学院1年セリナ編 第六十七章 セリナたちの馴れ初め⑤ 決勝戦のあとで
勝敗が決した直後も、会場の熱はしばらく収まらなかった。
歓声、拍手、名前を呼ぶ声が幾重にも重なり、剣術大会の決勝にふさわしい喧騒が続いている。
だが、セリナの胸の内は、その音とは裏腹に静まり返っていた。
(……勝った)
その事実が、じわりと遅れて染み込んでくる。
剣を握る手が、ほんのわずかに震えているのを、彼女自身が一番よく分かっていた。
カルディに勝った。剣士として、正面から。
それは誇りであり、喜びであり……同時に、胸の奥を締めつける予感でもあった。
観覧席の方を見ると、ルーメンとエアリスの姿が目に入る。
二人とも立ち上がり、全力で手を叩いていた。
特にルーメンは、弟らしく、まっすぐな笑顔でこちらを見ている。
その視線を受けて、セリナは思わず口元を緩めた。
剣士としての勝利を、弟に見せられたことは、やはり嬉しい。
しかし……。
視線を戻した先で、セリナはカルディの姿を見た。
彼はまだ立ち上がっていなかった。
膝をついたまま、剣術場の床に片手をつき、肩を大きく上下させている。
(……やりきった、って顔じゃない)
敗北を受け入れた者の表情ではなかった。
それは、剣で負けた以上の何かを、同時に失った人間の顔だった。
カルディは、ゆっくりと顔を上げる。
その視線が、セリナと重なった。
一瞬だけ、時間が止まったように感じられた。
カルディの瞳には、悔しさがあった。
剣士としての誇りが砕けた痛みが、はっきりと滲んでいる。
だがそれ以上に……戸惑いと、恐れがあった。
(……来る)
セリナは、無意識のうちに息を飲んだ。
自分が、あの約束を口にしたこと。
軽い気持ちではなかったが、どこか「その時は来ない」と思っていたこと。
それが、今、現実として目の前にある。
カルディは、ゆっくりと立ち上がった。
足取りは確かだが、背中は少しだけ小さく見える。
歓声は、まだ続いている。
だが二人の間には、まるで別の静寂が流れているかのようだった。
勝った者と、負けた者。
剣術大会の決勝としては、それだけの話だ。
……けれど、二人にとっては違う。
この勝敗は、約束の履行を意味していた。
セリナは剣を下ろし、胸の前で強く握りしめる。
自分が何を言わなければならないのか、分かっていた。
それでも、今はまだ、言葉にできなかった。
(……少しだけ)
ほんの少しだけ、時間が欲しかった。
勝利の余韻が、歓声に紛れて消える前に。
この結果がもたらすものを、心の中で受け止めるために。
だが、約束は待ってくれない。
勝敗は、もう出てしまったのだから。
勝者が決まったという事実は、遅れて会場全体に広がっていった。
「セリナ・プラム・ブロッサム!」
審判の声が高らかに響くと同時に、剣術場は一気に歓喜に包まれる。
大きなどよめき、割れんばかりの拍手、あちこちから上がる称賛の声。
剣を極める者たちにとって、これ以上ない舞台での勝利だった。
セリナは、反射的に両手を高く掲げた。
それは、剣士としての癖のような動きだった。
(……勝った)
その瞬間、胸の奥に溜まっていた緊張が、一気に解ける。
三年間積み重ねてきた鍛錬。
自分を追い抜いた相手に、再び立ち向かう覚悟。
すべてが、この一瞬に収束していく。
会場の歓声が、遠くで鳴っているように感じられた。
一方で、カルディは……動けなかった。
剣を落としたまま、膝から崩れ落ち、ただそこに座り込んでいる。
肩は小さく震え、視線は床に落ちたまま上がらない。
(……負けた)
その事実を、頭では理解していても、身体が追いついてこない。
最後の一分、わずかに崩れた集中。そこを突かれた一瞬の隙。
