学院1年セリナ編 第六十七章 セリナたちの馴れ初め③ 2年生剣術大会と条件
その約束が交わされた日から、二人の時間の流れは、明らかに変わった。
剣術大会まで、残り三か月。
それは短く、そして決定的な期間だった。
セリナは、自分が提示した条件の重さを、誰よりも理解していた。
勝てば交際を許す。
負ければ、その時点で何も始まらない。
(……私は、何をしているんだろう)
一瞬、そんな思いがよぎらなかったわけではない。
けれど、それ以上に……。
(剣を曲げてまで、誰かを選ぶつもりはない)
その信念が、迷いを切り捨てた。
セリナにとって、剣術は人生そのものだった。
自分の価値を測る物差しであり、誇りであり、世界と向き合う唯一の方法。
そこに嘘を混ぜることだけは、絶対にしたくなかった。
だからこそ、訓練はさらに厳しくなった。
一太刀ごとの精度、踏み込みの角度、間合いの取り方。
これまで「できている」と思っていた部分を、すべて疑い、削り直す。
(負けたら……それまで)
その覚悟は、逃げではなく、選択だった。
一方、カルディもまた、同じ時間を過ごしていた。
セリナの条件は、彼の誇りを正面から撃ち抜いた。
公爵家の次男という立場も、財も、名声も……そのすべてが、ここでは何の意味も持たない。
求められているのは、ただ一つ。
(剣で、勝て)
それだけだった。
カルディは、剣術場に籠もった。
朝から夜まで、何度も何度も剣を振る。
自分の型を磨くだけでなく、徹底的にセリナの剣を研究した。
彼女の踏み込みの癖。攻めに転じる瞬間の重心。
追い詰められた時に、わずかに遅れる切り返し。
(……ここだ)
ただ強くなるだけでは足りない。
勝つためには、相手を知り尽くさなければならない。
二人は同じ学院にいながら、ほとんど言葉を交わさなくなった。
だが、それは距離が開いたという意味ではない。
剣術場ですれ違う視線。試合形式の訓練で交わる剣。
互いの成長を、誰よりも正確に感じ取っていた。
(追いついてきてる)
セリナは、剣越しにそう感じていた。
(まだ足りない。でも……確実に近づいている)
その事実が、セリナの胸を熱くする。
恐怖でも、焦りでもない。
本気で向き合っている、という実感だった。
やがて、二人は同時に辿り着く。
剣術三型・聖位。
同じ場所に立った時、もう言葉は必要なかった。
この勝負に、言い訳はない。勝つか、負けるか。それだけが、すべてだった。
剣術大会当日、イーストレイク学院の演武場は、朝から異様な熱気に包まれていた。
観覧席には生徒だけでなく、教員や関係者の姿も多く、中央の試合場には張り詰めた空気が漂っている。
二年生の剣術大会……その決勝戦。
名前が呼ばれた瞬間、場内にざわめきが走った。
「セリナ・プラム・ブロッサム」
「カルディ・ハクエ・サランディーノ」
誰もが予想していた組み合わせだった。
一年目の大会で頂点に立ったセリナと、同じく上位に食い込み続けてきたカルディ。
剣術に詳しい者ほど、この二人が決勝で当たることを確信していた。
セリナは、静かに試合場へ歩み出る。
背筋は伸び、視線は揺れない。
剣を握るその手に、迷いは一切なかった。
(ここまで来た)
剣を極めるために積み重ねてきた時間。
自分自身に課した条件。
それらすべてが、この一戦に集約されている。
対するカルディもまた、落ち着いた足取りで試合場に立った。
その表情は穏やかでありながら、内側には強い覚悟が滲んでいる。
(勝つ)
ただそれだけを、彼は心に刻んでいた。
開始の合図と同時に、二人の剣が激しくぶつかり合う。
鋭い金属音が、演武場に響き渡った。
攻めるセリナ。
受け、流し、反撃するカルディ。
互いの力量は拮抗していた。
一太刀ごとに観客の息が詰まり、一本が入るたびに歓声が上がる。
試合は、あっという間に終盤へと突入する。
――四対四。
次の一本で、すべてが決まる。残された時間は、わずかだった。
セリナは、剣を構え直しながら、静かに呼吸を整える。
カルディの動きは、これまでと変わらない。
(いや……違う)
ほんの僅かだが、カルディの視線が、セリナの剣先から離れる瞬間があった。
それは、焦りではない。
勝利を確信しかけた者だけが見せる、わずかな隙。
(来る)
セリナは踏み込んだ。
全身の力を一点に集中させ、決定打を放つ。
しかし……、その瞬間、カルディの剣が、紙一重で軌道を変える。
セリナの癖。最後に力を込めた時、わずかに遅れる切り返し。
それを、カルディは見逃さなかった。
鋭い一閃。次の瞬間、審判の声が響く。
「一本……カルディ!」
演武場が、一瞬の静寂に包まれ、直後、大きな歓声が巻き起こった。
カルディ・ハクエ・サランディーノ。
二年目剣術大会、優勝。
セリナは、剣を下ろし、深く息を吐いた。
悔しさがないわけではない。だが、それ以上に、納得があった。
