リリィ編 第六十章 リリィのルーメンへの想い
第六十章 リリィのルーメンへの想い
ルーメンの家の廊下は、夜になると音が変わる。
昼間は、誰かの足音や笑い声、鍋のふたを置く音、木の扉が開いて閉まる気配が、遠慮なく行き来していたのに、今はそれらすべてが柔らかく吸い込まれていくみたいに静かだった。
私は客間の寝室に通され、用意された寝具に腰を下ろしている。手を伸ばせば届く位置に荷物があり、その横にはさっき脱いだ外套が置かれている。机の上には、母親……リオラさんが「よかったら」と置いてくれた白湯があり、その湯気が細く、静かに立ち上っていた。
泊まるのだ。
何度も頭の中で繰り返して、ようやく実感が形になってきた。私は今、ブロッサム家にいる。そして今夜は、ここで眠る。
胸の奥が落ち着かない。怖いわけではない。緊張とも違う。それでも心臓の鼓動が、いつもより一拍だけ早い。私は無意識に右手へと視線を落とした。
指を一本ずつ、ゆっくり動かしてみる。曲げる。伸ばす。握る。開く。爪の先まで、血の温度が通っているのが分かる。
……動く。
それが、まだ信じられない。
石になっていた右手。冷たく、重く、魔力が沈黙した器から、悪い魔力だけが溢れ出していたあの腕。包帯を外された瞬間、治療室の空気を濁らせるほどの黒い靄が噴き出し、大神官様の神位の光でさえ押し返してしまった、あの病。
あのとき私は、正直、もう終わりだと思った。
「治らない」と言われたときの絶望は、言葉にできない。“治らない”という言葉は、単に右腕の話ではなかった。研究者として、教師として、魔術師として、そして私という人間の未来そのものが、そこで切り落とされる感覚だった。
私は怖かった。痛みよりも、死よりも。
自分の右腕が石に侵されていくことそのものよりも、「私が私でなくなる」ことが、何より怖かった。
そして何より……
私は、ルーメンを傷つけた。
胸の奥に、ずっと刺さったままの棘がある。抜こうとすると血が出ると分かっているから、見ないふりをしてきた棘だった。
最初の魔術特訓。あの森。魔物討伐の訓練だと私は言った。強くなれば守れるようになると、私は言った。教える立場であることを、どこか誇りに思いながら。
けれど結果は、あまりにも無残だった。
巨大な蛇。ジャイアントキリングコブラ。想定など、何一つ通じなかった。
ルーメンの身体が宙に浮き、空気が裂け、牙が迫る。あの瞬間の光景は、今でもまぶたの裏に焼きついている。私は、あのとき、教師ではなかった。魔術師でもなかった。ただ、震える女だった。
助けて、と声にならない声を喉の奥で潰し、でも誰にも届かない。身体が動かない。頭が真っ白になる。自分の魔力が、何の役にも立たない。
私が、連れてきたのに。
あのときの罪悪感は、私の中でずっと腐っていた。腐ったものは、やがて毒になる。毒は心を侵し、魔力を侵し、そして身体を侵す。研究室に籠もったのも、授業に出られなくなったのも、ただの「体調不良」ではなかった。
私は怖かったのだ。生徒の前に立つことが。ルーメンの顔を見ることが。
あの子が「大丈夫ですよ」と笑うたびに、自分がどれだけ卑怯かを思い知らされるから。
私が落ち込んでいたのは、傷が深かったからじゃない。
……逃げていただけだ。
逃げて、逃げて、逃げ続けた先で、私は石化病になった。
魔素液を右手にこぼした。
私はそれを「うっかり」と言った。軽く、何でもないことのように。事故だったのだと、そう言い切ってしまえば、それ以上誰も踏み込んでこないと分かっていたから。
でも本当は、違う。
あれは、うっかりじゃない。
心が、もう限界だった。
魔力は心と切り離せない。魔力の流れは感情の流れと絡み合っている。研究者としてそれを理解していたはずなのに、私は自分自身の異変を直視しなかった。直視する勇気がなかった。
私は失敗したのではなく、壊れたのだと思う。
右手が石に侵されていく感覚は、冷たさよりも、重さよりも、「戻れない」という確信の方が強かった。魔力が沈み、動かそうとしても応えない。まるで、私という存在の一部が、世界から切り離されていくようだった。
その壊れた私のところに……
ルーメンが、来てくれた。
研究室。結界の残滓が張り詰める静けさ。扉を叩く音が響いたとき、私は一瞬、息を止めた。「どうぞ」と返した自分の声が、ひどくかすれていたのを覚えている。
扉の向こうに、あの子が立っている。
それが分かった瞬間、胸が痛くなった。
助けて、と言った。
消えるように、消えてしまう前に、助けて、と言った。
