学院1年セリナ編 第六十三章 ルーメンの誕生日④ リリィからの祝福
その日の帰り際、校舎を出ようとしたところで、背後から声をかけられた。
「ルーメン」
聞き慣れた落ち着いた声に振り返ると、廊下の影からリリィ先生が姿を現した。授業の時と変わらない、いつもの表情。ただ、その視線には、どこか柔らかさが混じっているように見えた。
「誕生日、おめでとう」
そう言われて、俺は一瞬だけ姿勢を正した。先生から祝われるというだけで、背筋が自然と伸びてしまう。
「ありがとうございます、リリィ先生」
「もう十二歳ですね。時間が経つのは、本当に早いものです」
そう言いながら、リリィ先生は小さな封筒を差し出してきた。色も装飾もない、いかにも事務的な封筒だ。
「もうすぐ私の研究室に来ることになりますから。これは、その前に読んでおいてほしい魔術資料です」
口調はあくまで教師としてのものだった。誕生日の話題と研究室の話を自然に並べ、感情を表に出しすぎない。その距離感が、今の俺とリリィ先生の関係をはっきり示している。
「……プレゼント、というよりは宿題ですね」
冗談めかしてそう言われ、俺は思わず小さく笑った。
「いえ、ありがたいです。ちゃんと読み込みます」
そう答えると、リリィ先生は満足そうにうなずいた。
「期待していますよ。学院に入る前に、基礎を整理しておくことは、とても大切ですから」
言葉は厳密で、内容は実務的だ。でも、その奥には確かな信頼がある。もう「教える対象」ではなく、「共に研究する未来を見据えた存在」として扱われているのが分かった。
(……もう、研究室の一員として見てるんだ)
その事実に、胸の奥が少しだけ熱くなる。祝福の言葉も、贈り物も、すべてが「次の段階」へ進むためのものだ。
「それでは、今日はこの辺で」
そう言って、リリィ先生は軽く会釈をした。個人的な言葉は、それ以上なかった。だが、その背中には、これから始まる日々への準備が、静かに込められているように見えた。
魔術の資料を手に持ちながら、俺は校舎を後にする。誕生日は、祝われて終わるだけの日じゃない。こうして、次の場所へと確実に繋がっていく。
家に帰り、部屋に戻ってから、俺は机に向かって椅子に腰を下ろした。窓の外はすでに夕暮れを越え、薄暗さが部屋に満ちている。昼間の出来事が、頭の中でゆっくりと整理されていく時間だった。
リリィ先生から受け取った封筒を、机の上に置く。質素で、事務的で、いかにも「資料」と言われて納得してしまいそうな見た目だ。実際、封筒の表にも特に何も書かれていない。
(魔術資料、か)
そう思いながら封を切り、中身を取り出した。最初に出てきたのは、予想通り、いくつかの紙束だった。文字が詰まった魔術理論の解説書で、ぱらぱらとめくるだけでも、これから読み込むのに相当な時間がかかりそうだと分かる。
「……さすが、リリィ先生だな」
誕生日のプレゼントが宿題、というのは冗談でも何でもない。けれど、嫌な気はしなかった。むしろ、自分がその段階にいると認められている証のようで、自然と背筋が伸びる。
資料を机に置き、改めて封筒の中を覗く。そのとき、指先に、紙とは違う感触が触れた。
(……?)
もう一度、封筒を逆さにしてみる。すると、小さな袋が、静かに机の上へ落ちた。布製の巾着のようなそれは、資料とは明らかに異質だった。
「……何だ、これ」
手に取ると、思ったよりも重みがある。資料と一緒に入っていたにしては、妙だ。封筒の奥を確かめると、さらにもう一枚、折りたたまれた紙が残っていた。
(手紙……?)
