リリィ編 第六十一章 エアリスへの報告① 研究室から通学のこと
第六十一章 エアリスへの報告
放課後の空気は、いつもより少しだけ柔らかかった。
授業が終わり、校舎を出て、いつもの道をエアリスと並んで歩く。舗装された道の端には、夕方の光を受けた草が揺れていて、遠くからは家々の生活音が微かに混じってくる。見慣れたはずの景色なのに、今日はどこか落ち着かない。
理由は分かっている。言わなければならないことが、あるからだ。
エアリスは、いつも通りの足取りだった。軽く腕を振り、時々こちらを見ては何でもない話を振ってくる。今日の授業のこと、先生の言い間違いのこと、次の休みの日の話。どれも他愛のない内容だ。それに相槌を打ちながら、俺は何度も口を開きかけては閉じた。
(今、言うべきだよな……)
頭では分かっている。
後回しにすればするほど、余計に重くなることも。エアリスには、隠し事ができないということも。
それでも、踏み出せない。
この帰り道は、俺とエアリスにとって当たり前の日常の一部だった。並んで歩いて、同じ方向に帰って、明日もまた同じように顔を合わせる。そんな「当たり前」の延長線上で、俺はこれから先の話をしなければならない。
イーストレイクの学院。
進学。
そして、その先の生活。
それらは、まだ少し先の未来の話のはずなのに、俺の中ではもう決まってしまったことだった。決まってしまったからこそ、エアリスに伝えなければならない。
(……どう切り出せばいいんだ)
何気ない会話の途中で、唐突に話題を変えるのも不自然だ。かといって、改まって言うのも、変に身構えさせてしまいそうで怖い。そんな迷いが、歩幅を微妙に狂わせる。
エアリスは、それに気づいたのか、ふと歩く速度を俺に合わせた。横目でこちらを見て、少し首を傾げる。
「ルーメン?」
名前を呼ばれただけで、心臓が小さく跳ねた。
まだ何も言っていないのに、もう見抜かれているような気がしてしまう。
「……あ、いや」
ごまかすように笑って、俺は前を向いた。
このまま黙っていれば、家に着く。そうすれば今日は何も言わずに済む。でも、それは逃げだ。分かっているのに、足は無意識にその選択肢を探ろうとする。
夕日が、道の先を橙色に染めていた。
その光の中で、俺は深く息を吸う。
(言おう)
今日じゃなきゃ、だめだ。
エアリスと並んで歩くこの時間だからこそ、言う意味がある。
俺は、視線を少しだけエアリスの方に向け、覚悟を固めるように、口を開いた。
俺は歩きながら、できるだけ自然を装って口を開いた。
「なあ、エアリス。イーストレイクの学院に行ったら……寮に入るよね?」
言ってしまってから、少し遅れて心臓が強く鳴った。
切り出しとしては、あまりにも回りくどい。それでも、いきなり本題に入るよりはましだと思った。
エアリスは、即座にこちらを見て、当たり前だというように笑った。
「もちろんそうだよ。ルーメンもでしょ?」
その一言に、胸の奥がきゅっと縮む。
あまりにも自然で、疑いの余地すらない答えだった。エアリスの中では、もう「二人とも寮に入る未来」が当然の前提として組み上がっている。
「……それが……」
俺は言葉を濁した。
口に出した瞬間、自分でも分かるほど、声の勢いが弱くなる。
その変化を、エアリスが見逃すはずがなかった。
「……?」
歩く速度が、ほんのわずかに落ちる。
楽しげだった空気が、静かに張り詰めていくのを感じた。
俺は、次の言葉を探しながら、視線を前に固定した。
何でもない話の続きのように言えたらいいのに、喉がうまく動かない。
夕暮れの風が、二人の間を通り抜ける。
さっきまで聞こえていた生活音が、少し遠くなった気がした。
エアリスは、俺の顔をじっと見ている。
問いかける前から、もう何かを察している目だった。
俺の曖昧な一言が、確実に引っかかりを残している。
そして、その引っかかりが、次の言葉を強く求めていることも、はっきり分かっていた。
逃げ場は、もうない。
「……え?」
エアリスの足が止まりかけた。
次の瞬間、少し早足になって俺の前に半歩だけ出る。その動きは無意識に近くて、反射的だった。
「ルーメン、まさか学院行かないの?」
言葉が、食い気味に飛んでくる。
軽い冗談の調子ではない。声は低く、けれど微かに揺れていた。
「ち、違う。学院には行くよ」
俺は慌てて否定した。
否定しなければならない内容が違うことは分かっているのに、まずそこを否定しないと、エアリスの中で何かが決定的に崩れてしまいそうだった。
「行くなら……」
エアリスは言葉を続けようとして、一度口を閉じた。
その一瞬の間に、彼女の中で不安と焦りが入り混じっているのが、はっきりと伝わってくる。
「じゃあ、何?」
問いかけは短い。
けれど、その短さが逆に重かった。
俺は視線を落とし、歩道の縁石を見つめた。
言葉を選んでいる間にも、沈黙はどんどん膨らんでいく。