教師として、師匠として、最悪だった。弱いところを見せるつもりなんてなかった。格好悪いところを見せるつもりなんて、なかったのに。
でも、見せてしまった。
そして、その相手がルーメンだった。
あの子は怒らなかった。呆れなかった。責めなかった。ただ、静かに私の右腕に触れて、魔力を読んだ。
「嫌な流れが出てます」
淡々と、でも真剣に言うその声を聞いたとき、私はやっと、心の底で「まだ生きている」と思えた。誰かに見捨てられていない、という実感が、遅れて胸に落ちてきた。
そして……イレンティア大聖堂。
大神官様の光。神位の癒し。
光が吸い込まれ、石化が解け、また戻っていく。希望が見えた瞬間に突き落とされる、あの残酷さ。「石化病」と告げられたとき、胸の底が崩れ落ちる音がした。
神位でも、治らない。
あの場にいた神官たちの表情。父の顔。そして、ルーメンの顔。あの子は震えていた。十一歳の子どもが、あんな場で震えない方がおかしい。
それでも、震えたまま前に出た。
私の左手を握り、囁いた。
「ハーモニック・リコンストラクション」
その声は、光よりも強かった。魔力の嵐が一瞬で静まり、石化がわずかに退き、また暴走し、また静まる。それを何度も、何度も繰り返して。
私は、命を取り留めた。
治ったわけではない。
けれど、死ななかった。
そして私は、その瞬間から、少しずつ思い知らされていくことになる。
……この子は、私が守る対象じゃない。
もちろん、ルーメンはまだ子どもだ。教えるべきことは山ほどあるし、危ない目に遭わせたくもない。それでも私は、あの大聖堂での出来事を経て、どうしても認めざるを得なくなっていた。
この子は、私が思っているよりずっと強い。
強さとは、魔術の階位だけじゃない。
心の、強さだ。
怖さを知った上で、それでも前に進む強さ。大切な人が苦しむのを見ていられない、という強さ。
私は、その強さに救われた。
それからの二十日、三十日。
教会での訓練。救護。怪我人。病人。神位の癒しに届くための、地獄みたいな反復。そのすべての時間を、私はルーメンと同じ屋根の下で過ごした。
嬉し恥ずかしな同棲生活。
……そう言って笑ったのは私だったけれど、本当は、笑いながら心の中で何度も震えていた。
朝、同じ時間に起き、同じ卓で水を飲み、同じ廊下を歩き、それぞれの部屋に戻る。ただそれだけのことが、どうしてこんなにも胸をくすぐるのだろう。
私は二十六歳だ。大人だ。教師だ。師匠だ。
そう自分に言い聞かせるたびに、心のどこかで、言い訳をしている自分がいることにも気づいていた。
ルーメンの魔力に触れるとき、私はいつも、少しだけ幼くなる。あの子の魔力は優しく、温かい。身体の痛みより先に、心の緊張がほどけていく。
「ずっと感じていたいほどです」
口にしてしまった言葉を、私は後悔した。後悔してから、また自分に驚いた。後悔しているのに、嬉しい。恥ずかしいのに、手放したくない。
私は、いつからこんな感情を抱えるようになったのだろう。
思い返せば、最初は違った。「普通の小さい子だな」と思った。次に、光属性に驚いた。無詠唱に驚いた。五属性の上位に驚いた。聖位に驚いた。神位の癒しに届きかける姿に、ただただ驚いた。
驚きは尊敬に変わった。尊敬は誇りに変わった。
そして……誇りは、祈りに変わった。
どうか、この子が幸せでありますように。
いつからか私は、そう祈っていた。
だが祈りは、いつしか欲に変わっていく。
この子の幸せの中に、私がいてほしい。
そんなこと、願っていいわけがない。教師が、師匠が。しかも相手は、まだ子どもだ。分かっている。分かっているのに、心は理屈を追い越してしまう。
石化病で死にかけた夜、私は思った。
もし、生きられるなら。
もう一度、光を見たい。授業をしたい。研究をしたい。そして……
ルーメンの隣に、いたい。
それが最初から恋だったのか、命を救われたから恋になったのか、私は答えを出せない。ただ、確かなことが一つだけあった。
私は、あの子の隣にいる未来を、手放したくない。
確かなことが、もう一つあった。
ハーモニック・ジェネシスが発動し、右手を覆っていた石化が、溶け落ちるように剥がれていった瞬間のことだ。石の殻が砕けるのではなく、ほどけるように消えていき、その下から“私の右手”が現れた。
息を、するのを忘れた。
温かい。魔力がある。動く。
「ルーメン、私の右手が……!」
言葉より先に身体が動いていた。衝動だった。理性も、立場も、年齢も、何も考えていなかった。ただ、そこにいるあの子を抱きしめていた。
私は泣いた。
子どもみたいに、声を上げて泣いた。
