学院1年セリナ編 第六十七章 セリナたちの馴れ初め① カルディ・ハクエ・サランディーノ
第六十七章 セリナたちの馴れ初め
カルディ・ハクエ・サランディーノという名は、イーストレイク学院の中でも特別な響きを持っていた。
サランディーノ公爵家の次男という血筋、端正な顔立ち、鍛え抜かれた体躯、そして剣術における確かな実力。そのすべてが揃っていながら、彼は決してそれを誇示することはなかった。
学院に入学してからというもの、カルディには数え切れないほどの告白が寄せられていた。剣術の稽古場でも、教室でも、時には食堂でさえ、好意を向けられることは珍しくなかった。
しかし彼は、そのすべてを断り続けていた。相手に落ち度があったわけではない。ただ、カルディの中には、最初から明確な基準があった。
「誰でもいい」わけではなかったのだ。
公爵家の次男という立場上、周囲から向けられる好意の多くは、彼自身ではなく肩書きに向けられたものだと、カルディは幼い頃から理解していた。だからこそ、軽い気持ちで誰かと関係を結ぶことはできなかった。
自分が本当に尊敬でき、並び立ちたいと思える相手でなければ、剣を交える意味も、共に歩む意味もないと考えていた。
そんな彼が、入学して間もない頃から、無意識のうちに視線を向ける存在がいた。
それが、セリナ・プラム・ブロッサムだった。
最初は、特別な感情などなかった。ただ「目を引いた」だけだ。
しかし、その視線はやがて、他の誰にも向かなくなっていく。
……その理由を、カルディ自身も、まだ言葉にできてはいなかった。
カルディがセリナを明確に意識したのは、入学直後に行われた剣術の基礎試験だった。
学院では、入学者全員に対して剣を握らせ、基本の構え、踏み込み、斬り返しを確認する場が設けられる。将来の職業が剣士であろうと、魔術師であろうと、最低限の身体操作を見るための儀式のようなものだ。
その中で、セリナの剣は明らかに異質だった。
派手さはない。力任せでもない。だが、一振り一振りに無駄がなく、重心がぶれない。構えた瞬間に、空気が締まるのが分かった。
カルディは、順番待ちの列の後方から、思わず視線を外せなくなっていた。
(……基礎、なのか?)
剣術を志す者なら誰もが知っているはずの、基礎の動き。その一つ一つが、セリナの手にかかると、完成された形として立ち上がってくる。剣を振るというより、剣と一体になって動いているようだった。
特に印象に残ったのは、最後の踏み込みだ。
一歩、前に出るだけの動作。その一歩に、迷いがなかった。勝とうとしているのでも、見せようとしているのでもない。ただ「正しいから踏み込む」。そんな剣だった。
カルディは、その瞬間、背筋に小さな震えを覚えた。
(……強い)
技量だけではない。剣に向かう姿勢そのものが、彼の中の価値観と重なった。
剣は、己を映すものだ。そう教えられて育ったカルディにとって、セリナの剣は、その言葉を裏切らなかった。
試験が終わり、周囲がざわめき始めても、カルディはしばらくその場から動けなかった。
目で追っていたのは、結果表でも、教官の評価でもない。剣を納め、静かに列を離れていく、あの後ろ姿だった。
この時点では、まだ「恋」ではない。
だが確かに、カルディの中で何かが引っかかり、離れなくなっていた。
それが、すべての始まりだった。
それからカルディは、意識的にセリナに近づこうとはしなかった。
話しかけることもなければ、名前を呼ぶこともない。ただ、同じ時間帯に稽古場へ行き、同じ空間にいられる距離を保つだけだった。
彼女の剣は、いつ見ても安定していた。
調子の良し悪しで動きが変わることがなく、負けた日でも、勝った日でも、稽古の内容が乱れない。剣を振る理由が、勝敗のためだけではないことが、遠目にもはっきりと分かった。
(……剣が、生活の一部なんだな)
カルディは、自然とそう理解していた。
剣を握ることが特別な時間ではなく、呼吸をするのと同じくらい当たり前。だからこそ、あれほど無理のない動きができるのだろう。
次第に、剣術以外の部分にも目が向くようになった。
友人と話しているときの、少し砕けた表情。後輩に声をかけられたときの、面倒見のいい受け答え。稽古が終わった後、剣を丁寧に拭き、納める所作。
どれも派手ではない。だが、どれも誠実だった。
(……いいな)
その感情が、いつ「気になる」から「惹かれている」に変わったのか、カルディ自身にも分からない。
ただ、視線を向ける回数が増え、セリナの姿が見えないと、無意識に探している自分に気づいたとき、もう後戻りはできなくなっていた。
容姿が理由ではなかった。家柄でも、噂でもない。
剣と向き合う姿勢。日常の振る舞い。そして、剣に逃げない生き方。
それらすべてが重なって、カルディの中で一つの答えに変わっていった。
(……この人を、幸せにしたい)
それはまだ、言葉にするには早すぎる想いだった。
だからカルディは、距離を詰める代わりに、ただ見続けることを選んだ。
遠くから。静かに。そして、確実に。
恋は、もう始まっていた。
ただ見ているだけでは、何も変わらない。それはカルディ自身が、誰よりもよく分かっていた。
だからといって、正面から声をかける勇気はまだなかった。
剣術に人生を賭けているようなセリナにとって、軽い好意や興味本位は、最も嫌うものだと直感していたからだ。
カルディが選んだのは、回り道だった。
共通の知人に頼み、少しずつ、自然な形で友人の輪に加わる。あくまで「同じ学院で学ぶ仲間の一人」として、距離を詰めていった。
最初は、会話も必要最低限だった。
剣術の話題、授業のこと、学院生活の雑談。特別な言葉は交わさない。ただ、同じ場にいる時間を増やしていく。
その中で、カルディは多くのことを知った。
セリナが、家族の話をするときは少し声が柔らぐこと。
弟の話になると、誇らしさと心配が入り混じった表情を見せること。
剣術の話題では、誰に対しても妥協せず、同時に誰の努力も軽んじないこと。
「強い人」ではある。
だが、それ以上に「真面目な人」だった。
友人たちの何気ない会話の中で、セリナの家庭環境や価値観を知るたびに、カルディの気持ちは、より明確な形を持ち始めた。
(……この人なら)
剣術だけでなく、生き方そのものに筋が通っている。
誰かの庇護を受けることも、甘えることもせず、与えられた環境の中で、できることを全力で積み重ねている。
気づけば、カルディは「付き合いたい」という言葉より先に、別の想いを抱いていた。
(この人を、ちゃんと幸せにしたい)
それは、衝動ではなかった。憧れでもない。
剣術の実力も、家柄も関係なく、ただ一人の人間として向き合いたい……そう思えた、初めての相手だった。
だからこそ、軽い告白はできなかった。
だからこそ、決断の時は、自分のすべてを賭ける必要があると分かっていた。
友人としての距離は、確かに縮まっていた。だが、その一歩先へ進むためには、覚悟が足りない。
カルディは、その時が来るまで、剣を握り続けることを選んだ。
剣で証明できるものがあるなら、それを携えて、正面から向き合おうと決めていた。




