学院1年セリナ編 第六十九章 ルーメン対カルディ① リリィの見解
第六十九章 ルーメン対カルディ
学院の空気が、目に見えない膜を一枚かぶったように重かった。廊下を歩く足音がいつもより小さく、言葉が交わされても途中でしぼむ。笑い声があっても、どこか乾いている。
その中心にあるのは、屋上から飛び降りた女子生徒の話だった。
「ねえ、聞いた? あの子、屋上から……」
「……だって、カルディ様が……」
「違う、事故だって先生が……でも、あの子、同じ言葉しか言わなかったって……」
断片だけが、怖さを増幅させて伝わってくる。誰も全体像を知らないのに、皆が“何かがおかしい”ことだけは共有している。
俺はその輪の外を歩きながら、胸の奥の落ち着かなさを持て余していた。
(事故じゃない。事故で片付けようとしている……そう見える)
根拠はない。けれど、俺はもう何度も「根拠がない違和感」を軽く見て失敗しそうになったことがある。何かが起きる前、起きた直後、人は都合のいい説明に飛びつく。怖いからだ。秩序が崩れるのが怖いから、規則違反や不注意という言葉で枠に押し込めたくなる。けれど今回の噂は、その枠に収まりきっていない。
宝物庫の聖剣が持ち出された。しかも、教師が途中で叱責をやめた。生徒たちは「カルディ様の意のままに」と繰り返した。屋上から飛び降りた女子生徒も、同じ言葉を言い続けた。……それらが偶然の連鎖だとは、どうしても思えなかった。
俺の頭の片隅で、別の感情が静かに引っかかっている。カルディ・ハクエ・サランディーノ。
食堂で会ったばかりの男だ。礼儀はあった。態度は落ち着いていた。噂になるほどの存在感は、確かにあった。
だが、あの場で感じたのは、ただの「強い剣士」と「公爵家の次男」という現実味だった。それが、今こうして学院全体の不穏の中心に名を置くのが、どうにも噛み合わない。
(噂は噂だ。だけど……噂だけでここまで空気が変わるか?)
人は、恐怖に理由を求める。理由が見つからないとき、誰かを理由にする。だから、目立つ者の名は便利だ。
けれど今回は、便利さだけでは説明できない“揃いすぎた一致”がある。言葉が同じ。行動が同じ。理屈を踏み外したような、無理やり揃えられた何か。
教室へ向かう階段の途中で、俺は一度立ち止まった。息を吸っても、胸の内側が軽くならない。入学してまだ間もないのに、学院という場所が、急に別の顔を見せ始めている。
規則があって、教師がいて、制度がある。そういうものに守られているはずの場所で、「守り」が薄くなっている感覚がした。
(……リリィ先生に聞こう)
俺は足を返した。迷う時間が惜しい。もし大したことがなければ、それでいい。
けれど、もし“違う”なら、躊躇のせいで被害が増える。
屋上から飛び降りた女子生徒が一命を取り留めたという噂は、救いであると同時に、警告でもある。次は、取り留められないかもしれない。
研究室へ向かう道すがら、俺は自分の心のどこかで、もう答えを探し始めているのを感じた。これは、単なる不注意でも、単なる悪ふざけでもない。
誰かが、何かで、学院の人間の意思を動かしている。……そんな結論に、早すぎると分かっていながら、近づいていく。
言葉にできない違和感が、喉の奥に残ったままだった。
それは特定の誰かではなく、この学院全体に向けられたものだった。
考えを振り払い、歩みを速める。今は目の前の異変を確かめるべきだ。自分の直感を、憶測のまま膨らませるのは危険だ。だからこそ、確かめる。確かめるために、俺は師のもとへ走る。
研究室の扉の前に立ったとき、胸の奥で小さく何かが鳴った。嫌な予感ではない。「これから踏み込むものは、ただの噂では終わらない」という、静かな確信に近い感覚だった。
研究室の扉を開けると、いつもと同じはずの空気が、今日はわずかに違って感じられた。薬草の香りも、魔術器具の整然とした配置も変わっていない。それなのに、胸の奥のざわつきだけが消えない。
「リリィ先生」
声をかけると、机に向かっていた彼女が顔を上げた。こちらの表情を一目見ただけで、ただならぬものを感じ取ったように、静かに手を止める。
「……何がありましたか」