胸の奥に、言葉にできない違和感が生まれる。教師としての贈り物に、手紙が添えられる理由が、すぐには思いつかなかった。
机の上に、資料、巾着、そして折られた紙を並べる。どれも同じ封筒から出てきたはずなのに、それぞれがまったく違う意味を持っているように見えた。
「……これは」
無意識のうちに、息を整えていた。誕生日の一日が、まだ終わっていない気がした。家族と、エアリスと、そして教師としてのリリィ先生。その延長線上に、もう一つ、別の顔があるような予感がした。
俺は、そっと巾着を机の端に置き、最後に残った手紙を、ゆっくりと開いた。
手紙を開く前に、俺は無意識のうちに、巾着袋の口をつまんでいた。布越しに伝わってくる感触は、石だ。角張っていない、けれど確かな硬さがある。
(……資料と一緒に入ってたってことは)
ただの装飾品ではない。そう直感的に分かった。俺は先に、巾着の中身を確かめることにした。
口紐をほどき、静かに中を覗く。
小さな石が、細い鎖に通されていた。控えめな大きさで、色も派手ではない。光を受けると、表面の奥に淡い輝きが揺れる、不思議な石だった。装飾として目を引くものではないのに、目を離しづらい存在感がある。
「……ネックレス?」
そう呟いた瞬間、ようやく手紙の存在を思い出す。俺は石を巾着に戻し、改めて手紙を手に取った。紙質は上等で、文字は丁寧に揃えられている。リリィ先生の筆跡だ。
――ルーメン、十二歳の誕生日おめでとう。
最初の一文を読んだだけで、胸の奥が少しだけ温かくなった。教師としての口調ではなく、個人として向けられた言葉だと、すぐに分かる。
――囁かですが、誕生日のプレゼントとして、お守りを渡しておきます。
お守り、という言葉に、さっき見た石が重なる。
――これは護身石と言って、名前の刻まれた人が窮地に陥ったとき、一度だけ身代わりになってくれるものです。
俺は、思わず息を止めた。
一度だけ。身代わり。窮地。
言葉の一つ一つが、静かに重い。冗談でも、比喩でもない。実際に命を守るための道具だ。
――一度使うと、砕けて無くなります。そんなことが起こらないといいのですが……
そこまで読んで、手紙を持つ指に力が入った。
――ルーメンのことが大切で、心配なので、常に身につけておいてください。
最後の一文は、淡々としているのに、ひどく率直だった。研究者としてでも、教師としてでもない。ただ一人の大人が、目の前の少年を案じている。その気持ちが、行間から溢れている。
(……大切、で。心配、だから)
言葉にされると、逃げ場がない。これが、誕生日に贈られた「守るためのもの」なのだと、はっきり理解した。
俺は再び巾着を開き、石をそっと取り出した。次に、それをひっくり返すようにして、裏側を確かめる。
石を指先で転がすようにして、ゆっくりと裏側を覗いた瞬間、俺は言葉を失った。
そこには、細く、しかしはっきりと刻まれた文字があった。
――ルーメン・プラム・ブロッサム。
見間違いじゃない。俺の名前だ。それも、略称でも愛称でもなく、正式な名が、最初からそこに刻まれている。
「……最初から、用意してた……?」
思わず、そう呟いていた。護身石は、その場で簡単に用意できるようなものじゃない。名前を刻むには時間がかかるし、魔術的な工程も必要なはずだ。つまりこれは、今日思いついて渡されたものではない。
(いつから……?)
研究室に来る話が出た時か。それとも、もっと前からか。リリィ先生が、どの時点でこの石を用意し始めたのかは分からない。ただ一つ言えるのは、俺が危険な場所へ進むことを、ずっと前から見越していたということだ。
高価だ、という感想は、少し遅れて浮かんできた。護身石そのものが希少である上に、名を刻んだ個別仕様。市場に出回るようなものではない。金額の問題じゃない。これは「簡単には渡せないもの」だ。
それなのに、リリィ先生は、まるで当然のように、資料と一緒に封筒へ入れた。
(……心配、だから)
手紙の一文が、胸の奥で何度も反響する。過剰なくらいの備え。それは、研究者としての合理性だけでは説明がつかない。もし俺が傷つく可能性があるなら、少しでも減らしたい。その一点に、すべてが収束している。
名前をなぞるように、指で石の表面を撫でる。冷たいはずの石が、なぜかほんのりと温かく感じられた。
(守られてる、って……こういうことか)
家族とは違う形で、誰かに強く案じられている。その事実が、胸の奥に、静かに、しかし確実に残る。
これは、期待でも命令でもない。ただ、生きていてほしいという願いだ。その重さを、俺は初めて、はっきりと受け取った気がした。
石をそっと握りしめながら、俺は息を整えた。そして、次に取るべき行動が、自然と決まった。
石を握りしめたまま、しばらく動けずにいた。机の上には、魔術資料と手紙、そして空になった巾着袋が並んでいる。そのどれもが、今日という日を越えて、これから先へと続いているように見えた。
(……一度きり、か)
