エアリス編 第五章 エアリスの異変① 消失
ルゼリアの丘を吹き抜ける風が、少しずつその温度を冷たく変え、季節が静かに巡っていくのを感じていた。僕――ルーメン・プラム・ブロッサムにとって、この世界での「今」は、前世での凍てついた記憶をすべて塗り替えてしまうほどに輝かしいものだった。
エアリスと過ごす時間は楽しかった。
赤紫色の長い髪を揺らして笑う彼女。緋色の髪の姉セリナ。そして小さなエレナ。四人でルゼリアの自然を駆け回り、庭で魔術の練習に明け暮れる日々。孤独だった前世の「光一」がどれほど願っても手に入らなかった、無条件の信頼と友情。それは、僕がこのルシアークという世界に深く根ざしていくための、最も強固な礎となっていたのだ。
だが、その輝きが強いほど、影は音もなく忍び寄る。
ある日を境にエアリスが学校にも来なくなり、うちにも遊びに来なくなった。
最初は、ただの風邪だと思っていた。あるいは彼女が以前言っていた、家の手伝いという避けられない義務が長引いているだけだと。だが、三日が過ぎ、五日が過ぎ、一週間が経過しても、学校のあの窓際の席に赤紫色の彩りが戻ることはなかった。セリナ姉も、どこか寂しげに空席を見つめる時間が増えていた。
胸の奥に、ざらりとした不安の種が芽吹く。五歳の小さな肉体に宿る大人の理性は、これが単なる病欠ではないことを告げていた。
不思議に思った俺はエアリスのうちを訪ねた。
村の外れにあるゼフィラ家への道は、いつになく遠く感じられた。茶色の髪を汗で滲ませ、パンパンに張った足で辿り着いたそこには、不気味なほどの「静寂」が澱んでいた。
玄関をノックしても、呼んでも、叫んでも、誰も出てこない。
家の中から漏れてくるはずの生活音も、家族の話し声も、一切が吸い込まれたような無音。扉の隙間から漂ってくるのは、ただ冷たい土と枯れ草の匂いだけだった。
(……どういうことだ。逃げ出したわけじゃないだろうに。誰か、中にいないのか!?)
何度も何度も、彼女の名前を叫んだ。拳が赤くなるほど扉を叩いた。けれど、家は沈黙を守り続け、周囲の森が僕の声を虚しく反響させるだけだった。
仕方がないので、帰ろうとした時、一瞬だけ、不自然に渦を巻いたような風が頬をかすめた。
それは春の穏やかな気流などではない。まるで意志を持って僕の頬を切り裂くような、鋭く、凍てつくような一吹きだった。
驚いて振り返った瞬間、目のまえにはエアリスの姿が。
そこには、彼女が立っていた。
いつものように、赤紫色の長い髪を背に流して。けれど、僕を呼ぶ声はなく、ただ所在なげに、どこか遠い場所を見つめるような瞳で佇んでいる。
「エアリス、探してたんだよ、学校も来ないでどうかしたの?大丈夫?何かあるなら相談してよ」
僕は一気に駆け寄り、彼女の細い肩を掴もうとした。だが、僕の指先は彼女の体に触れる直前で、言いようのない違和感に襲われ停止した。
というと、エアリスの姿がやや透けて見える。
夕陽が彼女の体を通り抜け、背後の石壁を映し出していたのだ。それは生身の人間というよりは、薄い紗を重ねた幻影、あるいは水面に映る陽炎のようだった。
「どうしたのルーメン、私、毎日学校言ってるよ、授業もちゃんと出てるし」
彼女は、何でもないことのように微笑んだ。その言葉に、僕の思考は激しく混乱する。
(あれ?おかしいな?と思つつも)「だよね、最近うち来ないけど、何かあった」
現実感を繋ぎ止めるように問いかける。だが、彼女の答えはさらに僕を突き放した。
「ルーメンの家には行ってるよ、けど……」
その言葉の後に続くはずの何かは、再び吹き抜けた不自然な風にかき消された。
何かおかしいと思ったが、あまり聞かないで、とエアリスに言われたので、その場は帰ることにした。
帰路につく僕の足取りは、いつになく重かった。透けて見える体。僕の家にも行っているという主張。それらは明らかに、僕が認識している現実と乖離していた。五歳のルーメンとしての肉体的な疲労よりも、前世から持ち越した「論理立てて考えようとする理性」が、この異常事態を拒絶し続けていた。
