学院1年セリナ編 第六十五章 イーストレイク学院入学② 別れと出発
食卓の空気が少し落ち着いたころ、俺はエレナの方へと視線を向けた。さっきからずっと、エレナは俺と父さん、母さんのやり取りを黙って聞いていた。剣の話の時も、うなずきながら、どこか真剣な顔をしている。
その姿を見て、自然と口を開いていた。
「エレナ」
名前を呼ぶと、エレナは少し驚いたように顔を上げる。
「エレナはさ、セリナ姉と俺の特訓で、ちゃんと強くなってるよ」
急にそんなことを言われて、エレナは目を丸くしたが、すぐに照れたように視線を逸らした。
「剣術も魔術も、飲み込みが早い。これは本当だ」
俺はそう言い切った。
お世辞でも、気休めでもない。事実として、エレナは確実に成長していた。
「怖がりなところがあるだろ?」
エレナの肩が、わずかに揺れる。
「でも、それは悪いことじゃない。怖がれるってことは、周りがちゃんと見えてるってことだから。自分の立場や、状況を理解できるってことだ」
エレナは、ぎゅっと膝の上で手を握りしめていた。
「大事なのはさ、怖がったあとに、次の一歩を踏み出せるかどうかだ。立ち止まってもいい。でも、考えて、選んで、一歩出せばいい」
俺はエレナをまっすぐ見て、続ける。
「きっと、エレナは強くなれる。いや、もうなってる」
その言葉に、エレナの目が少し潤んだ。
「困ったことがあったら、すぐ父さんや母さんに相談しな。魔術のことなら……」
少し間を置いて、笑って言った。
「お兄ちゃんに任せておきなさい」
エレナは小さく鼻をすすりながら、こくんとうなずいた。
「……うん」
その一言だけで、十分だった。
家を離れる俺が、家に残るエレナへ渡せるものは、言葉しかない。けれど、その言葉が、いつかエレナの背中を支えるなら、それでいい。
「これからも、エレナの健やかな成長を期待してるよ」
そう締めくくると、エレナは泣き笑いのような顔で、はっきりと言った。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が、少しだけ熱くなった。
エレナへの言葉を伝え終えたあと、俺は母さんの方を向いた。
いつもと変わらない優しい表情で、けれど今夜はどこか覚悟を含んだ眼差しで、母さんは俺を見ていた。
胸の奥に溜まっていたものを、ゆっくりと言葉にする。
「母さん、いつも早く起きて、遅く寝て、毎日美味しいご飯に、僕たちが困らないように家事をしてくれてありがとうございます。たぶん、これから、母さんのすごさがありがたさが身に染みてわかると思います」
口にしながら、当たり前だと思っていた日々が、どれほど支えられていたかを思い知る。
「母さんは優しいから、いつもその優しさが身に染みて分かって、いつも救われます」
学院に行けば、きっと何度も思い出すだろう。
この言葉、この温度、この場所を。
「あまり無理し過ぎないで、体を大切にしてね、ありがとう母さん」
言い終えた瞬間、母さんの目が潤むのが分かった。
次に視線を向けたのは父さんだった。
多くを語らず、ただ背中で示してきた人。
俺は少し背筋を伸ばし、はっきりと告げる。
「父さん、いつも父の背中を追いかけて来ました。ブロッサム領を管理して、剣術の教師もして、家族みんなを養ってくれて、僕はここまで成長出来ました」
幼い頃から見てきた父さんの姿が、次々と浮かぶ。
「父さんは剣術の道に行かせたかったみたいだけど、その代わり魔術を極めて、父さんの誇れる息子になります」
選んだ道は違っても、誇りでありたいという気持ちは同じだ。
「最近で言うと、魔物の森の時、助けてくれてありがとう、父さんに命を救われました」
あの時の恐怖と、父さんの剣が閃いた光景は、今も鮮明だ。
「リリィ先生を助けるためにイーストレイクに行った時も、父さんがいたから行けました。感謝ばかりです」
短く、しかし真実だった。
「父さんにも母さんにも成人したら恩返しができるように頑張ります」
言葉が落ちると同時に、部屋の空気が静かに震えた。
言葉をすべて言い終えたあと、しばらく誰も声を出さなかった。
食卓の上には、母さんが用意してくれた豪華な料理が並んでいるのに、箸に手を伸ばす者はいない。
最初に顔を伏せたのは母さんだった。
肩が小さく震え、こぼれ落ちた涙が、指の甲を濡らしている。
「……もう、そんなこと言うようになったのね」
声は震えていたが、そこに後悔や不安はなかった。
ただ、子供を送り出す親としての、避けられない感情があった。
父さんは黙ったまま、目頭を押さえていた。
いつもは感情を表に出さない人が、今は何も隠そうとしていない。
「……大きくなったな」
それだけを、低い声で呟く。
エレナは、二人の様子を見て、つられるように目を潤ませた。
訳が分からなくても、家族の空気が変わったことだけは、はっきりと感じ取っている。
「お兄ちゃん……」
