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学院1年セリナ編 第七十章 セリナの彷徨② 否定と抹消

翌日、ルーメンは意を決してエアリスに声をかけた。

相手は、もっとも身近で、もっとも率直な反応を返してくれる人物だった。

この数日間の違和感を、断片的にではなく、できる限り正確に伝える。

 ――何かを忘れている気がすること。

 ――理由のない不安が続いていること。

 ――説明のつかない出来事が起きていること。

話し終えたあと、沈黙が落ちた。


しばらくして返ってきた言葉は、思ったよりも柔らかかった。

「……考えすぎじゃないかな」

責める響きはない。心配しているのも分かる。


「色々あったし、疲れてるんだよ。大丈夫、大丈夫」

そう言って、安心させるように微笑む。

その瞬間、胸の奥に小さな違和感が走った。

否定されたこと自体ではない。

“当然のように否定された”ことが、引っかかった。


(……本当に、何もないのか?)

もう一度、確認しようとした。

もっと具体的に聞けば、何か思い出すかもしれない。

だが、言葉を選んでいるうちに、何を聞けばいいのか分からなくなる。

名前が出てこない。姿が思い浮かばない。

ただ、「いるはずだ」という感覚だけが、宙に残る。

それをどう説明すればいいのか、分からなかった。


結局、ルーメンはそれ以上踏み込めなかった。

否定されたことで、逆に確信が強まったのに、それを共有する術がない。

自分の中にだけ、ずれた歯車が一つある。

そんな感覚が、はっきりと輪郭を持ち始めていた。


(……違う。これは、勘違いじゃない)

もし本当に何も起きていないのなら、ここまで胸がざわつくはずがない。

もし疲れのせいなら、休めば消えるはずだ。

だが、消えない。

否定されたことで、むしろ浮き彫りになった。

……これは、自分だけが抱えている問題だという事実。


ルーメンは静かに息を吐いた。

最初の確認は、失敗だった。けれど同時に、方向性も見えた。

他の誰に聞いても、同じ答えが返ってくる。

そう確信したからだ。

それでも、確かめずにはいられない。

次は、より“知識に近い”相手に聞く必要がある。

自分の感覚が異常なのか。

それとも、世界の側が歪んでいるのか。

その切り分けをするために……ルーメンは、次の行動を選ぶ準備を始めていた。


次に声をかけた相手も、返してきた反応は同じだった。

首を傾げ、不思議そうな顔をし、最後には困ったように笑う。

「何の話だい?」

「そんな人、聞いたことないよ」

「最近、変なことが続いたからじゃない?」

言葉は違っても、結論は一つだった。

 ――知らない。

 ――分からない。

 ――最初から存在していない。

それを何度も突きつけられるうちに、ルーメンの中で恐怖の質が変わっていった。


最初は、「忘れていること」への不安だった。

次は、「思い出せない理由」への焦りだった。

そして今は……「自分だけが違う世界を見ているのではないか」という恐怖に変わりつつあった。

(……俺の方がおかしいのか?)

そう思った瞬間、胸の奥がひどく冷えた。


もし、自分の記憶が壊れているのなら。

もし、存在しないものを「あったはずだ」と思い込んでいるのなら。

それは、魔力の問題ではなく……もっと根本的な、人格や認識の問題だ。


だが、その可能性を受け入れようとすると、別の感情が強く反発する。

(……違う)

理屈ではない。証拠もない。それでも、はっきりと否定できる。

自分は、何かを作り出してはいない。

忘れている。抜け落ちている。奪われている。

その感覚だけは、どうしても揺らがなかった。

机に向かっていても、授業を聞いていても、集中が続かない。

言葉の端々で、思考が止まる。

「誰だ?」

「何を忘れた?」

「なぜ思い出せない?」

問いは増えるのに、答えは一つも見つからない。


それどころか、考え続けるほど、頭の中が絡まっていく。

記憶の糸を辿ろうとすると、必ず途中で切れる。

そして、その断面に触れた瞬間、胸が痛む。

説明できない喪失感。理由のない罪悪感。

大切な何かを、見捨ててしまったような感覚。


ルーメンは、思わず額を押さえた。

(……やめろ)