翌朝、僕は祈るような気持ちで学校へ向かった。
翌日、学校に行くと、エアリスの姿が合った、
教室のいつもの席。窓際で静かに座っている彼女を見つけ、僕は自分の記憶を疑った。昨日のあの「透けていた姿」こそが、夕暮れの悪戯が見せた幻想だったのではないか、と。
エアリスに「おはよう、元気?今日もうちで遊ぼうよ」と話していたら
彼女は小さく微笑み、こちらを向いた。その温かさに安堵し、隣に座ろうとしたその時。
セリナ姉に「ルーメン、何独り言、言ってるの?」と言われた。
背後からかけられた姉の、訝しげな声。心臓が跳ね上がった。
「セリナ姉、何言ってるの、エリアスいるだろ、ここに」
僕は目の前のエアリスを指差した。確かに、彼女はそこにいて、僕を見つめている。だが、セリナ姉の緋色の瞳には、僕が指差す空間には、何も映っていないようだった。
「エアリスは今日も学校来てないよ、何言ってるの、ルーメン」
姉の言葉は、氷のような冷たさで僕の脳髄を貫いた。
僕には見えているものが、隣に立つ姉には見えていない。その認識の断絶。
エリアスの方を見ると、エアリスの席に渦巻きの風が沸き上がり、エアリスの姿は消えていた。
椅子がガタリと鳴ることもなく、ただ空気そのものが彼女を飲み込み、掻き消したのだ。後に残されたのは、窓から差し込む陽光に躍る埃の粒子だけだった。
(僕にしか……見えていないのか? 彼女は、今、ここにいたのに!)
周囲の生徒たちの不審そうな視線を振り切り、僕は放課後の校門を飛び出した。
魔導の理をどれほど学ぼうと、この「消失」の答えは見つからなかった。
その帰り道、川辺に座り込んで泣いているエアリスの姿を見つけた。
ルゼリアの集落を貫くジャンヤ川。その堤防の影に、赤紫色の長い髪を震わせている少女がいた。
「エアリス、急にいなくなって、探したんだぞ、心配したんだからな」と言うと、エリアスは「うん」と言って頷くだけ。
彼女の返事は、空洞のように空っぽだった。
俺も横に座り、エアリスに色々な話を持ちかける、どれもエアリスはうん、と頷くだけ。沈黙が流れる。
川の流れはいつもと同じように穏やかなのに、僕たちの周りだけが、世界から切り離されたような疎外感に満ちていた。
僕は彼女の手を握ろうとしたが、指先が彼女の肌をすり抜けるような錯覚に襲われ、咄嗟に手を引いた。
するとエリアスの口から「私、体が透けて見えなくなってるみたい、風が吹いてきて、それに巻き込まれると、私の体の中を風が通っていくんだよ」。
その独白は、静かな川辺の空気を凍りつかせた。
俺は耳を疑った。今日振り返ってエアリスの姿が消えていた時、確かに渦巻きのような風が吹いていた。けど、理解できない。エアリスは何かの病気なのか?それともエアリスの身に良くない事が、何か呪いの類の魔術でもかけられたのか?
前世の知識に照らせば、それは解離性障害のようにも思えたが、ここには明確な「魔術的変質」が伴っていた。肉体が、この世界の物質としての定義を失い、風という概念へと溶け出している。
考えていると、エリアスが「今日ももう疲れたから」と言って帰っていった。
力なく立ち上がり、夕闇の中へと消えていく彼女の背中を、僕はただ見送ることしかできなかった。
赤紫色の髪が、薄暗い影に紛れて見えなくなるまで。
僕の掌には、かつてないほどの無力感と、そして彼女を救い出さなければならないという切実な焦燥だけが残されていた。
(原因はなんだ……? なぜ、彼女の身体が……)
僕は夜のルゼリアの道を、ただひたすらに走り続けた。
親友を襲う、この不可解な現象の裏に潜む「何か」を、何としても解き明かすために。
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