学院1年セリナ編 第六十五章 イーストレイク学院入学③ リリィの迎え入れ
研究棟の一角にある扉の前で足を止めると、案内の職員は軽く会釈をしてその場を離れた。周囲は学院の喧騒から切り離されたように静かで、ここが「学ぶ場所」であると同時に「生活の場」でもあるのだと、空気の違いがはっきりと分かる。
扉をノックすると、すぐに内側から足音が近づいた。
「ルーメン」
扉が開き、リリィ先生が姿を現す。
その表情は、教師として学院に立つときのものとは少し違っていた。どこか柔らかく、そして確かに安堵が滲んでいる。
「おかえりなさい」
その一言を聞いた瞬間、胸の奥がすっと落ち着いた。
学院に到着したばかりで、まだ何も始まっていないはずなのに、「戻ってきた」と感じてしまった自分に、少しだけ驚く。
「ただいま……リリィ先生」
そう答えると、先生は小さく微笑んで、室内へと招き入れた。
「ここが、これからあなたが過ごす場所です。遠慮はいりませんよ」
研究室の奥へと続く通路は、整然としていながらも、生活の気配が感じられる造りになっていた。机や書棚だけでなく、灯りの配置や空気の流れまで、長く人が過ごすことを前提に整えられている。
学院に入学したはずなのに、真っ先に迎え入れられた場所が「教室」ではなく「研究室」である。その事実が、特別生としての立場を改めて実感させると同時に、ここが自分の新しい帰属先なのだと、静かに胸に刻まれていった。
リリィ先生に案内されて奥へ進むと、研究用の部屋とは明らかに雰囲気の違う空間に出た。扉を開けた瞬間、思わず足が止まる。
そこは「仮の寝泊まり場所」などではなかった。
きちんとした一人部屋があり、机、棚、寝具はもちろん、生活に必要なものが過不足なく整えられている。衣類が収められた箪笥、使い込まれることを想定した椅子、採光を考えた窓の配置。どれもが、今日明日だけを想定した準備ではないことは明白だった。
さらにその先には、小さなキッチンと食卓が設えられていた。簡素だが清潔で、二人分の食事を前提とした広さ。研究室の一部というより、一つの生活空間として完成している。
「……これは……」
言葉が続かず、思わず部屋を見回してしまう。
「家具も小物も、服も最低限ですが、揃えてあります。学院の寮とは勝手が違いますからね」
淡々と説明するリリィ先生の声とは裏腹に、その準備の量は決して「最低限」などではなかった。ここで生活し、学び、休み、また研究に戻る。その循環すべてを引き受ける覚悟が、この空間にははっきりと表れている。
学院に入学したというより、誰かの人生の一部に迎え入れられたような感覚が胸をよぎった。
これほどまでに整えられた場所を前にして、軽々しく「ありがとうございます」と言っていいのか、分からなくなる。それほどに、この空間は重かった。
リリィ先生は、そんなこちらの戸惑いに気づいたのか、視線を逸らしながら静かに付け加えた。
「生活が落ち着かなければ、研究にも集中できません。ここは、そういう場所です」
その言葉は理屈としては正しい。けれど、その裏にある気遣いと配慮の深さを、否定することはできなかった。
「リリィ先生……これは、さすがに……」
整えられた部屋を前にして、ようやく絞り出した言葉だった。生活に必要なものが一通り揃っているどころか、これから長く暮らすことを前提にした準備が、あまりにも行き届いている。学院に通うための仮住まいという域を、完全に越えていた。
「こんなにしてもらって、本当にいいんですか?」
正直な気持ちだった。研究を教わるだけでも十分すぎるほどなのに、生活そのものまで用意してもらうなど、負担をかけすぎているのではないかという思いが、胸の奥で膨らんでいく。
リリィ先生は一瞬だけこちらを見て、それから少しだけ柔らかい表情になった。
「遠慮はいりません」
柔らかく微笑んだ。
「ルーメンのためですから。私がしたくて、したことです」
