学院1年セリナ編 第六十九章 ルーメン対カルディ⓻ プライドと記憶
カルディは椅子に深く腰を下ろしたまま、しばらく天井を見つめていた。
視線は定まらず、焦点が合っていない。まるで、頭の中に霧がかかっているようだった。
「……思い出そうとすると、抜け落ちる」
ぽつりと、独り言のように漏らす。
「場面が、繋がらない。さっきまで、何かを“しなきゃいけない”と思っていたはずなのに……」
額に手を当て、目を閉じる。
「剣術大会で……負けた……?」
その言葉が出た瞬間、彼自身が一番驚いたように息を詰めた。
「……いや、違う。負けた、というより……“否定された”?」
言葉が曖昧に揺れる。事実ではなく、感覚だけが浮かび上がってくる。
「誰かに……深く……プライドを……」
そこで、言葉が途切れた。
対象が思い出せない。名前も、顔も、立場も。
だが……感情だけは、異様なほど鮮明だった。
「……胸の奥が、焼けるみたいだった」
静かな声だったが、その重みは軽くない。
「怒り……いや、違う。怒りだけじゃない。屈辱だ。……それが、ずっと残っていた」
握った拳が、わずかに震える。
「誰かに、下に見られた気がした。努力も、立場も、全部……意味がないみたいに」
カルディは、そこで言葉を切った。
それ以上を語ろうとすると、頭が拒絶するようだった。
出来事は思い出せない。
だが、感情だけが“芯”として残っている。
それは記憶ではない。理屈でもない。
……魔力に刻み込まれた、感情の残滓。
俺は、その様子を黙って見つめながら、確信を深めていた。
(引き金は、出来事じゃない)
何が起きたかではない。何を“されたと思ったか”でもない。
ただ……傷ついたと“感じた”プライド。
それだけで、ここまで魔力が歪む。
カルディの暴走は、偶発ではない。事故でもない。
感情が核となり、魔力を引きずり込んだ、必然の暴走だった。
カルディは、しばらく沈黙したまま、自分の手のひらを見つめていた。
その視線は、剣を握るときのものとは違う。力の入らない、確かめるような目だった。
「……見返したかったんだと思う」
ぽつりと、今度は少しだけはっきりした声で言う。
「誰かに、負けたからじゃない。剣術大会の結果だけなら……まだ、受け入れられたはずだ」
言葉を探すように、間を置く。
「でも……下に見られた気がした。そう、“思った”んだ」
彼は、自分の胸を軽く叩いた。
「努力も、剣も、立場も……全部まとめて、否定されたような気がした」
そこには、怒鳴りも嘆きもない。
ただ、淡々とした自己分析だけがあった。
「公爵家の次男として生まれて、周りからは、最初から“出来る人間”だと思われてきた」
それは誇示ではなく、事実の列挙だった。
「剣だけは、自分で積み上げた。だから……剣術だけは、誰にも軽く扱われたくなかった」
拳が、再びゆっくりと握られる。
「それを、否定された“気がした”瞬間……頭が、真っ白になった」
……ここで、はっきりと分かる。
これは「誇り」ではない。誇りなら、折れても立ち直れる。
だが、これは……プライドだ。
外からの評価に強く依存し、傷ついた瞬間、攻撃に転じる。
「強くなりたかった。認めさせたかった。……それだけだったはずなのに」
カルディは、苦笑に近い表情を浮かべた。
「気づいたら、従わせることが“当然”になっていた。逆らわれるのが……許せなくなっていた」
その言葉は、静かだったが、重い。
剣で勝つことではない。上に立つことでもない。
“否定されない位置”に、無理やり世界を押し下げる。
それが、彼の魔力を歪めた。
プライドは、彼の核だった。
同時に……暴走の燃料でもあった。
俺は、無言のまま、その言葉を受け止める。
(……危うい)
剣士としてではない。魔術師としてでもない。
“人”として、極めて危うい状態だった。
カルディの言葉を聞きながら、俺は小さく息を整えた。
「……剣術大会で、負けた……?」
途切れ途切れの声。
その内容自体よりも、俺が引っかかったのは、次の部分だった。
(誰に、だ?)
自然に浮かんだ疑問だった。
だが、続けて思い返そうとした瞬間、思考がそこで止まる。
(……誰だ?)
記憶を辿ろうとするが、引っかかるものがない。
名前も、姿も、声も出てこない。
カルディは「否定された気がした」と言った。「見返したかった」とも。
それなのに、その相手が思い出せない。
不思議だ、とは思った。
だが、深く考えるほどの確信もない。
(混乱のせい、か……)
魔力暴走のあとだ。
記憶が曖昧になることは、珍しくない。
俺自身も、状況の整理に追われている。
今は、それ以上踏み込むべきじゃない……そう判断した。
それでも……カルディの口からこぼれた「誰?」という言葉が、妙に耳に残っていた。
そして同時に、俺自身の胸にも、同じ問いが浮かんでいたことを、小さく自覚する。
(……誰、だ?)
答えは出ない。思い当たる節も、ない。
だから俺は、その疑問を胸の奥に押し込めた。
今は、事件の後始末が先だ。
考えるのは、それが終わってからでいい。
そう自分に言い聞かせながら、俺は視線を前に戻した。




