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学院1年セリナ編 第六十九章 ルーメン対カルディ⑥ 覚醒後の混乱

カルディの魔力が静まった瞬間、はっきりと分かった。

……場の空気が、戻ってきている。

重く、粘つくように張りついていた違和感が、ゆっくりと剥がれていく。

呼吸が浅かった者たちが、次々に深く息を吸い直す。


「……ここは?」

最初に声を上げたのは、武装していた兵士の一人だった。

次いで、別の兵士が頭を押さえながら膝をつく。


「俺たち……何を……」

衛兵隊長が、周囲を素早く見渡す。

剣を構えたままの姿勢だったが、刃先に込められていた殺気は、すでに消えていた。


「……正気に戻っている」

低く、確信を込めた声。

俺は小さく頷いた。

「魅了は、解けています。少なくとも、今この場にいる人たちは」

兵士たちの目に、混乱が浮かぶ。

だが、それは“操られている”状態ではない、普通の混乱だった。


邸宅の奥から、慌ただしい足音が聞こえてくる。

使用人たちが、恐る恐る顔を覗かせ、次第に状況を理解し始めている。

「……あ、頭が……」

「俺、何をしてたんだ……?」

誰もが、はっきりした記憶を持っていない。

だが、共通しているのは……命令に従っていたという“感覚”だけが、薄く残っていることだ。


俺は、衛兵隊長の方を見る。

「学院にいる人たちも、同じはずです。今頃、次々と正気に戻っている」

俺がカルディの魔力を調律したことで、支配の核が消えた。

連鎖していたものは、支えを失えば崩れる。

衛兵隊長は、短く息を吐いた。

「……終わった、ということでいいのか」

「はい。少なくとも、“今進行していた異変”は」

言い切りながらも、俺は慎重だった。

完全な解決かどうかは、これから確認が必要だ。


だが……この場に満ちていた“従わされている空気”は、確実に消えている。

俺は、地に伏したカルディを見る。

意識はある。呼吸も安定している。

だが、その目には、先ほどまであった異様な光はない。

残っているのは、純粋な困惑だけだ。

「……何が、起きた?」

かすれた声。

俺は、すぐには答えなかった。代わりに、状況を確認する。

周囲に、異常な魔力の反応はない。歪みも、引っかかりも、今は感じられない。

(……本当に、解けた)

 その事実を確かめてから、俺は一歩、距離を取った。


「大丈夫です。今は、もう」

それ以上は、まだ言わない。

このあと、話すべきことは多い。確認しなければならないことも、山ほどある。

けれど……少なくとも今この瞬間、誰かが誰かの意思を奪って動かす、そんな異常な状況は、終わった。


静けさが、ゆっくりと邸宅を満たしていく。嵐の直後のような、張りつめた沈黙の中で、俺は次の段階を考え始めていた。


感電の痺れが抜けきらないまま、カルディは浅く息をついていた。

床に背を預け、視線を彷徨わせながら、周囲をゆっくりと見回す。


「……ここは……?」

その声には、先ほどまでの確信も傲慢さもない。

ただ状況を把握できていない者特有の、戸惑いだけが滲んでいた。

俺は、衛兵隊長に目配せする。

武器はすでに奪われ、周囲の兵も正気に戻っている。

今、無理に拘束を強める必要はない。


「覚えていないか」

静かに問いかけると、カルディは眉を寄せた。

「……覚えている、はずなんだが……」

言葉を探すように、何度か口を開いては閉じる。


「剣術大会……そこまでは……確かに……」

そこで、言葉が途切れた。

思考が、そこで断ち切られている。


「そのあとが……ない」

自分でも不可解なのだろう。

額に手を当て、呼吸を整えようとするが、指先がわずかに震えている。


「勝った……いや……」

首を横に振る。

「違う。負けた……? ……分からない」

記憶の断片が、噛み合わない。

事実と感情が、うまく結びついていない。


「とにかく……」

カルディは、ゆっくりと目を閉じた。

「……怒っていた」

その一言だけが、はっきりしていた。


「理由は思い出せない。誰に向けてかも……だが、胸の奥が、焼けるみたいで……」

言葉にするたび、困惑が深まっていく。


「見返してやらなきゃいけない、って……そう思っていた気がする」

俺は、息を殺した。

ここまでくると、出来事ではなく、感情そのものが核だったことが見えてくる。


「……それだけだ。あとは……何もない」

カルディは、力なく首を垂れた。

自分が何をしたのか。誰が傷ついたのか。どれほどの混乱を引き起こしたのか。

……それらは、彼の中からごっそり抜け落ちている。

残っているのは、整理されていない怒りと、説明のつかない空白だけだった。


俺は一歩、距離を保ったまま立ち続ける。

(……魔力が、記憶にまで影響を及ぼしている)

暴走が深かった証拠だ。

そして、まだ安心できる段階ではない。


「今は、無理に思い出そうとしなくていい」

そう告げると、カルディは小さく頷いた。

理解したのか、諦めたのかは分からない。

だが、少なくとも今は、従わせる力も、押し付ける意思も感じられなかった。


しばらくの沈黙のあと、カルディは再び口を開いた。

それは思い出そうとする言葉ではなく、内側に残った感触を確かめるような声音だった。


「……胸の奥に、ずっと残っているものがある」

彼は自分の胸元を、指で押さえる。

「熱いとか、痛いとか、そういうのとは違う。……重い」

言葉を探しながら、ゆっくりと続ける。


「何かを否定された気がしていた。笑われたわけでも、侮辱されたわけでもない。……なのに、許せなかった」

その眉間に、深い皺が刻まれる。


「下に見られた、と感じたんだと思う」


はっきりとした記憶はない。

誰の言葉かも、どんな場面だったのかも曖昧だ。

それでも……感情だけが、異様なほど鮮明に残っている。


「……俺は、公爵家の次男だ」

その言葉は、確認のようだった。

「家柄がある。剣も、それなりにやってきた。努力も、才能も……無駄じゃなかったはずだ」

そこで、一瞬だけ声が揺れた。


「それを……否定された“気がした”」

事実かどうかは、もはや重要ではない。

そう感じた瞬間があった……それだけで、十分だったのだ。


「見返したかった」

短く、率直な言葉。

「取り戻さなきゃいけないものが、あった気がする。それが何かは……思い出せないが」

唇を噛み、視線を伏せる。


「ただ……怒りだけが、残っている」

それは爆発するような怒りではない。

静かで、粘つくような屈辱感。

誇りではない。守り、積み上げてきた価値でもない。

……踏みにじられたと“思い込んだ”プライド。


「……俺は、何をしたんだ?」

ようやく出てきた問いだった。

答えを知るのが怖いのか、それとも知らされていないことを本能的に察しているのか。

その声には、初めて弱さが滲んでいた。


俺は、即座には答えなかった。

(……出来事じゃない。引き金は、完全に“感情”だ)

魔力は、感情に引きずられる。強い想いほど、歪みは深くなる。

そしてカルディの場合……その中心にあったのは、剣でも、勝敗でもない。

傷ついたプライドだった。


「今は、治療が先だ」

そう告げると、カルディは小さく息を吐いた。

「……そうか」

納得したのか、抗う気力がないのか。

いずれにせよ、先ほどまでの危うさは消えている。


だが……俺の中には、別の疑問が、はっきりと形を取り始めていた。

剣術大会で、負けた……?

今年、負けたのは……カルディの方だ。

では、誰に。何に。

そこまでプライドを傷つけるほどの“否定”とは、何だったのか。


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