その言葉には、教師としての義務や特別生への配慮といった建前が、ほとんど感じられなかった。必要だから用意した、ではない。そうしたいと思ったから整えたのだ、と言外に伝わってくる。
それ以上、何かを言うことはできなかった。ここで拒めば、かえって相手の想いを踏みにじることになる。そう理解できるほどには、ルーメンも子供ではなかった。
「……ありがとうございます。大切に使います」
それだけを、はっきりと口にした。
守られているという実感が、静かに胸に広がる。同時に、その守りの中に甘えるだけではいけない、という思いも生まれていた。ここは避難場所ではない。成長し、力を磨くための拠点なのだ。
受け取ることを選んだ以上、その期待に応える責任がある。
ルーメンは改めて部屋を見回し、小さく息を吐いた。
この場所が、これからの自分の「帰る場所」になる。その事実を、ようやく受け入れ始めていた。
翌日、ルーメンはリリィの研究室を出て、イーストレイク学院の入学式に向かった。
学院の大講堂は、朝の光を受けて静かにざわめいていた。周囲を見渡せば、同じ年頃の生徒たちが、それぞれ緊張と期待を胸に席へと誘導されている。
基本の配置は、明確だった。
男子と女子は、はっきりと分けて座らされる。規律として、学院が長年守ってきた秩序なのだろう。
ルーメンも男子側へと案内され、指定された席へ向かう……はずだった。
だが、そこでわずかな“調整”が入る。
ルーメンの席は、男子席の中でも女子側に最も近い端だった。そして、視線を横にやると、女子席の男子側の端に、見覚えのある姿がある。
エアリスだった。
一瞬だけ、目が合う。
互いに声は出さない。ただ、ほんのわずかに表情が緩み、気持ちが通じ合った。
(……隣だ)
正確には、席そのものは分かれている。それでも、距離は驚くほど近い。まるで学院側が、意図的に「断ち切らない配置」を選んだかのようだった。
特別生という立場への配慮。
そして、同郷であることへの考慮。
制度の中で、できる限りの柔軟さを使った結果なのだろう。そう理解できる一方で、ルーメンの胸には、静かな安堵が広がっていた。
完全に切り離されるわけではない。
同じ空間で、同じ始まりを迎えられる。
入学式が始まるまでのわずかな時間、ルーメンは背筋を伸ばして前を向いた。
この配置は、学院から与えられた最初の“現実”であり、同時に、小さな救いでもあった。
入学式が滞りなく終わると、生徒たちはそれぞれ担任に誘導され、最初の教室へと向かうことになった。
大講堂の張りつめた空気とは違い、廊下には少しずつ話し声が戻り始めている。それでも、誰もがまだ学院という新しい環境に呑まれ、どこか遠慮がちだった。
ルーメンもエアリスと並ぶ形で、指定された教室へ入る。
教室は、整然としていた。
木製の机と椅子が規則正しく並び、窓からはイーストレイクの街並みと、遠くに見える湖のきらめきが差し込んでいる。
席順は、あらかじめ決められていた。
ルーメンに示されたのは、教室の一番後ろ、窓側の席だった。
視界が開け、周囲を見渡せる位置。前に座る生徒たちの背中も、教卓も、すべてが自然と視界に入る。
そして、その隣。
迷いなく案内された席に、エアリスが腰を下ろした。
「……やっぱり、ここだ」
小さく息を吐くエアリスの声に、ルーメンは気づく。
彼女もまた、この配置の意味を察していたのだろう。
特別生という立場。
だが、孤立させないという学院の判断。
最後列でありながら、窓側という逃げ場のある位置。
隣には、同郷で、同じ道を目指す存在。
過度に目立たず、それでいて切り離されない。
完璧に計算された配置だと、ルーメンは思った。
(……見守られている、か)
束縛ではない。監視でもない。
必要な距離を保ちながら、必要な支えだけは与える……学院という制度が、特別生である自分に向けて示した最初の答えだった。
ルーメンは椅子に深く腰掛け、静かに前を向く。
この席から、学院生活が始まる。その実感が、ようやく胸に落ちてきていた。