問いは短いが、促すような響きがあった。俺は一度息を整え、噂として学院内を巡っている出来事を、できるだけ順序立てて説明した。
屋上から飛び降りた女子生徒のこと。
宝物庫から聖剣が持ち出された件。
叱責の途中で言葉を失った教師たち。
そして、生徒たちが同じ言葉を繰り返していたという事実。
話し終える頃には、自分でも驚くほど喉が乾いていた。
リリィ先生は、すぐには何も言わなかった。顎に指を当て、視線を落としたまま、与えられた情報を一つずつ整理していく。その沈黙が、かえって緊張を強める。
「……なるほど」
ようやく顔を上げたとき、その目には冷静な分析の光があった。
「断片的ですが、共通点があります。意思の欠如、同一の言葉、行動の一致。事故や混乱だけでは説明がつきませんね」
背筋が自然と伸びる。
「可能性として考えられるのは――魅了、です」
聞き慣れないが、意味は理解できる言葉だった。俺は息を詰める。
「……魅了、ですか?」
「ええ。本来は魔物が使う能力です。人の意思に直接干渉し、命令を“自分の考え”だと錯覚させる」
そこで、リリィ先生はわずかに言葉を切った。
理論を積み上げる途中で生じた、はっきりとした違和感を、そのまま口にするように。
「……ですが、おかしいですね」
視線が、考え込むように宙を泳ぐ。
「魅了は魔物固有の性質です。術式でも、系統魔術でもありません。人が“使える”ものではない。……それなのに、あなたの話では、人が中心になって現象が起きている」
淡々とした声音だったが、その一言には、研究者としての警戒が滲んでいた。
「人間が魅了を使うなんて、理屈に合わない。私の知る限り、前例もありません」
意思に干渉する……それは、魔術の中でも最も忌避される領域だ。
「じゃあ……今起きていることは……」
「可能性の話ですが、魅了そのもの、もしくはそれに極めて近い現象が発生していると考えるのが自然でしょう。しかも、かなり強力な形で」
リリィ先生は一瞬だけ言葉を切り、視線を真っ直ぐにこちらへ向けた。
「ルーメン。これだけは、必ず守りなさい」
空気が、はっきりと張り詰める。
「絶対に、相手の目を見てはいけません。好奇心でも、確認のためでも、反射的でもだめ。見た瞬間、あなたは主導権を失う可能性があります」
その声音には、警告以上の重みがあった。
「魅了は、視線を媒介にすることが多い。魔物相手ならともかく、人が使っている場合、仕組みはさらに不安定で危険です。魅了は、相手の意思を書き換える。抵抗できるかどうかは、魔力量の多寡では決まりません。条件が揃えば、どれほど強くても……、ルーメンでも例外にはならないと思います」
俺は無意識に喉を鳴らした。
「……僕でも、ですか」
「ええ。あなたでも、です」
迷いの欠片もない答えだった。
理屈は分かる。分かるからこそ、背筋に冷たいものが走る。自分が“できる側”にいるという慢心が、ここでは命取りになる。
「視線は遮りなさい。膜でも、角度でも、障害物でもいい。見ないための工夫を最優先に」
「はい」
短く答えると、彼女は続けた。
「解除自体は難しくありません。癒し魔術の上位……ブライトヒーリングで十分です。あなたの力量なら問題ない。ただし……」
そこで、リリィ先生は小さく眉をひそめた。
「学院側がまだ把握していない、あるいは把握していても動けていない可能性があります。教師や癒し魔術師が影響を受けているなら、なおさらです」
頭の中で、いくつもの点が繋がっていく。教師が叱責をやめたこと。生徒たちが同じ言葉を繰り返したこと。噂が噂で終わらず、空気そのものを変えていること。
「……行ってきます」
気づけば、そう口にしていた。
「待ちなさい、ルーメン」
呼び止められ、足を止める。
「あなた一人で抱え込む必要はありません。でも、初動は早い方がいい。あなたの判断は、今のところ間違っていません」
その言葉に、背中を押された気がした。
「分かりました。必ず、目は見ません」
そう答えると、俺は踵を返した。研究室を飛び出した瞬間、胸の奥で覚悟が固まる。
(何人、魅了されているか分からない)
けれど、考えている暇はない。解除できる力があるなら、動くしかない。学院が、これ以上歪む前に。
俺は、全力で走り出した。




