学院1年セリナ編 第六十四章 職業判定⑤ 帰宅後の違和感
家に戻ると、いつもと変わらない匂いが鼻をくすぐった。夕方の少し早い時間帯、台所からは母さんの料理の音がしていて、エレナの足音が廊下を駆けてくる。
「お兄ちゃん、おかえり!」
エレナはいつもの調子でそう言い、特別なことなど何もないように笑った。母さんも顔を出し、
「おかえり、ルーメン。疲れたでしょう、先に手を洗ってきなさい」
と、普段と同じ声で言う。
居間に入ると、父さんはすでに席についていて、
「おかえり。今日は早かったな」
と、それだけだった。
(……あれ?)
胸の奥に、わずかな違和感が生まれる。
誰も、職業判定の話をしない。
セリナ姉のときは違った。家に入った瞬間から結果を聞かれ、良くも悪くも家族全員がその話題一色だったはずだ。それなのに今日は、まるで普通の平日みたいだ。
俺は無意識のうちに、自分の顔に手を当てた。落ち込んだ表情でもしているのだろうかと思い、洗面所の鏡を覗く。そこに映っているのは、少し疲れてはいるものの、いつもと大差ない自分だった。
(……なんでだ?)
結果は、間違いなく普通じゃなかった。大水晶が光り、職員が慌て、校長室に通されるほどの出来事だったはずだ。それなのに、家では誰一人として触れてこない。
食卓に並ぶ料理も、会話も、すべてが「いつも通り」だった。そのことが、逆に胸をざわつかせる。
(もしかして……)
一瞬だけ、嫌な考えが頭をよぎる。
家族には、まだ伝わっていない?それとも、何か問題があったのか?
箸を持つ手に、わずかな力が入る。このまま黙っているわけにはいかない。
俺は小さく息を吸い、覚悟を決めた。
「……あのさ、職業判定なんだけど」
その一言を切り出すまでに、思った以上に勇気が必要だった。
俺の言葉が食卓に落ちた瞬間、空気がわずかに変わった。
母さんは一瞬だけ手を止め、エレナはきょとんとした顔で俺を見る。そして父さんは、箸を置いてから、少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「そうだな……言い忘れてた。すまん、ルーメン」
その言い方で、胸のざわめきが一気に膨らむ。
「実はな、今日の昼過ぎに学院から早馬が来てたんだ」
父さんはそう言って、懐から一通の書状を取り出した。封蝋の跡がはっきり残る、学院の正式な通知書だった。
「職業判定の結果は……『調律癒し大魔術師』」
その言葉を、父さんははっきりと口にした。
「何十年に一人いるかどうか、だそうだ。学院としては、ぜひ特別生として迎えたい、丁重に扱うから必ず入学させてほしい、ってな」
俺は思わず瞬きをする。
……知っていたのか。
「母さんもエレナも、もう聞いてる。だから今日は、あえて何も言わなかった」
父さんは肩をすくめるようにして続ける。
「セリナのときと同じ反応をされるより、落ち着いて食事をしてから話した方がいいと思ってな。それに……」
そこで、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「ちょっとした仕掛けだ。ルーメンがどういう顔をするか、見てみたくてな」
「父さん……」
不安になっていた気持ちが、一気に力を失った。
拍子抜けと同時に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
父さんは、通知書を机に置きながら、改めて俺を見た。
「大魔術師か。世界にどれだけいるのかも分からん存在だ。ブロッサム家の誇りだよ。おめでとう、ルーメン」
その言葉は、重くて、まっすぐだった。
父さんの言葉を受けて、食卓の空気が一気に和らいだ。
母さんは、ほっと息をつくように微笑んでから、俺の方を見て言った。
「おめでとう、ルーメン。よかったわね」
その声は静かだったけれど、確かな安堵が滲んでいた。心配と誇りとが、ようやく一つに落ち着いたような表情だった。
