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学院1年セリナ編 第六十九章 ルーメン対カルディ② 教師の解放

研究室を飛び出した瞬間、頭の中で切り替わる感覚があった。迷いを捨て、手順に従うための冷静さだけを残す。今は考察の時間じゃない。判断と実行を、同時に回し続ける段階だ。


(何人、魅了されているか分からない)

その前提が、すべてを難しくする。発信源が誰であれ、影響は学院全体に広がっている可能性がある。

解除の優先順位は“数”だ。確認に時間をかければ、その分だけ被害が増える。リリィ先生の言葉が、はっきりと胸に残っている……片っ端から。


足は自然と職員室へ向いていた。教師が正気を保っていなければ、統制は取れない。癒し魔術師が影響を受けていれば、事態はさらに悪化する。だから、最初に行くべき場所は決まっていた。


廊下を曲がるたび、視線を遮るための薄い膜を展開する。風と水と光を重ね、透明だが“見えない”層を作る。周囲から見れば、何もしていないように見えるはずだ。それでいい。見ないことが最優先だ。


職員室に満ちていたのは、静けさではなかった。

音がないのに、落ち着かない。人の気配は確かにあるのに、意志の重みだけが抜け落ちている。そんな、異様な空間だった。


教師たちは席に着いたまま、あるいは立ったまま、各々の場所に留まっている。書類を手にしている者もいれば、壁に寄りかかっている者もいる。だが、その誰一人として、互いに声を掛け合おうとしない。視線が合っても、反応がない。あるいは、合っていないのに、こちらを“見ているような気配”だけがある。


(……意識が、薄い)

眠っているわけではない。気絶しているわけでもない。

ただ、自分から動こうとする力が、削ぎ落とされている。


俺は一歩ずつ、慎重に進みながら、教師たちの魔力の流れを感じ取った。外から見れば正常だ。暴走も、欠損もない。だが、内側……意志と魔力が結びつく“核”の部分に、微妙な歪みがある。


(やっぱり……魅了)

リリィ先生の言葉が、はっきりと裏付けられる。

しかもこれは、生徒だけの問題じゃない。


癒し魔術師の教師に近づく。学院で最も頼るべき存在の一人だ。その人物が、机に肘をついたまま、焦点の合わない目で前を見つめている。


声をかける必要はなかった。

俺は魔力を走らせる。

ブライトヒーリング。

柔らかな光が広がり、癒し魔術師の表情が一瞬だけ強張る。次の瞬間、はっと息を吸い込み、周囲を見回した。


「……あれ? 私は……」

混乱の兆し。だが、それは“正気に戻った証拠”でもある。

「大丈夫です。少し静かにしていてください」


短く告げ、次へ向かう。説明をする余裕はない。今は解除が最優先だ。

ブライトヒーリング。

ブライトヒーリング。

教師一人ひとりに、確実に癒しを重ねていく。解除されるたび、空気が少しずつ“人の場”に戻っていくのが分かる。囁き声が生まれ、戸惑いが生まれ、状況を把握しようとする動きが生まれる。


だが、そのたびに、俺の胸は重くなっていった。

(……大多数だ)

一部じゃない。

職員室にいた教師の、ほとんどが影響を受けていた。

つまり……学院の判断機構は、ほぼ無力化されていたということだ。


最後の教師にブライトヒーリングを施し終えたとき、職員室はざわめきに満ちていた。誰もが同じ疑問を抱いている。「何が起きた?」「なぜ自分は動けなかった?」と。

その中心で、俺は深く息を吸う。ここから先は、もう独断では進めない。

責任ある判断が必要だ。

(次は……校長だ)

無礼だろうが、非常識だろうが構わない。学院を動かすには、最上位の判断が要る。

俺は職員室を後にし、校長室へと向かった。事態はすでに、“事件”の域を越えている。

学院そのものが、試されているのだと……はっきり理解しながら。


校長室の扉の前に立ったとき、俺は一度だけ呼吸を整えた。

礼儀も順序も、今は二の次だ。ここで躊躇すれば、被害が拡大する。それだけははっきりしている。

ノックを待つという発想すらなかった。俺は扉を開け、そのまま中へ踏み込む。


「失礼します」

校長は机に向かっていた。だが、その姿勢はどこか不自然で、視線が一点に固定されている。職員室で見た教師たちと、同じ空気だ。


(……やっぱり)