身代わりになって砕ける護身石。使われないことを前提にしながら、それでも用意されているという事実が、胸の奥に静かに刺さる。危険がないとは、誰も言っていない。むしろ、危険があるからこそ、これが渡されたのだ。
俺は、鎖を指に引っかけ、ゆっくりと首に回した。冷たい金属が肌に触れ、次の瞬間、石が胸元に落ち着く。衣服の内側に収まったそれは、外からは見えない。それでも、確かにそこにあると分かった。
(……迷わないんだな)
一瞬たりとも、身につけるかどうかを悩まなかった自分に、少し驚いた。高価だからとか、重たい気持ちが込められているからとか、そういう理由で躊躇することはなかった。ただ、これは受け取るべきものだと、自然に理解していた。
守られているという実感が、じわじわと広がってくる。それは甘えとは違う。誰かが、自分の未来を真剣に考えてくれているという事実が、背中を押してくれる感覚だった。
(……だから、進めるんだ)
もし何かあったとしても、それを前提に備えがある。その上で、前に進む選択をする。その構図は、リリィ先生らしい。感情だけでなく、現実を見据えた優しさだ。
石の存在を確かめるように、胸元に軽く手を当てる。そこにある温もりが、これから先、何度も俺を思い出させるのだろう。守られているという事実と同時に、守るべき未来があるということを。
「……ありがとうございます、リリィ先生」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。聞こえなくてもいい。言葉にすることで、自分の中に落とし込みたかった。
十二歳の誕生日に受け取ったものは、祝福や贈り物だけじゃない。進む道の危うさと、それでも進めと言ってくれる人の存在だった。
護身石の感触が、胸元で静かに主張しているのを感じながら、俺は椅子に深く腰掛けた。部屋は静かで、さっきまで頭を占めていた一日の出来事が、少しずつ整理されていく。
(……今度は、俺が贈る番、か)
そんな考えが、自然と浮かんだ。
リリィ先生の誕生日。そういえば、今まで一度も聞いたことがない。教師としての顔しか見てこなかったから、年齢も、祝われることが好きなのかどうかも、ほとんど知らない。
(大人への贈り物って……何を渡せばいいんだ)
護身石のように、実用的で、しかも命に関わるほどの重みを持つものを、今の俺が用意できるはずがない。かといって、軽い物で済ませていい相手でもない。
難しさと同時に、少しだけ胸が温かくなる。
誰かに贈り物をしたいと、真剣に考えるのは久しぶりだった。相手のことを思い、何が喜ばれるのかを想像する時間そのものが、すでに特別だ。
(研究の資料とか……いや、それはもう持ってるよな)
考えれば考えるほど分からなくなって、思わず小さく息を吐く。けれど、不思議と焦りはなかった。すぐに答えを出す必要はない。大切なのは、その気持ちを持ったままでいることだ。
護身石を渡されたことで、はっきり分かったことがある。
リリィ先生は、俺を「弟子」や「研究対象」としてだけ見ているわけじゃない。もっと個人的で、踏み込んだ場所から、心配し、守ろうとしている。
だからこそ、俺も、いつか何かを返したいと思った。
それが形になるのは、まだ先かもしれない。それでも、この想いを忘れずにいればいい。今は、それだけで十分だ。
夜が更け、家の中は静まり返っていた。家族の気配はあるのに、物音はほとんどしない。昼間の賑やかさが嘘のようで、誕生日という一日が、ゆっくりと幕を下ろしていくのを感じる。
ベッドに横になり、天井を見上げる。今日一日で、どれだけの言葉を受け取り、どれだけの想いに触れただろうか。家族の祝福。エアリスのクッキー。リリィ先生の護身石。それぞれが、違う形で、俺を次の場所へ押し出していた。
(……変わったのは、外じゃなくて、中だな)
家も、学校も、明日からは同じだ。けれど、自分の内側だけは、確かに一歩前へ進んでいる。十二歳になったという事実は、その証だった。
学院。研究室。未来。
どれも、もう遠い言葉じゃない。目を閉じれば、すぐそこにある。怖さもあるけれど、それ以上に、進みたいという気持ちが勝っていた。
胸元に手を当てると、護身石の感触がある。冷たくはない。むしろ、静かで、落ち着いた存在感だ。守られているという実感が、眠りへ向かう心を穏やかにしてくれる。
(……大丈夫だ)
誰かが信じてくれている。心配してくれている。支えてくれている。その事実があれば、きっと前に進める。
十二歳の誕生日は、特別な出来事があったわけじゃない。ただ祝われ、贈り物をもらい、いつものように一日が終わっただけだ。
それでも、確かに節目だった。
明日からは、また普通の毎日が始まる。でも、その「普通」は、もう昨日までと同じではない。学院へと続く日常。研究室へと繋がる時間。
その入口に立ったまま、俺は静かに目を閉じた。
胸の奥に灯った小さな火を、消さないようにしながら。