小さな声で名前を呼ばれ、俺はエレナの頭に手を置いた。
この家で過ごす時間が、確実に一区切りを迎えたのだと、はっきり実感する。
誰も「行かないで」とは言わなかった。
誰も「心配だ」とも言わなかった。
それでも、この涙は、何よりも雄弁だった。
家族としての最後の確認。
送り出す側と、送り出される側が、同じ覚悟を共有した夜だった。
翌朝、まだ空気に夜の名残が残る時間帯に、俺は家を出た。
父さんと母さん、そしてエレナと一緒に向かった先は、村の学校だった。
校舎の前には、すでに学校が用意した馬車が止まっている。
その周囲には、見送りに来た人たちの姿があった。ブロッサム家だけでなく、ゼフィリア家の人たちも集まっている。
エアリスはすでに来ていて、少し緊張した面持ちで馬車のそばに立っていた。
視線が合うと、彼女は小さくうなずき、俺もそれに応える。
母さんは、最後までいつもの調子で声をかけてくれた。
「気をつけて行くのよ、ルーメン。ちゃんと食べて、ちゃんと休むのよ」
その言葉は、まるで今まで毎日言われてきた注意と同じだったけれど、今日は重みが違った。
父さんは、俺の前に立って肩に手を置く。
「学院だろうが研究室だろうが、やることは変わらん。学んで、考えて、前に進め。それだけだ」
短い言葉だったが、これ以上ない励ましだった。
エレナは、少しだけ離れた場所からこちらを見ていて、目が合うと小さく手を振った。
昨夜泣いた分、今は無理に笑っているのが分かる。
「行ってくる」
そう言って一礼し、エアリスと並んで馬車に乗り込む。
馬車が動き出すと、学校の前に立つ家族や村の人たちが、少しずつ遠ざかっていった。
ここが、これまでの日常の中心だった場所だ。
その景色を胸に刻みながら、俺はイーストレイク学院へと向かう道に入った。
村という世界から、一歩外へ踏み出した瞬間だった。
馬車は街道を進み、やがてイーストレイクの街並みが見えてきた。石造りの建物が並び、人の往来も村とは比べものにならない。中心部に近づくにつれて、視界の奥に白い外壁と高い塔を備えた建物が現れる。イーストレイク学院だった。
馬車が学院前で止まると、周囲にはすでに多くの新入生と、その家族の姿があった。ざわめきの中に期待と不安が混じり合い、ここが「学ぶ場所」であると同時に「人生の分岐点」なのだと、空気そのものが語っているようだった。
馬車を降りると、エアリスが一度だけ周囲を見回したあと、こちらに視線を向けた。
「……いよいよ、だね」
その声には緊張が滲んでいたが、逃げたいという色はなかった。
学院の職員が誘導を始め、寮へ向かう生徒と、それ以外の進路に進む生徒とで流れが分かれていく。エアリスは女子寮へ向かう列に並び、俺はその列から外れるように指示された。
「ルーメンさんは、こちらへ」
その一言で、進む道がはっきりと分かれた。
エアリスは一瞬だけ足を止め、振り返る。
「また後でね」
それだけ言って、小さく手を振った。
「うん。後で」
短い言葉を交わし、それぞれが別の方向へ歩き出す。
同じ学院に通い、同じ時期に学び始める。それでも、生活の拠点は最初から違う。
特別生という立場が、言葉ではなく動線として示された瞬間だった。
俺は研究室へと続く道を進みながら、背後で遠ざかっていく女子寮の方角を一度だけ振り返る。断絶ではない。だが、これまでの「一緒に帰る日常」は、ここで確かに区切りを迎えたのだと、静かに理解していた。
そして俺は、新しい帰属先へ向かって歩き出した。
学院の敷地を進むにつれて、周囲の景色は少しずつ変わっていった。寮へ向かう生徒たちの列は、にぎやかな声を残しながら中庭の方へと流れていく。一方で、俺が案内されている道は人影もまばらで、建物の裏手へと回り込むように伸びていた。
同じ「入学」という言葉で括られていても、その中身はまったく同じではない。エアリスは一般生として寮生活を始め、俺は特別生で、リリィ先生の好意で研究室を生活拠点にする。その違いが、言葉による説明ではなく、足元の道筋そのもので示されているようだった。
特別扱いされている、という自覚はある。けれど、それは誇らしさよりも先に、距離感として胸に落ちてきた。誰かと同じ場所に立つことが、最初から許されていない。そんな感覚だ。
それでも、不思議と孤独ではなかった。エアリスと別れたばかりだが、完全に切り離されたわけではない。教室では同じ空間に座り、授業も共に受ける。生活の拠点が違うだけで、道が交わらなくなるわけではないのだ。
「特別生」
その言葉の重みを、改めて噛みしめる。自由と裁量を与えられる代わりに、責任と結果を求められる立場。守られる側ではなく、成果を示す側として学院に迎え入れられている。
俺は小さく息を整え、前を向いた。ここから先は、用意された環境に身を置きながらも、自分の選択で進んでいく必要がある。
そう理解した上で、研究室へと続く道を踏みしめていった。