これ以上考えると、何かが壊れる。そう直感が告げていた。

だが、やめられない。考えずにはいられない。

忘れているのに、忘れてはいけない。

思い出せないのに、思い出さなければならない。

その矛盾が、心を締めつける。

否定されるたびに、世界は正常だと言われるたびに、自分だけが取り残されていく感覚が強まっていった。


この恐怖は、孤独とは少し違う。誰もいないわけではない。皆、すぐそばにいる。

それなのに……共有できない何かを、ただ一人で抱えている。

ルーメンは、ゆっくりと息を整えた。


ここまで来て、ようやく一つの結論に辿り着く。

これは、誰かに聞いて解決する問題ではない。

自分の外側ではなく、内側に鍵がある。

そしてその鍵は、理屈でも、知識でもなく……もっと原始的な、感覚の奥に沈んでいる。

次に何をすべきかは、まだ分からない。

だが、ただ立ち止まっているわけにはいかなかった。

何かが、確実に進行している。

見えないまま、名前もないまま、それでも……確かに。


ルーメンは、胸の奥で静かに呟いた。

(……待っててくれ)

誰に向けた言葉かは、分からない。

だが、その言葉だけは、嘘ではなかった。


最後に残った手段は、あまりにも事務的で、あまりにも残酷だった。

感情や感覚ではなく、記録で確かめる。

誰かの記憶ではなく、世界そのものが残した「証拠」を見る。


ルーメンは担任であるアーネストのもとを訪れ、理由をぼかしながら生徒名簿を見せてほしいと頼んだ。

訝しげな表情は向けられたが、最終的に拒まれることはなかった。


机の上に広げられた分厚い名簿。

学年、クラス、入学順。

整然と並ぶ名前の列。

……そこに、答えがあるはずだ。

指先で一行ずつ辿っていく。

視線を走らせ、読み落としがないよう、何度も確認する。

……ない。

一度、最初からやり直す。

今度は、声に出さず、頭の中で音をなぞるように。

それでも……ない。


(……おかしい)

焦りが、じわじわと胸に広がる。

名簿は嘘をつかない。

ここに載っていないということは、最初から存在しなかったということだ。

だが、それを認めるには、代償が大きすぎた。


別のページも見る。

過去の年度、補足資料、転入・転出の記録。

どこにも痕跡がない。名前だけではない。

空白すら、用意されていない。

世界は、最初から完璧だったかのように、整っている。


アーネストは、名簿を見つめたままのルーメンを気遣うように言った。

「探している生徒がいるのかい? 転校生なら、別の資料になるが……」

ルーメンは、首を横に振った。

言えなかった。何を探しているのか。誰の名前を探しているのか。

そもそも……言葉にできる情報が、何一つ残っていない。


名簿を閉じた瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。

期待していたわけではない。むしろ、分かっていた。

それでも、現実として突きつけられると、受け止めきれない。

(……世界から、消えてる)

忘れられたのではない。隠されたのでもない。

最初から、存在しなかったことにされている。

それが、どれほど異常なことか。

ルーメンは理解していた。


人ひとりの存在が、記録から、記憶から、関係性から、すべて消える。

そんなことが、自然に起きるはずがない。

なのに、今、目の前ではそれが成立している。

学院は正常だ。名簿も正常だ。教師も、生徒も、何も疑っていない。

異常なのは……自分だけ。

その認識が、胸に重くのしかかる。


だが同時に、はっきりしたこともあった。

ここまで徹底して消えている以上、これは個人の記憶違いなどではない。

世界の側が、何かを「なかったこと」にしている。

ルーメンは、静かに名簿を机の上に戻した。

「……ありがとうございました」

そう言って部屋を出た背中に、アーネストの心配そうな視線が向けられていたが、振り返る余裕はなかった。


廊下に出た瞬間、深く息を吐く。

胸の奥が、ひどく痛む。だが、その痛みは……確信に近かった。

(……それでも)

記録がなくても。証拠がなくても。

自分の中に残っているこの感覚だけは、嘘じゃない。


世界が忘れても、世界が否定しても。

ルーメンは、ゆっくりと拳を握った。

次に進むしかない。答えが外にないなら、内側を掘り下げるしかない。

名簿は、世界からの否定だった。

だが同時に、それは宣告でもある。

……普通の方法では、辿り着けない。

ここから先は、自分だけの彷徨になる。


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