学院に行かないわけじゃない。
でも、寮にも入らない。
それは、エアリスにとって想定外の答えだ。
「……その……」
喉が乾く。
何度も頭の中で練習したはずの説明が、うまく並ばない。
エアリスは、じっと待っている。
急かしてはいないのに、その視線自体が圧になっていた。
「ルーメン」
名前を呼ばれただけで、背筋が伸びる。
怒っているわけじゃない。ただ、不安だからこそ、はっきりした答えを求めている。
俺は、息を整えた。
これ以上、曖昧なままではいられない。
(言わなきゃいけない)
分かっているのに、言葉が出るまでに、ほんのわずかな時間がかかる。
その沈黙を、エアリスは見逃さなかった。
「……学院には行くよ」
ようやく口にした瞬間、ルーメンは自分の声が少し硬いことに気づいた。
否定だけは、最初にしておかなければならなかった。
エアリスは一瞬だけ瞬きをして、すぐに言った。
「もちろんそうだよ、ルーメンもでしょ?」
あまりにも当然の口調だった。
“一緒に行く”という前提が、そこには何の疑いもなく含まれている。
その無防備さに、ルーメンの胸がちくりと痛む。
「……それが……」
言葉を継いだ瞬間、足がわずかに重くなる。
この一言で、空気が変わる。
そう分かっていても、止められなかった。
エアリスは、すぐに反応した。
「ルーメン、まさか学院行かないの?」
声が、少しだけ高くなる。
冗談めかしているようで、実は冗談ではない。
エアリスの胸をよぎったのは、不安だった。
当たり前だと思っていた未来が、音を立てて揺れた気がしたのだ。
「学院には行くよ……それなんだけど、……俺、リリィ先生の研究室から通うことになって……」
言い切った瞬間、ルーメンの胸がきゅっと縮む。
自分でも分かっている。これは“普通”じゃない選択だ。
だからこそ、視線を逸らさずに言った。
「えっ……それってどういう意味?」
エアリスの声には、怒りも責めもなかった。
ただ、理解が追いつかないという純粋な困惑だけが滲んでいる。
頭の中で、必死に言葉を組み立て直しているのが分かった。
「意味?意味って、リリィ先生に魔術の研究を学院生の間もやっておこうって言われて、寮だと行き来が大変だから、リリィ先生の研究室にから学院に通うってことだけど、少しだけど報酬も支払われるみたいで」
説明しながら、ルーメンは自分が早口になっているのを自覚していた。
納得してもらいたい気持ちと、これ以上踏み込まれたくない気持ちが、同時に胸にある。
エアリスは歩みを止めはしなかったが、視線だけがルーメンに固定される。
頭の中で、彼女なりに状況を整理している。
「ルーメンの家はそんなにお金に困ってないでしょ。でも、研究と報酬ってことは、お仕事上の付き合いで、下宿するみたいな感じで合ってるかな?ね、そうだよね?」
確認する言い方だった。
けれど、その裏には別の感情が潜んでいる。
“仕事”という言葉で括らなければ、納得できない何か。
それが何なのか、エアリス自身もまだはっきり掴めていなかった。
ルーメンは、その圧に気づいている。
だからこそ、曖昧にせず、言葉を選んだ。
「そ、そうだよ。研究手伝ってもらいたいから、学院生だから、少し手伝って、お仕事だから報酬も出るし、ついでに、部屋も貸してもらえるって感じかな」
言い終えた瞬間、エアリスの目が細くなる。
納得したからではない。
むしろ、次の問いを決めた目だった。
「ねぇ、それ、どっちから言い出したの?どっち?」
踏み込む声。
逃がさない距離感。
エアリスの中で、“ただの進路の話”ではなくなっている。
(来た)
ルーメンは一瞬、息を詰める。
誤魔化せない。誤魔化したくもない。
「も、もちろん、リリィ先生からだよ」
答えた瞬間、エアリスはすぐには何も言わなかった。
ただ、じっとルーメンを見つめる。
その視線には、疑いと、信じたい気持ちが同時に宿っていた。
「……ふーん、ルーメン、目を見せて、手も握っていいかな?」
半分は冗談のようで、半分は本気。
ルーメンは抵抗せず、されるがままになる。
エアリスはルーメンの目を覗き込み、手を取ったまま、静かに魔力の流れを感じ取る。
そこにあるのは、いつも通りの穏やかな波。
嘘をついたときに出る、あの微細な乱れはない。
「……うーん、ルーメンの目も嘘を言ってる感じじゃないし、魔力もそんなに乱れてないから、……たぶん、本当のことなんだろうね、信じてあげる」
その言葉に、ルーメンは胸の奥で大きく息を吐いた。
張り詰めていたものが、ようやく緩む。
一方で、エアリスは手を離しながら、胸の奥で別の感情を抱えていた。
信じた。
でも、それで全部が安心できたわけじゃない。
(……やっぱり、普通じゃない)
そう思いながらも、今はそれ以上踏み込まないと決めた。
信じると口にした以上、その選択を尊重したかったから。