(……負けた)
ただ、それだけの事実。
カルディは剣を収め、セリナの方を真っ直ぐに見た。
その瞳には、勝者の誇りと、同時に一人の剣士としての敬意が宿っていた。
約束の時が、静かに訪れようとしていた。
勝敗が決したあとも、カルディはしばらくその場を動けなかった。
剣を握る手に、まだ戦いの熱が残っている。
(……取れた)
自分でも、信じられない思いだった。
技量は拮抗していた。体力も、集中力も、ほとんど差はなかった。
それでも、最後の一本を取れた理由は、はっきりしている。
――見続けてきたからだ。
カルディは、セリナの剣を、誰よりも長く見ていた。
入学直後の基礎試験から、普段の稽古、模擬戦、試合。
遠くからでも、近くからでも、彼女の剣を追い続けてきた。
無意識の重心移動。
踏み込みの前に一瞬だけ沈む肩。
本気になったときほど、鋭く、速くなるが、その分だけ生まれる癖。
(……最後、必死になった)
時間ぎりぎり。
勝負を決めようとした、その一瞬。
セリナは、迷っていなかった。
だが、迷いがないからこそ、いつもの癖が、そのまま出た。
カルディは、それを知っていた。
研究し、覚え、頭に叩き込んできた動きだった。
(だから……振り抜けた)
剣を当てた瞬間の感触が、まだ掌に残っている。
それは偶然ではなく、積み重ねの結果だった。
一方、セリナは、静かに視線を落としていた。
悔しさは、確かに胸にある。
だが、それ以上に、自分が負けた理由を、正しく理解していた。
(……見られてた)
誰よりも自分の剣を見ていた相手。
誰よりも真剣に、自分を追いかけてきた相手。
力で負けたわけではない。気迫で劣ったわけでもない。
負けたのは……時間だった。
剣に向き合い続けた日々。相手を知ろうとした時間。
その差が、最後の一瞬で形になっただけだ。
セリナは、顔を上げ、カルディを見た。
そこには、悔しさよりも、ひとつの覚悟が宿っていた。
(……約束、だったわね)
自分が口にした条件。
剣で勝てば、交際を受け入れるという言葉。
その約束は、もう果たされている。
カルディは一歩近づき、静かに言った。
「……ありがとう。全力で戦ってくれて」
セリナは、短く頷いた。
「ええ。あなたも……本当に強かったわ」
勝者と敗者。
だが、その間に、侮りも、油断も、見下しもなかった。
あるのはただ、剣を通して交わした、確かな理解だけだった。
決勝戦の喧騒が落ち着き、会場から人が引いていく中で、セリナとカルディは自然と並んで歩いていた。
どちらからともなく言葉を切り出すことはなかったが、沈黙は重くはない。ただ、これから何かを決めなければならない、という空気だけが確かにあった。
剣術大会での勝敗。
それは、二人にとって単なる結果以上の意味を持っていた。
立ち止まったのは、人気のない廊下の端だった。
セリナは一度だけ深く息を吸い、視線をカルディに向ける。
「……約束、覚えてる?」
その言葉に、カルディは小さくうなずいた。
「もちろん。君に勝てたら……付き合ってもいい、って」
逃げも誤魔化しもなかった。
そのまっすぐさに、セリナは一瞬だけ目を伏せ、そして、はっきりと告げた。
「約束は守るわ。……あなたは、私に勝ったもの」
カルディの胸に、じんと熱が広がる。
それは歓喜でも、達成感でもあるが、それ以上に……報われたという感覚だった。
「ありがとう、セリナ」
短い言葉だったが、そこに込められた想いは深い。
けれど、セリナはすぐに続けて言った。
「ただし、条件があるの」
その声音は、冗談ではなかった。カルディも自然と背筋を伸ばす。
「あなたは、常に私より強い人でいなさい」
静かだが、揺るぎのない目で、セリナは言葉を重ねる。
「剣の腕だけじゃない。心も、姿勢も。私が尊敬できる人でいてほしいの」
それは恋人に求める条件というよりも、剣士として、ひとりの人間としての理想だった。
カルディは迷わず答える。
「……努力する。いや、努力し続けるよ」
その返事に、セリナはわずかに口元を緩めた。
だが、そこで終わらなかった。
「もう一つ」
空気が、わずかに張り詰める。
「もし、大きな大会で……私に負けたら」
間を置いて、セリナははっきりと言った。
「その時は、別れましょう」
その言葉は、あまりにも率直で、残酷ですらあった。
カルディは一瞬、言葉を失ったが、すぐに目を逸らさず、真正面から受け止める。
「……分かった」
それがどれほど重い約束か、理解している。
勝ち続けなければならない。
尊敬され続けなければならない。
だが、それでも……。
「その条件でいい。君の隣に立つためなら」
セリナは何も言わなかった。ただ、小さくうなずいた。
こうして二人の交際は始まった。
だがそれは、甘いだけの関係ではない。
剣と誇りと約束に縛られた、危うく、しかし真剣な関係の始まりだった。




