、と思っても……)
考えずにいられない。何かを忘れている。
けれど、何を忘れているのかが分からない。
この矛盾が、思考を堂々巡りさせる。出口のない迷路を、同じ場所を踏みしめながら歩き続けている感覚だった。
机に向かっても、視線は文字を追わない。
魔術を組み立てても、どこかで意識が逸れる。
ふとした拍子に、胸の奥が締め付けられる。
(……大切な何かを、見失っている)
そんな感覚だけが、理由もなく湧き上がる。
罪悪感に近い。だが、何に対しての罪なのかが分からない。
思い出そうとするたびに、頭の中で何かが拒絶する。
霧がかかる。音が遠のく。思考が、途中で切断される。
(どうしてだ……)
声に出しても、答えは返らない。
世界は沈黙を保ち、何事もなかったかのように回り続ける。
夜、研究室の片隅で一人になると、特にひどかった。
灯りを落とし、椅子に身を沈めると、考えが一気に押し寄せてくる。
昼間は無理に押さえ込んでいた違和感が、遠慮なく広がる。
「……何を、忘れたんだ」
誰に向けるでもなく、呟く。
返事はない。当然だ。自分ですら分からないのだから。
紙に書き出してみたこともある。
「思い出せること」を片っ端から並べる。家族のこと。幼い頃のこと。学院に来た理由。師のこと。友人のこと。
どれも、破綻はない。どれも、正しい。
……それなのに、足りない。
完成しているはずの絵に、説明できない違和感が残る。
空白は見えないのに、確かに「余白」がある。
それが、ルーメンを追い詰めていった。
眠れない夜が増え、目を閉じると、名前のない感情が胸を満たす。
悲しさとも、寂しさとも違う。
もっと、切実な何か。
(……やめよう)
一度は、そう決めた。これ以上考えても、答えは出ない。答えが出ないことを、受け入れるしかない。
だが、次の瞬間には、その決意が揺らぐ。
(それでも……)
忘れていいはずがない。
思い出せなくても、放り出していいはずがない。
理由は分からない。根拠もない。
それでも、確信だけが残る。
これは、自分の問題じゃない。
自分の内側で完結させてはいけない何かだ。
ルーメンは、額に手を当て、深く息を吐いた。
考えすぎているのは分かっている。
だが、考えるのをやめた瞬間、何か取り返しのつかないものを失う気がしてならなかった。
迷路の中で、足を止めることすら許されない。
進んでも戻っても、同じ場所にいるとしても。
……それでも、歩き続けるしかない。
ルーメンは、そうやって、今日も答えのない思考を繰り返していた。