剣士として、あまりにも致命的だった。
剣で負けた。それだけでも、十分すぎるほど重い。
だがカルディの胸を締めつけていたのは、それだけではなかった。
(……約束、か)
セリナが口にした言葉。
「大きな大会で私に負けたら、別れる」
あの時は、覚悟の上だったはずだ。
自分が勝ち続けるという、自信もあった。
だからこそ、受け入れた条件だった。
それが、今……自分を奈落へ突き落とそうとしている。
歓声の中で、セリナとカルディの距離は、決定的に開いていた。
勝者として称えられるセリナ。
敗者として取り残されるカルディ。
二人の間に流れる空気は、周囲の熱とはまるで別物だった。
セリナは、ふと視線を落とし、カルディの姿を見つめる。
歓喜の裏側で、胸の奥に冷たいものが落ちていく。
(……不安な顔、してる)
それが分かった瞬間、勝利の実感は、わずかに色を失った。
剣士としての勝利は、疑いようがない。
誇りも、達成感も、本物だ。
それでも……。
セリナは、両手を掲げたまま、笑顔を作り続けていた。
勝者として、ここで立っている以上、その役割を放棄することはできない。
だが、心の奥では、別の感情が静かに渦を巻いていた。
歓喜の渦中に立つセリナ。
絶望の底で動けないカルディ。
この対比こそが、約束の残酷さを、何より雄弁に物語っていた。
剣術大会は、終わった。
だが……本当の決着は、まだ先に残されていた。
剣術大会の喧騒が、少しずつ遠ざかっていく。
観客が引き、後片付けが始まり、剣術場の熱気が現実の温度へと戻っていく中で、セリナとカルディは、人気のない控え室へと向かっていた。
並んで歩いているはずなのに、二人の間には、これまでにない距離があった。
扉が閉じられると、外の音は一気に遮断される。
静寂が、重く降りた。
カルディは、壁際に立ったまま、セリナの方を見なかった。
セリナもまた、剣を腰から外し、机の上にそっと置いたまま、言葉を探していた。
どちらも、何を話すべきか分かっている。
だからこそ、最初の一言が、どうしても出てこなかった。
先に沈黙を破ったのは、カルディだった。
「……おめでとう」
低く、かすれた声だった。
無理に絞り出した言葉だと、すぐに分かる。
「完璧だった。最後の一撃も……さすがだよ」
それは、敗者としての潔さだった。
剣士としての誇りが、まだ彼の中に残っている証でもあった。
セリナは、その言葉を正面から受け止める。
「ありがとう」
短く答えながらも、胸の奥が少しだけ痛んだ。
(本当は……)
言いたいことは、たくさんある。
称え合いたい気持ちも、労いたい思いも、全部本物だ。
けれど、二人の間には、避けて通れない“約束”が横たわっている。
セリナは、静かに息を吸った。
「……カルディ」
その名前を呼ぶ声は、剣を振るう時よりも、ずっと慎重だった。
カルディは、ようやく顔を上げた。
その目には、悔しさと、覚悟と、そしてわずかな恐れが混じっている。
「……来ると思ってた」
自嘲気味に笑いながら、彼は肩をすくめた。
「約束、だろ?」
その一言で、空気が張り詰める。
セリナは、視線を逸らさなかった。
逃げることも、曖昧にすることもできないと、分かっていた。
「ええ……約束よ」
声は、驚くほど落ち着いていた。
それが余計に、重さを際立たせる。
剣士として交わした約束。
感情ではなく、誇りで結んだ条件。
二人の関係は、ここで試されている。
カルディは、唇を噛みしめたまま、何も言わなかった。
否定も、懇願も、しなかった。
それが、彼なりの覚悟だった。
セリナは、胸の奥で小さく拳を握る。
(……言わなきゃ)
この先の言葉は、剣よりも鋭い。
分かっているからこそ、逃げずに、向き合う。




