学院1年セリナ編 第七十章 セリナの彷徨① 空白の救難信号
第七十章 セリナの彷徨
カルディの件は、表向きには無事に収束した。
学院には再び日常が戻り、剣術大会の後片付けも終わり、教師たちは忙しそうに次の授業の準備を進めている。生徒たちの間を漂っていた異様な緊張も、時間とともに薄れつつあった。
……それでも。
ルーメンの胸の奥には、どうしても拭えない引っかかりが残っていた。
(……何かが、足りない)
具体的に何が、とは言えない。ただ、何か重要なものを落としたまま歩いているような感覚。視界の端に、常に見えない空白がある。思考を向けようとすると、すり抜けるように消えてしまう。
カルディが拘束された直後、混乱の中で漏らした言葉が、何度も脳裏に浮かぶ。
……「誰?」
あのとき、カルディは確かにそう言った。自分がなぜここにいるのか、何に怒っていたのか、誰に向けて感情を爆発させていたのか。そのすべてが分からない、という顔で。
そして奇妙なことに、その言葉を聞いた瞬間、ルーメン自身も同じ疑問を抱いていた。
(……誰だ?)
問いは生まれた。だが、答えは浮かばない。名前も、姿も、関係性も、何ひとつ思い出せない。ただ「誰か」が、そこにいたはずだという感覚だけが残った。
その違和感は、時間が経っても消えなかった。
授業を受けていても、資料を読んでいても、ふとした拍子に胸の奥がひりつく。忘れ物をしたという自覚すら曖昧なのに、失ったことだけは確信できる……そんな奇妙な状態だった。
学院の中庭を歩きながら、ルーメンは無意識に立ち止まった。
(……何を、忘れているんだ)
問いは確かに存在する。けれど、その先がどうしても見えない。思考を進めようとすると、霧のように散っていく。
まるで、最初から「思い出す」という選択肢そのものが削り取られているかのように。
その感覚が、静かに、しかし確実に、ルーメンの胸を締め付け始めていた。
日常は、確かに戻っていた。
朝の鐘が鳴り、授業が始まり、昼になれば食堂が騒がしくなる。教師は変わらず厳しく、生徒は変わらず未熟で、学院という場所は何も変わっていない……はずだった。
それでも、ルーメンだけは、世界のどこかにぽっかりと穴が空いているのを感じていた。
(……変だ)
考えようとすると、思考がすべっていく。何かを思い出しかけているのに、指の間から零れ落ちるように消えてしまう。記憶が欠けている、というより、記憶へ辿り着くための入口そのものが存在しない感覚だった。
誰かの名前を呼ぼうとして、喉が動かない。
誰かの顔を思い浮かべようとして、像が結ばれない。
……そこに「誰か」がいる、という確信すら持てない。
それでも、不思議なことに……感情だけは残っていた。
理由の分からない安堵。
理由の分からない焦り。
理由の分からない「大切だ」という感覚。
それらが、宙ぶらりんのまま胸の奥に沈んでいる。
(最初から、いなかった……?)
そんな考えが浮かび、すぐに否定した。
最初から存在しなかったのなら、こんな感情だけが残るはずがない。
だが同時に、「誰かを失った」という実感も持てない。
欠けているのは、存在ではなく、認識そのもの。そう言われた方が、まだ納得がいった。
授業中、窓の外に目を向けた瞬間だった。
風が吹いているわけでもないのに、校舎の一角でカーテンが大きく揺れた。ばさり、と音を立てて、何度も。
周囲の生徒は誰も気にしていない。
教師も、黒板から目を離さない。
(……今の、見たよな)
確かに、揺れた。
だが、それ以上の意味は、どこにも結びつかない。
理由を探ろうとした瞬間、思考が霧に包まれる。
原因を考えようとすると、胸の奥がざわつき、言葉にならない不安だけが残る。
放課後、誰もいない廊下を歩いているときも、同じだった。
何かを「感じた」わけではない。
誰かの気配があったわけでも、魔力を覚えたわけでもない。
ただ……そこにあるはずの説明が、最初から用意されていない。
(……知っているはず、なんだろうか)
そう考えかけた瞬間、思考が途切れる。
「知っているはずだ」という前提そのものが、根拠を失う。
世界は、確かに動いている。
だが、その動きの中に、本来なら疑問にすらならない何かが、欠落している。
ルーメンは、ようやくはっきりと理解し始めていた。
これは錯覚ではない。
疲れでも、考えすぎでもない。
……世界そのものに、最初から存在しなかったかのような空白が生まれている。
そして、その空白に気づいているのは、今のところ……自分だけなのだと。
最初は、気のせいだと思おうとした。
誰にでも、説明のつかない出来事の一つや二つは起こる。学院は古く、建物も多い。風の通り道や、気圧の変化で起きる現象だと考えれば、納得できなくもない。
だが、それにしては……頻度が多すぎた。
机に向かってノートを開いたとき、紙の上に見覚えのない文字が並んでいるのに気づいた。走り書きのようで、丁寧でも乱暴でもない。自分の筆跡とも、誰かの筆跡とも言い切れない、曖昧な文字。
ページの端から端まで、びっしりと同じ言葉が繰り返されている。
「ルーメン、助けて」
息が、わずかに詰まった。
悪戯だと思おうとした。だが、いつ書かれたのかが分からない。授業中も、移動中も、ノートはずっと鞄の中にあった。誰かがすり替える余地はない。
次のページをめくる。同じ文字。
さらにめくる。やはり、同じ。
最後のページまで、例外なく。
誰の名前も書かれていない。差出人も、理由もない。
ただ、助けを求める言葉だけが残されている。
(……誰が?)
