学院1年セリナ編 第六十八章 カルディの異変④ カルディの暴走
学院内での空気は、いつの間にか変質していた。
カルディの周囲に集まる生徒たちは、もはや「頼まれている」という感覚を持っていない。
先回りして動き、顔色をうかがい、言葉を待つ。それが正しい振る舞いだと、疑いなく信じている。
カルディは、そうした反応を当然のものとして受け取っていた。
命令しているという自覚はない。ただ、言葉を発すれば、結果がついてくる。
席を用意される。荷物が運ばれる。必要な情報は、向こうから集まってくる。
誰かが躊躇すれば、苛立ちが湧く。誰かが遅れれば、不快になる。
……それは、あるべき姿ではない。
その感覚だけが、カルディの中で明確だった。
次第に、求める内容は変わっていく。
最初は些細な用事だった。次は、時間や手間のかかること。やがて、規則に触れるかどうかなど、意識の外へ押し出されていく。
従う側もまた、変わっていった。
頼まれたことを果たせば、肯定される。応えれば、価値があると感じられる。
「役に立てた」という感覚が、喜びに変わる。
カルディの言葉を待ち、動けること自体を誇らしく思う生徒も現れ始めた。
止める声はない。疑問を挟む空気もない。
学院という場で、本来守られるべき境界が、静かに崩れていく。
カルディ自身は、何も変わっていないつもりだった。
ただ、自分の言葉が通る。自分の存在が中心にある。
それが、当たり前になっただけだ。
だがその内側で、傷ついたプライドが満たされる感覚だけが、異様な速度で膨らんでいた。
誰かに否定されることは、もはや耐えられない。
逆らわれる理由も、存在しない。
この空間では、自分が基準であり、自分が正解であり、自分が中心なのだ。
その日、学院の空気はどこか浮ついていた。
カルディの周囲には、いつもより多くの生徒がいた。理由は、誰にもはっきりとは分からない。
ただ、そこにいると安心できる。そこにいれば、自分にも価値がある気がする。
そんな漠然とした感覚が、人を引き寄せていた。
カルディは、集まる視線や期待を、当然のものとして受け止めている。
学年のほとんどの女子は、いつの間にかカルディに虜になっていた。
廊下でも、食堂でも、訓練場でも。彼が現れると、空気が変わる。話題が止まり、意識が向き、足が自然とそちらへ向かう。
カルディは、それを不自然だとは思わなかった。
拒む理由も、疑う理由もなかった。
……自分は、それだけの存在なのだ。
ある日、そんな空気の中で、一人の女子生徒が声をかけた。
頬を紅潮させ、緊張を隠しきれない様子で、けれど迷いはなかった。
「……カルディ様」
その呼び方を、もはや誰も咎めない。
女子生徒は、期待に満ちた表情のまま続ける。
「私……カルディ様と、お付き合いしたいです」
周囲がざわめく。羨望と嫉妬が入り混じった、重たい空気。
カルディは、軽く息を吐いた。
深く考えたわけではない。
言葉は、自然に口をついて出た。
「本気なら……覚悟を見せてみろ」
女子生徒の顔が、ぱっと明るくなる。
「屋上から飛び降りてこい」
一瞬、静寂が落ちた。
だが、女子生徒は微笑んだまま、何度も頷いた。
「……カルディ様の意のままに」
その言葉を繰り返しながら、彼女は歩き出す。
止める声は、上がらなかった。
止めなければならない、という感覚そのものが、どこかに消えていた。
屋上へ続く階段を上り、風の吹き抜ける場所に立ち。
そして……
女子生徒は、ためらうことなく、身を投げた。
悲鳴が上がる。人々が駆け寄る。
その瞬間になって、学院はようやく理解する。
これは、噂では済まされない。もてはやしでも、偶像でもない。
命を奪いかねない異変が、すでに起きてしまったのだと。
風を切る音が、ほんの一瞬、空気を裂いた。
次の瞬間、鈍く重い衝撃音が、学院の中庭に響き渡る。
悲鳴が遅れて重なり、ざわめきが一気に膨れ上がった。
屋上から飛び降りた女子生徒は、動かなかった。
倒れたまま、呼吸があるのかどうかも分からない。