「リリィ先生から何度も“大魔術師”だって聞いてはいたけれど……」
そう言って、母さんは小さく首を振る。
「実際に学院からそう言われると、やっぱり驚くわね」
エレナは椅子の上で身を乗り出し、目を輝かせて俺を見ていた。
「お兄ちゃん、すごい! 大魔術師なんでしょ? かっこいい!」
その言葉に、思わず苦笑いがこぼれる。
「いや……正直、そんな自覚は全然ないんだけど」
そう言うと、父さんがすぐに返した。
「それでいい」
きっぱりとした声だった。
「大魔術師が、自分で“大魔術師です”なんて言ってたら、それはただのプライドが高い人間だ。自覚がないくらいが、ちょうどいい」
父さんは、俺を真っ直ぐに見つめる。
「ルーメンは謙虚だ。それがある限り、道を踏み外すことはない」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に溜まっていた不安が、ゆっくりとほどけていくのを感じた。
「……ありがとう」
それだけ言うのが精一杯だった。
祝福されることが、こんなにも静かで、こんなにも心強いものだとは思わなかった。
食卓に、静かな温もりが戻っていた。
母さんは、俺の方に身を乗り出すこともなく、けれど確かな声で言った。
「しばらく、この家に帰って来られなくなるかもしれないわね」
その言葉に、胸の奥が少しだけ締めつけられる。
「学院に入ったら、忙しくなるでしょう。でもね、ルーメン」
母さんは、いつもよりゆっくりと言葉を選んで続けた。
「休暇があったら、いつでも帰ってきなさい。ここは、あなたの家なんだから」
それは許可でも、命令でもなかった。ただの事実として、そこに置かれた言葉だった。
「ルーメンだけが寂しいんじゃないのよ。みんな、寂しいの」
母さんの視線が、父さん、エレナへと移る。
エレナは力いっぱい頷いてから、笑顔で言った。
「お兄ちゃん、また帰ってきてね。エレナ、待ってるから」
その無邪気な言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
「……わかったよ、母さん。エレナも」
俺はそう答えて、少しだけ視線を落とした。
家を離れる現実は、確かに近づいている。でも同時に、戻ってこられる場所があることを、改めて実感する。
父さんは何も言わず、ただ静かに頷いていた。その沈黙が、何よりの支えだった。
この家は変わらない。俺がどんな道を歩もうとも、ここに帰れば、家族がいる。
その確信が、胸の奥にしっかりと根を下ろした。
その夜、食事を終えたあと、俺は自分の部屋で静かに荷物を見つめていた。
職業判定が終わった、ただそれだけのはずなのに、胸の奥に残っている感覚は、これまでとは明らかに違っていた。「調律癒し大魔術師」という言葉が、まだ現実としてうまく噛み合っていない。それでも、大水晶が示した結果であり、学院が特別な扱いをすると決めた事実は、否定しようのないものだった。
大魔術師。何十年に一人いるかどうかの存在。そんな肩書きを与えられても、俺自身は昨日までと何も変わっていない。ただ魔術を学び、誰かの役に立ちたいと願っているだけだ。それでも、世界の方が俺を見る目を変えてしまったのだと、遅れて理解し始めていた。
机の上には、学院入学に向けた準備のための紙束が広げられている。持ち物、日程、研究室との行き来。これから始まる生活は、もう村の学校とは比べものにならないほど忙しくなるだろう。
それでも、不思議と怖さはなかった。
家族がいて、エアリスがいて、そしてリリィ先生がいる。自分が進む道は、一人きりのものではない。そのことが、何よりも心を支えてくれていた。
俺は静かに息を吐き、紙束を整える。
職業判定は終わった。けれど、これはゴールじゃない。むしろ、ようやくスタートラインに立ったのだ。
イーストレイク学院へ。魔術の道へ。
そう心の中で確かめながら、俺は少しずつ、次の準備を始めていった。




