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リリィ編 第六十一章 エアリスへの報告① 学院への不安

エアリスは手を離したあとも、すぐには前を向かなかった。

少しだけ歩調を緩め、横目でルーメンを見上げる。

信じる、と言った。それは嘘じゃない。

でも、胸の奥に残った違和感までは、消えていなかった。

(終わりじゃない)


エアリス自身が、いちばんよく分かっている。

今聞いた話は“説明”としては筋が通っている。

けれど、説明が整いすぎているときほど、人は何かを隠している。


「……ルーメン」

少しだけ声のトーンを落として、エアリスは言った。

「ルーメン、まだ何か隠してるでしょ」

責める口調ではない。怒ってもいない。ただ、確信に近い直感だった。


ルーメンの胸が、きゅっと縮む。

(来た……)

一度は乗り切ったと思った波が、もう一度押し寄せてくる。

嘘はついていない。

でも、“全部”を話しているわけでもない。

頭の中が一気に回転を始める。何を言うべきか。何を言ってはいけないか。

(ここで黙るのは、逆に怪しい)

エアリスは、じっと待っている。

急かさない。

その代わり、逃げ道も与えない。


ルーメンは、視線を一度だけ足元に落としてから、覚悟を決めた。

「……えーっと」

間の抜けた前置きが、かえって本音を滲ませる。


「そうだ。リリィ先生が、俺を特待生として推薦状を書いてくれるって」

言い終えた瞬間、胸の奥で小さく音がした。

隠していたカードを、一枚切った感覚。

エアリスは一瞬きょとんとしたあと、すぐに表情を和らげた。


「ああ……なるほど」

さっきまでの鋭さが、少しだけ薄れる。

「ルーメンだもんね。特待生になってもおかしくないもんね」

その言葉には、羨望よりも先に、納得があった。

ルーメンがどんな魔術を使えるのか、エアリスは誰よりも近くで見てきた。


「リリィ先生も、ルーメンのことちゃんと見てたみたいだね」

そこには、教師への信頼と、友への誇りが混じっている。


「私からは、ルーメンに推薦状は書けないけど……」

少しだけ肩をすくめてから、エアリスは続けた。

「応援はできるから。応援するよ」

その言葉を聞いて、ルーメンの胸がじんわりと温かくなる。

責められると思っていた分、余計に。


「ありがとう」

小さくそう言うと、エアリスは照れたように視線を逸らした。

けれど、すぐにまた思い出したように顔を戻す。


「ねぇ、ルーメン」

今度は、少し前の話をなぞるような口調だった。

「前に言ってたと思うけど……リリィ先生の研究室に入れる条件みたいなの、聞いてくれた?」

ルーメンは、はっとする。

(ああ……言ってたな)

研究室に入る条件。

軽い好奇心で聞かれた質問だったはずなのに、今は意味が違う。


「……うーん」

少し考えてから、正直に答える。

「そうだね。リリィ先生の実力はすごいから……たぶん、僕でギリギリの合格ラインだと思うよ」

謙遜でも、卑下でもない。

自分なりの、現実的な自己評価だった。


エアリスは、少しだけ目を見開いてから、ふっと笑った。

「そっか。そうだよね」

その声には、悔しさよりも納得が勝っている。


「リリィ先生が認めるくらい、すごく魔術が使えないとダメだもんね。ルーメンぐらいだよね、きっと」

言い切るその言葉に、僅かな距離感が生まれる。

同時に、それを埋めようとする気配も。


ルーメンは、すぐに首を振った。

「エアリスも、学院でかなり上位になれば可能性はきっとあるよ」

フォローというより、願いに近い言葉だった。

一緒に同じ場所に立てたらいい。

そう思ってしまう自分がいる。


エアリスは一瞬黙り込み、それから小さく息を吐いた。

(……やっぱり、少しずつ、変わっていくんだ)

それを寂しいと思う自分と、応援したい自分が、胸の中で並んでいる。


少しだけ間が空いた。

それは沈黙というほど重いものではなく、次の言葉がどちらから出るかを待つ、曖昧な間だった。


エアリスは前を向いたまま、歩く速度をほんの少しだけ落とす。

その変化に、ルーメンはすぐ気づいた。

(……来るな)

理由は分からなくても、感覚で分かる。

この沈黙の先には、軽くはない言葉がある。


「……そしたらさ」

エアリスは、なるべく普段どおりの声を作って言った。

「学院に行くと、今みたいに会えなくなるね」

軽い言い方だった。雑談の延長みたいに。

でも、その言葉の奥に、隠しきれない感情が滲んでいる。

寂しい。それを、真正面から言うのは怖い。

だから、少しだけ冗談めかして、逃げ道を残した言い方になった。


ルーメンの胸が、きゅっと締めつけられる。

(……やっぱり)

予想していたはずなのに、実際に言われると、思っていた以上に重い。

学院に行けば、生活のリズムが変わる。

距離も、時間も、今とは違ってしまう。

「寂しいな」

エアリスは、最後にそう付け足した。

小さな声だったが、はっきりとした本音だった。


ルーメンは、一瞬、言葉を失う。

慰めればいいのか、否定すればいいのか、約束すればいいのか。

どれも、簡単には選べなかった。

エアリスは、ルーメンの方を見ない。

見てしまったら、感情が顔に出てしまう気がしたからだ。

(離れるの、分かってたはずなのに)

