学院1年セリナ編 第六十八章 カルディの異変① セリナとその周囲
第六十八章 カルディの異変
剣術大会の決着がついてから、しばらくの間、会場の熱は冷めなかった。
勝者の名が何度も呼ばれ、歓声と拍手が渦のように巻き起こり、その中心にセリナはいた。
汗に濡れた髪をそのままに、剣を下ろした彼女の周囲には、次々と女子生徒たちが集まり、口々に祝福の言葉を投げかけている。
「すごかったよ、セリナ!」
「あの最後の一本、鳥肌立った!」
そんな声に囲まれながら、セリナは何度も笑顔で応え、軽く手を振り、頷いてみせた。その表情だけを見れば、誰もが疑わないだろう。剣術大会優勝者にふさわしい、誇らしく、晴れやかな姿だと。
実際、セリナの胸には確かな達成感があった。三年連続で決勝に立ち、今年こそ自分の剣で頂点に立った。その事実は、剣士としての誇りを強く満たしていた。
努力が報われたこと、積み重ねてきた鍛錬が間違っていなかったことを、あの一本がはっきりと証明している。
だが、その熱気の中で、セリナは無意識のうちに、何度か視線を巡らせていた。歓声の向こう側、少し離れた場所……そこに、カルディの姿を探す癖が、まだ残っていた。
それに気づいた瞬間、セリナはわずかに唇を引き結ぶ。
「……私は、優勝したんだから」
誰に聞かせるでもないその言葉を、心の中で繰り返す。祝福に囲まれたこの場所では、迷いも、後悔も、弱さも似つかわしくない。
そう言い聞かせるように、セリナは再び顔を上げ、集まる生徒たちに応じた。
表面上は、何ひとつ問題はなかった。
勝利も、称賛も、誇りも、すべて手に入れているはずだった。
……けれど、その中心に立ちながら、セリナの心の奥には、まだ形にならない違和感が、静かに残り続けていた。
歓声に包まれながら、セリナは何度も祝福を受け取った。優勝者として名を呼ばれ、称えられ、そのたびに胸の奥で誇りが確かに脈打つ。
剣士として、これ以上ない結果だ。誰よりも強かった、その事実は揺るがない。
それでも、心の奥底は不思議なほど静まらなかった。
(……約束は、守った)
自分で決めた条件だった。剣術大会という大舞台で、自分より強い者だけを隣に置く。そのための約束であり、その約束に従っただけだ。
感情ではなく、剣士としての矜持に基づいた判断だったはずだ。
セリナはそう考えようとした。
けれど、優勝の余韻の中で、何度も同じ考えが浮かび上がる。
……本当に、それだけだったのか。
カルディに告げた言葉が、頭の中で繰り返される。「約束したでしょ」、「私より弱いから、終わりよ」
あの瞬間、自分は迷っていなかったのか。感情を切り捨てるように言い切った、その口調は、本当に自分の本心だったのか。
セリナは、自分の中にある“誇り”を思い返す。剣士としての誇り。約束を曲げないという誇り。弱さを見せないという誇り。
それらは確かに自分を支えてきた。だが同時に、融通の利かない重さとして、胸に沈殿している気もしていた。
(……私は、負けたくなかっただけ)
カルディにではない。誰かにでもない。
自分自身の言葉を曲げることに。
剣士として生きてきた時間が長いほど、その誇りは硬くなっていく。勝った今だからこそ、その硬さが、違和感として浮かび上がっていた。
周囲の祝福の声が遠く感じられる一瞬、セリナは小さく息を吐いた。
勝利は確かに手にした。けれど、その裏側で、何か大切なものを置き去りにしてしまったのではないか……そんな感覚だけが、どうしても消えなかった。
人だかりの外側から、ルーメンはその光景を眺めていた。
優勝者であるセリナの周囲には、同級生や後輩の女子たちが集まり、次々と祝いの言葉を投げかけている。
