学院1年セリナ編 第六十三章 ルーメンの誕生日③ エアリスからの祝福
翌日、学校の空気はいつもと変わらなかった。授業の進み方も、廊下を行き交う生徒たちの声も、昨日までと同じだ。ただ、俺の内側だけが、少しだけ違う場所に立っているような感覚があった。
放課後、教室を出て、いつものように帰り支度をしていると、背中にかかる視線に気づいた。振り返らなくても分かる。長い時間を一緒に過ごしてきたからこそ、分かる気配だった。
「……ルーメン」
呼び止められて足を止めると、エアリスが少しだけ距離を保った位置に立っていた。普段なら並んで歩き出すところなのに、今日はそうしない。そのわずかな違いが、今日が特別な日なのだと、静かに主張している。
「誕生日、おめでとう」
そう言われた瞬間、胸の奥が温かくなる。家族から祝われるのとは違う、同じ年頃の、同じ時間を生きてきた相手からの言葉だ。
「ありがとう」
短く返しながら、俺はエアリスの様子を窺った。いつもの彼女よりも、少しだけ表情が硬い。笑顔はあるけれど、その奥で何かを抱えているのが分かる。
(……何だろう)
学院の話をしたばかりだからか。誕生日だからか。それとも、別の理由か。分からないまま、俺たちは並んで歩き出した。
校門を出て、村へ続く道に足を向ける。夕方の光が、長い影を地面に落としていた。いつもの帰り道、いつもの距離。でも、言葉を選ぶ間が、妙に長い。
エアリスは何度か口を開きかけては、閉じている。その仕草を横目で見ながら、俺は黙って待った。急かすのは違う気がした。今日のエアリスには、言葉にするまでの時間が必要だ。
(……俺も、何か言うべきか)
誕生日の話題だけで終わらせるのは、簡単だ。でも、胸の奥で、そうしてはいけない気がしていた。今日という日は、ただ祝われて終わる日じゃない。少しずつ変わっていく関係を、否応なく意識させる日でもある。
夕暮れの道を歩きながら、俺はその空気を受け止めていた。エアリスが何を差し出そうとしているのか、まだ分からない。ただ一つ確かなのは、ここから先の言葉が、これまでと同じ「いつもの会話」では終わらない、という予感だった。
しばらく並んで歩いたあと、エアリスはふっと立ち止まった。足音が止まったことに気づいて振り返ると、彼女は胸の前で両手を組み、少しだけ視線を泳がせている。
「……ルーメン」
名前を呼ぶ声が、ほんのわずかに震えていた。
「どうした?」
そう聞き返すと、エアリスは一度だけ深く息を吸い、覚悟を決めたように顔を上げた。そして、背中に隠していた小さな包みを差し出してくる。
「これ……誕生日おめでとう」
淡い色の布で包まれたそれは、決して大きくはない。でも、両手で大事そうに持たれているのを見た瞬間、ただの贈り物じゃないことが、はっきり分かった。
「私の手作りなんだけど……クッキー。受け取って、もらえるかな」
そう言いながら、エアリスは視線を外す。強気なところもあるのに、こういう場面では驚くほど素直で、臆病だ。そのギャップが、胸の奥をくすぐった。
(……手作り、か)
その言葉の重みを、俺はちゃんと分かっていた。材料を選んで、時間を使って、失敗しないように気を配って。誰かのために作るという行為は、簡単なことじゃない。
同時に、別の記憶が頭をよぎる。
(俺は……エアリスの誕生日に、何もしてない)
「おめでとう」と言って、「これからも仲良くやっていこう」と言っただけ。それで済ませてしまった自分の過去が、急に重くのしかかってくる。プレゼントなんて考えもしなかった。その事実が、今になってじわじわと胸を刺した。
(遅れてでも、返さないと)
そう思いながらも、目の前のエアリスを前にして、言葉が詰まる。軽い気持ちで受け取っていいものじゃない。かといって、突き返す理由も、突き返したい気持ちもなかった。
エアリスは、俺の返事を待っている。手にした包みは、まだ彼女の指先に残ったままだ。
その光景を見て、俺はようやく気づいた。
これは、贈り物を渡すという行為以上に、「受け取ってくれるかどうか」を確かめる瞬間なのだと。
「……ありがとう、エアリス」
俺はそう言って、両手で包みを受け取った。
「大事にする。美味しく食べさせてもらうよ」
その言葉に、エアリスの肩がふっと緩む。安心したような、でも少し照れたような表情で、小さくうなずいた。
(受け取ったんだ)
クッキーそのものよりも、その事実が、胸に残った。言葉にしない想いも、返しきれない気持ちも、いったん全部受け取ったのだと、自分の中で線が引かれた気がした。
夕暮れの道に、また二人分の足音が重なり始める。包みの温もりが、掌に残ったまま、俺たちは並んで歩き出した。
クッキーの包みを手に持ったまま、俺たちは再び歩き出した。夕方の風が少しだけ冷たくて、でもその分、頭の中が妙に冴えている。包みの軽さとは裏腹に、胸の内側には確かな重みが残っていた。
(……受け取った、んだよな)
ただ物を受け取った、という感覚じゃない。エアリスの時間や気持ち、勇気まで含めて、まとめて預かったような気がしている。だからこそ、軽々しく扱えない。落とさないように、無意識のうちに指に力が入っていた。
エアリスは、俺の横を歩きながら、さっきまでの緊張が嘘だったかのように、少しだけ歩幅を揃えてくる。距離が、ほんのわずかに近い。その変化が、俺には分かった。
「……その、無理しなくていいからね」
不意に、エアリスが言った。
「食べるの。嫌いな味だったら、無理しなくていいし」
そう言いながらも、視線はこちらを向かない。気遣いの言葉の形をしているけれど、本当は、どう受け取られるのかが怖いのだと伝わってくる。
「嬉しいよ、エアリスが作ったなら、ちゃんと食べる」
そう言った瞬間、少しだけ言い過ぎたかもしれない、と思った。でも、訂正はしなかった。誤魔化すより、正直な方がいい気がしたからだ。
エアリスは一瞬だけこちらを見て、すぐに前を向いた。夕焼けの光のせいか、頬が少し赤く見える。
(……俺、何やってるんだ)
自分でも分からない。エアリスの気持ちを全部理解しているわけじゃないし、自分の気持ちをきちんと整理できているわけでもない。ただ一つ分かるのは、「受け取らない」という選択肢は、もうなかったということだ。
以前の俺なら、遠慮していたかもしれない。気恥ずかしさを理由に、曖昧な返事で済ませていたかもしれない。でも、今は違う。十二歳になったという事実が、少しだけ背中を押している。
(選ぶ、ってこういうことか)
誰かの想いを受け取るかどうか。それも、選択の一つだ。受け取った以上、何かが変わる。関係も、自分の中の意識も、少しずつ。
エアリスはもう何も言わず、ただ隣を歩いている。その沈黙が、さっきよりも心地よかった。言葉がなくても、拒まれていないという安心が、そこにはあった。
村へ続く道の先に、家々の明かりが見え始める。いつもの帰り道なのに、今日は一つ一つの景色が、妙にくっきりしていた。
誕生日に受け取ったものは、家族の祝福だけじゃない。エアリスのクッキーも、同じくらい確かな節目だった。俺はその事実を胸にしまい込みながら、静かに歩き続けた。