頭では分かっている。

学院に行けば、ずっと一緒にいられるわけじゃない。

それでも、いざ現実になると、胸の奥がじんと痛む。


ルーメンは、足を止めはしなかった。

同じ速度で歩きながら、静かに言葉を探す。

(ちゃんと、向き合わなきゃ)

ごまかすのは簡単だ。

でも、それはエアリスを置き去りにすることになる。


「……うん」

短く頷いてから、ルーメンは言った。

「確かに、今みたいには会えなくなると思う」

正直な言葉だった。

だからこそ、その先を続ける必要がある。


エアリスの肩が、ほんのわずかに揺れる。

否定されなかったことに、少しだけ救われた気がした。

でも同時に、やっぱり、寂しさは消えない。


「……でもさ」

エアリスの言葉を受け止めたまま、ルーメンは少しだけ間を置いた。

感情に流されて返したくなかった。

ここで言う言葉は、安心させるための嘘であってはいけない。


(ちゃんと、整理して伝えよう)

学院に行けば、生活は変わる。

それは事実だ。

でも、“会えなくなる”ことと、“離れてしまう”ことは、同じじゃない。


「学院に行ったらさ、男子寮と女子寮って別れるだろ?」

そう切り出すと、エアリスは小さく頷いた。

分かっている、という顔だった。


「それがさ」

ルーメンは続ける。

「俺の場合は、男子寮じゃなくて、リリィ先生の研究室になるだけなんだ」

言葉にしてみると、不思議と落ち着いた。

自分の中でも、整理がついた気がする。


「距離は変わるけど、完全に会えなくなるわけじゃない」

エアリスは、少しだけ視線を下げる。

理屈としては、理解できる。

でも、心がすぐに追いつくわけじゃない。


「それにさ」

ルーメンは、ほんの少しだけ声を和らげた。

「エアリスが学院で頑張って、リリィ先生と仲良くなれたら……研究室に来る機会だって、きっと増えると思う」

その言葉には、計算はない。

ただ、同じ場所に立てたらいい、という素直な願いがあった。


エアリスは、はっとしたように顔を上げる。

(……あ)

“離れる”しか考えていなかった思考に、別の選択肢が差し込まれる。

今すぐじゃなくてもいい。

努力の先に、また同じ空間に立てる可能性がある。


「……そっか」

小さくそう呟いて、エアリスは息を吐いた。

寂しさが消えたわけじゃない。

でも、“終わり”じゃないと思えただけで、胸の重さが少し軽くなる。


ルーメンは、エアリスの横顔を見ながら思う。

(距離を埋める方法は、一つじゃない)

同じ場所にいることだけが、繋がりじゃない。

同じ方向を見ていることも、きっと大事だ。

この言葉が、エアリスの中でどう育つのかは、まだ分からない。

でも、今はそれでいい。


少し前を向いて歩きながら、エアリスは考えていた。

寂しい。それは変わらない。

でも、さっきルーメンが言った言葉が、頭の中で何度も反芻されている。

(研究室に……行ける可能性)

今までは、ただ“別れる”未来しか思い浮かべていなかった。

男子寮と女子寮。

生活の拠点が分かれ、会う頻度が減るのは当たり前。

そうやって、少しずつ距離ができていく……そんな未来。


「……でもさ」

ルーメンは、エアリスの沈黙を破るように、少しだけ明るい声で言った。

「エアリスも、頑張ればいいんだよ」

エアリスが顔を向ける。

「え?」

思わず聞き返した声は、少し間が抜けていた。


「学院でさ、ちゃんと成績を出して、魔術も磨いて……リリィ先生に認めてもらえたら」

ルーメンは歩きながら、まっすぐ前を見て続ける。


「研究室で一緒に過ごせる時間も、きっと増えると思う」

それは提案というより、“道”の提示だった。

今すぐ叶う約束じゃない。

でも、努力すれば届くかもしれない未来。


エアリスの胸の奥で、何かが弾ける。

(……そんな考え方、してなかった)

離れるか、離れないか。

その二択しかなかった世界に、第三の選択肢が現れる。


「……そっか」

エアリスは一拍置いてから、ぱっと表情を明るくした。

「それ、名案じゃない?」

声のトーンが、さっきまでとは明らかに違う。

沈んでいた感情が、一気に前を向く。


「ルーメンが男子寮にいるより、都合がいいかもしれない」

冗談めかして言いながらも、その言葉の裏には本気がある。

「私もさ」

エアリスは、ぎゅっと拳を握った。

「リリィ先生と仲良くなれるように、もっともっと頑張ってみるよ」


その宣言には、張り合う気持ちも、追いつきたい気持ちも、そして一緒にいたいという素直な願いも、全部混じっている。

ルーメンは、その横顔を見て、少しだけ安心した。

(よかった)

寂しさを否定しなくてよかった。

距離ができる未来を、無理に誤魔化さなくてよかった。

その上で、前を向ける選択肢を一緒に探せた。


エアリスは、もう一度前を向いて歩き出す。

足取りは、さっきよりも軽い。

二人の影は、夕陽の中で並んで伸びていく。

未来へと続く道の上で、重なり合いながら。


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