剣術大会の熱気はまだ冷めきらず、学院全体が浮き立っているようだった。
その中心にいる姉の姿は、誇らしくもあり、どこか遠くも感じられた。
(……やっぱり、すごいな)
剣を振るう姿も、勝利を掴み取る姿も、間違いなく学院随一だ。弟として、素直にそう思う。
だからこそ、ルーメンは人混みをかき分け、祝福の言葉を伝えに行った。
「セリナ姉、優勝おめでとう。本当に、さすがだよ」
その言葉を向けた瞬間、セリナはぱっと明るい笑顔を浮かべた。
周囲に見せているのと同じ、堂々とした勝者の表情だった。
「ありがとう。ちゃんと勝てたわ。誰よりもね」
強い言葉。自信に満ちた声。
けれど……。
ルーメンは、その一瞬を見逃さなかった。
笑顔が完成する直前、ほんのわずかに視線が揺れ、表情の奥に曇りが差したことを。
(……今の)
一瞬すぎて、気のせいだと言われればそれまでだ。
だが、長年姉を見てきたルーメンには分かった。あれは疲れでも、単なる余韻でもない。
「……セリナ姉、心から喜んでないよね?」
思わず、そんな言葉が口をついた。
「何かあった? 陰口とか言われた? 目立つ人には、そういうのもあるからさ。気にしないで、堂々としてればいいと思うよ」
弟なりの、精一杯の気遣いだった。
剣士として頂点に立った者が、些細な言葉で心を削られる必要はない。そう思ったからこそ、あえて軽い口調で言った。
セリナは一瞬、言葉に詰まったように見えた。
それから、ほんの少しだけ視線を逸らし、すぐに弟の方を向く。
「……ちょっと、ね。でも大丈夫よ」
そう言って、胸を張る。
「私、優勝したんだから。誰よりも強いんだからね。姉の勇姿を、弟に見せることができて嬉しいわ」
その言葉は力強かった。
だが同時に、何かを押し殺すような響きも含んでいた。
(……やっぱり、何かある)
ルーメンはそれ以上踏み込まなかった。
人だかりは相変わらず多く、落ち着いて話せる空気ではない。それに、本人が「大丈夫」と言っている以上、弟が無理に掘り下げるべきではないとも思った。
「そっか。じゃあ、後でゆっくり話そう」
そう言い残し、ルーメンは一歩下がる。
その場を離れながら、ルーメンは改めて感じていた。
剣術大会という舞台は、勝者も敗者も、思った以上に多くのものを背負わせるのだと。
人だかりの中心に戻ったセリナは、再び周囲の声に応えるように笑顔を作った。
「おめでとう」「さすがだね」「今年も強かった」……そんな言葉が、途切れることなく降り注ぐ。
その一つ一つに、彼女は頷き、短く礼を返す。
剣士として、勝者として、正しい振る舞いだった。
(私は……勝った)
心の中で、セリナは何度もそう繰り返す。
それは喜びの確認であると同時に、自分自身に言い聞かせるための言葉でもあった。
(約束は守った。私は曲げなかった)
剣士としての誇り。
自分が決めた条件を、自分の手で貫いたという事実。
それは確かに、誇るべきことのはずだった。
……なのに。
胸の奥に、わずかな重みが残っている。
剣を握っている時には感じなかった、鈍い違和感。
(……私は、間違ってない)
そう思おうとすればするほど、その言葉が必要になること自体が、どこか不自然に思えてくる。
だがセリナは、その違和感を掘り下げようとはしなかった。
「私は優勝した」「誰よりも強い」その事実だけを、前面に押し出す。
弱さを見せないために。迷いを悟られないために。
剣士としての誇りは、彼女にとって盾でもあった。
そして同時に……自分自身を守るための、最も堅い殻でもあった。
その殻が、内側で少しずつ軋み始めていることに、セリナ自身はまだ気づいていなかった。