問いは浮かぶが、続かない。
「誰か」が存在するという前提が、頭の中でうまく形を結ばない。
その日の帰り道、さらに異変は重なった。
歩いている最中、突然、足元に小石が転がってきた。投げられた……そう思った瞬間、目の前で窓ガラスが割れる音が響く。破片が散り、悲鳴が上がる。
周囲を見回しても、投げた人間はいない。
誰かが逃げる気配もない。
別の日には、誰も触れていないはずの花瓶が、目の前で床に落ちて砕けた。棚は揺れていない。床も傾いていない。ただ、落ちた。
偶然にしては、出来すぎている。
だが、意図を感じ取ろうとすると、思考が空回りする。
(何かが、起きている)
それだけは分かる。
けれど……何が起きているのかが、どうしても分からない。
人ではない。魔術でもない。
少なくとも、今の自分の知識や感覚では、そう判断せざるを得なかった。
説明のつかない出来事が、説明のつかない順序で起こり続ける。
それらは攻撃のようでいて、致命的ではなく、警告のようでいて、意味が掴めない。
まるで……必死に何かを伝えようとして、方法を間違え続けているかのようだった。
ルーメンは、無意識のうちに拳を握りしめていた。
分からない。思い出せない。だが、無視してはいけない。
そんな確信だけが、胸の奥で重く沈んでいた。
それは、一度きりでは終わらなかった。
翌日、別のノートを開いたときも、同じ言葉が書かれていた。
その次の日も。
授業用のノート、研究用のメモ、走り書きに使った紙切れ……触れた覚えのない紙にまで、同じ文字が現れる。
「ルーメン、助けて」
筆圧は毎回微妙に違う。
急いだようなものもあれば、丁寧に揃えられた文字もある。
だが、言葉だけは変わらない。
(……偶然じゃない)
そう断じるのは簡単だった。
問題は、その先だ。誰が書いたのか。なぜ自分なのか。
そして……何から助けるのか。
問いを立てるたびに、答えの手前で思考が途切れる。
頭の中に霧がかかり、核心に触れようとすると、強制的に別の方向へ逸らされる。
苛立ちが、じわじわと募っていく。
放課後、誰もいない教室で机に向かい、紙を広げてみた。
試しに、何も考えずにペンを走らせる。
……何も起きない。
次に、「助けて」という言葉を意識してみる。
すると、ペン先が止まり、紙の端に見覚えのない文字がにじむ。
自分で書いていない。だが、誰かが書いている感覚もない。
(……おかしい)
背筋に、冷たいものが走った。
これは、外からの干渉なのか。
それとも、自分の内側で起きている異常なのか。
どちらにしても……放置できる段階ではない。
その夜、研究室へ戻る途中でも異変は続いた。
人気のない廊下で、突然、照明が一瞬だけ揺らぐ。
階段の踊り場で、風もないのに扉が軋む。
誰もいない。誰も触れていない。
それなのに、確かに「起きている」。
ルーメンは、立ち止まり、深く息を吸った。
胸の奥で、不安と焦燥が絡み合っている。
(分からないまま、進んでる)
この感覚は、危険だ。
理由も分からず、正体も掴めないまま、何かが前に進んでいる。
そして、その“何か”は、自分に向かってきている。
助けを求める声なき声。形を持たない訴え。
名前も、姿も、思い出せない存在。
それでも……無視できない。
ルーメンは、はっきりと決めていた。
このまま悩み続けるのではなく、誰かに聞く。
自分一人で抱え込むには、もう限界だ。
最初に思い浮かんだ顔は、学院で最も身近な存在だった。
……エアリス。
彼女なら、何か気づいているかもしれない。
少なくとも、自分が「おかしくなっていない」かどうかは、確かめられる。
そう思い、ルーメンは歩き出した。
答えが得られる保証はない。
それでも、立ち止まり続けるよりは、前に進む方がまだましだった。