ようやく我に返った生徒たちが駆け寄り、誰かが癒し魔術師を呼びに走る。
血の気を失った顔、震える手、泣き崩れる声。
数分前まで漂っていた、あの奇妙な高揚感は、跡形もなく消え去っていた。
癒し魔術師が到着し、必死の処置が施される。
時間は長く感じられたが、やがて一つの事実が告げられる。
一命は、取り留めた。
その言葉に、安堵と同時に、重たい沈黙が落ちた。
助かったからよかった、という単純な話ではない。誰もが理解していた。
――もし、癒しが間に合わなければ。
――もし、少し角度が違っていたら。
そこにあったのは、事故ではない。軽率な悪ふざけでもない。
「言われたから」「従ったから」
それだけで、人が命を投げ出しかけたという現実だった。
視線が、自然とカルディへ向く。
彼は、その場に立ったまま動かなかった。
驚きも、動揺も、後悔も、表情には浮かばない。
自分が何をしたのか。それがどんな結果を招いたのか。
……まだ、理解していなかった。
だが、この瞬間を境に、学院ははっきりと知ることになる。
これは個人の問題ではない。一人の生徒の慢心でも、失言でもない。
学院という場そのものを揺るがす、明確な異常事態が始まってしまったのだと。
癒し魔術師の詠唱が途切れ、静かな息遣いだけが残った。女子生徒は担架に乗せられ、慎重に運ばれていく。
命はつながった……それは事実だった。だが、そこに安堵だけが残るはずもない。
周囲に立ち尽くす生徒たちは、誰も口を開けずにいた。さきほどまでの熱、称賛、浮ついた空気は、冷え切った現実に押し潰されている。
教師たちは互いに視線を交わし、状況を整理しようとする。
規則違反。危険行為。生徒指導。
どれも当てはまるが、どれも核心に届かない。
問題は、「なぜ」起きたのかだ。
命令した者がいる。命令に疑問を抱かず、従った者がいる。
そして、それを止められなかった大人たちがいる。
学院が守ってきた前提……
理性、判断、自由意志。
それらが、音もなく歪められていた。
この出来事は、隠せない。事故として片付けることもできない。
噂ではなく、実害。偶然ではなく、連鎖。
学院は、ようやく現実を直視する。
これは一過性の異変ではない。すでに進行している問題だということを。
そして、その中心にいる名が、静かに共有され始めていた。
カルディ・ハクエ・サランディーノ。
彼の名は、称賛ではなく、警戒の響きを帯び始める。
だがその時点では、まだ誰も知らなかった。この異変が、どこまで深く根を張っているのかを。
その日のうちに、学院全体が異様な空気に包まれた。
屋上から飛び降りた女子生徒の一件は、瞬く間に広がった。
誰が、どこで、何をしたのか。
断片的な情報が、恐怖と憶測を伴って伝播していく。
だが、噂の中心にあったのは「事故」ではなかった。
――命令されたらしい。
――逆らえなかったらしい。
――自分の意思じゃなかった、と。
耳を疑う言葉が、何度も繰り返される。
教師たちは緊急会議を開き、当該生徒の隔離と事情聴取を進める。
だが、証言はどれも同じ言葉に行き着いた。
「カルディ様の意のままに」
理由は説明されない。動機も語られない。ただ、その言葉だけが、空虚に残る。
学院がこれまで想定してきた問題……暴力、規則違反、反抗。そのどれにも当てはまらない。
力を振るった形跡はない。脅した様子もない。命令したという確かな証拠さえ、残っていない。
それでも、人の行動が、明らかに本人の意思から逸脱している。
その事実が、教師たちの背筋を冷たくした。
生徒たちの間では、カルディの名が囁かれ続ける。
恐れと、畏怖と、なお消えきらない憧れを混ぜながら。
近づくな、と言われても。関わるな、と注意されても。
「でも、悪い人には見えなかった」
「優しかった」
「安心できた」
そんな言葉が、無意識に口をついて出る。
それが、事態の深刻さを何より物語っていた。
学院は理解する。
これは一人の生徒の問題ではない。
学院という場そのものが、すでに歪み始めている。
そして……この異変は、まだ終わっていない。