言葉での確認は不要だった。俺は距離を詰め、即座に癒しの魔力を流す。

ブライトヒーリング。

光が収束し、校長の肩がわずかに揺れた。次の瞬間、深く息を吐き、眉間に皺を寄せる。


「……これは……」

視線が動く。焦点が合い、部屋の様子を確かめるようにゆっくりと首を巡らせた。

「校長先生、時間がありません」

俺は短く告げた。余計な前置きはしない。

「宝物庫の聖剣盗難、屋上からの飛び降り事件。どちらも、魅了によるものです。影響は生徒だけでなく、教師にも及んでいました」

校長は、すぐに状況を飲み込んだわけではなかった。だが、混乱の中でも、長年学院を預かってきた人物の目をしている。


「……魅了、だと?」

「はい。本来は魔物しか使えない能力です。人が使う理由は分かりません。ただ、解除は可能です。癒し魔術の上位で対応できます」

校長は椅子から立ち上がり、深く息を吸った。

「……分かった。君の判断を信じよう」

即断だった。その言葉に、俺は内心で安堵する。

「先生方を集める必要があります。癒し魔術師、剣術教官、そして、寮と校内の統制を取れる人材を」


「私が指示を出す」

校長は迷いなく頷いた。

「この学院の非常時対応として、君に現場の裁量を与える。必要なことは、すべて進めなさい」

その宣言で、空気が変わった。

学院が、ようやく“動き出す”。

「ありがとうございます」

深く頭を下げる時間も惜しい。俺はすぐに次の段取りを思考に走らせた。

解除、招集、隔離、捜索。

一つでも遅れれば、取り返しがつかなくなる。


校長の背後で、壁に掛けられた学院章が静かに揺れていた。

それは、秩序の象徴であり……今、この瞬間に守らなければならないものだった。

俺は踵を返し、再び廊下へ出る。ここから先は、判断の連鎖だ。

一手でも誤れば、誰かが傷つく。その重みを、はっきりと背負いながら。


校長室を出ると同時に、学院全体が一段階、別の局面へ入った感覚があった。

今までは「異変」だったものが、明確な「非常事態」へと切り替わる。

校長の指示は迅速だった。

職員室、講堂、各寮へと、連絡が一斉に飛ぶ。教師たちが動き始める気配が、廊下の向こうから伝わってくる。


俺は、その流れの中心に立っていた。

「癒し魔術が使える先生方は前へ出てください」

講堂に集められた教師たちの前で、俺は簡潔に告げる。

ざわめきが走るが、誰も口を挟まない。さきほどまで正気を失っていた者たちも、今は状況の異常さを理解している。


前に出てきたのは六人。

五属性の魔術師が五人、そして光属性の魔術師が一人。男女はまちまちだが、全員、学院でも信頼の厚い顔ぶれだった。

「判断の時間がありません。魅了にかかっているかどうかの確認は行わず、寮の各部屋を回り、全員にブライトヒーリングを施してください」

一瞬、戸惑いが走る。

だが、俺は言葉を重ねない。

ここで迷わせること自体が、最大のリスクだ。


校長が一歩前に出る。

「先生方、落ち着いて行動してください。ルーメン君の指示に従ってください。これは、学院としての決定です」

その一言で、空気が締まった。

教師たちはそれぞれ頷き、すぐに行動へ移る。


「剣術の先生方」

今度は、屈強な教官たちへ視線を向ける。

「特に腕の立つ方、二名。僕と一緒に来てください。その他の先生方は、寮と校内の巡回を。異変があれば、即座に報告を」

剣術教官たちは無言で応じた。

言葉よりも、状況を理解しているという目だった。


役割分担が、次々と決まっていく。

解除班、巡回班、招集班。

学院は、ようやく「一つの組織」として動き始めていた。


(次は――カルディだ)

解除をどれだけ進めても、発信源を止めなければ意味がない。

そして、その所在は、すでに見えている。

公爵家次男。学院の外にある、自宅の邸宅。

俺は拳を軽く握りしめた。ここから先は、解除では済まない。

直接向き合う必要がある。


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