大神官様も、周囲の神官たちも歓声を上げていた。祝福と安堵が混じった空気の中で、私はただ、ルーメンの肩に顔を押しつけていた。
ありがとう。
命を救ってくれて、ありがとう。
未来をくれて、ありがとう。
私が背負っていた罪悪感を、少しだけ軽くしてくれて、ありがとう。
その帰り道、私は「手を繋いで歩いてください」と言った。右手を差し出した。恥ずかしかった。けれど、それ以上に確かめたかった。
本当に、戻ったのだと。そして同時に、もう一つ。
この手は……あなたと、繋げるのだと。
夕暮れのせいにして、頬が赤くなるのを誤魔化した。だが本当は、私の心が勝手に春になっていただけだった。
そのとき、私は決めた。
ルーメンのために生きる。
その言葉を心の中で繰り返したとき、自分でも少し怖くなった。重い。重すぎる。けれど、嘘ではなかった。
私は二十六歳で、ルーメンはまだ十一歳だ。時間の差がある。常識がある。倫理がある。越えてはいけない線が、確かに存在している。
それでも心は、勝手に芽吹く。私は、芽吹いてしまった。
そして芽吹いたものを、踏みにじれなかった。だから私は、今すぐ結婚してほしいなんて言わない。言えない。言ってはいけない。
けれど……
願うことまで、禁じられているわけじゃない。
いつか。
いつか、ルーメンが成人して、自分の意思で誰かを選ぶ日が来たとき。その視線が、私に向く可能性が、ほんの少しでもあるなら。
私は、その日まで生きる。
私は、その日から少しずつ、生き方を変えた。
劇的な変化ではない。誰かに気づかれるほどのものでもない。ただ、自分の中の基準が、ほんの少しだけずれた。研究に向かう理由、教えるときの視線、未来を思い描くときの前提。そのすべての中心に、いつの間にかルーメンがいた。
研究を続けたいと思った。強くなりたいと思った。生き延びたいと思った。
その理由を一つずつ辿っていくと、最後に行き着く場所はいつも同じだった。ルーメンの隣に立っていたい。その未来を、失いたくない。
だから私は、大人としての言葉を選んだ。
公的で、合理的で、誰から見ても正しい言葉を。
「卒業後は、私の研究室で雇わせてください」
それは進路の提案であり、才能への投資であり、教育者として当然の選択に見える。実際、その側面も嘘ではない。高待遇も、推薦状も、特別生という立場も、すべて現実的な判断だった。
けれど胸の奥の本音は、別のところにあった。
ルーメンを、私の世界に迎えたい。
研究室。魔術の道。同じ屋根の下。
再び始まる、嬉し恥ずかしな日々。
私はそれを、心の底で望んでいる。
望んでいるからこそ、正面からは言えない。願いをそのまま言葉にしてしまえば、すべてが壊れてしまうと分かっているから。
ブロッサム家の食卓で、私は頭を下げた。
深く、深く。
両親に向けて頭を下げながら、私は同時に、自分の心にも頭を下げていた。身勝手だと分かっている。欲張りだとも思う。それでも、一度死にかけた者は知ってしまう。
……望むことの、尊さを。
リオラさんと握手したとき、その手は温かかった。
家庭の温度が、そこにあった。
私は羨ましいと言った。
私の実家では見たことのない光景。誰かが誰かを手伝い、笑い、同じ卓を囲む。その輪の中に、自分が立っているという事実が、胸の奥を静かに満たしていく。
私は、こういう家庭が理想だと言った。
そして、思ってしまった。
私が望む家庭の中心にいるのは、ルーメンだ。
欲張りだ。身勝手だ。
けれど、私は一度、すべてを失いかけた。
失いかけた者は、もう一度、何かを掴みたいと願ってしまう。
夜は、いつの間にか深まっていた。
廊下の向こうから、誰かが器を片づける音が微かに聞こえ、やがてそれも静寂に溶けていく。家全体が眠りに向かう、その過程の中に、私も確かに含まれていた。
私は白湯をひと口飲み、ゆっくりと息を吐く。
今夜、私はこの家で眠る。
その事実が、胸の奥で静かに重みを持っていた。
明日になれば、また学校が始まる。
ルーメンは登校する。
エレナも登校する。
私は教師として教壇に立つ。
何も特別なことのない、普段の生活だ。
けれど、私の中では確かに何かが変わってしまった。
石化病の恐怖で壊れた私を、ハーモニック・リコンストラクションで繋ぎ止め、ハーモニック・ジェネシスで未来ごと創り直したのは、ルーメンだ。命だけではない。私の在り方そのものを、あの子は救ってしまった。
私は、もう逃げない。
逃げないと決めたから、ここに戻ってきた。
逃げないと決めたから、両親に頭を下げた。
逃げないと決めたから、今夜、この家で眠る。
そして……
私は、恋をしている。
そう認めるのは、怖い。
でも、否定する方が、もっと怖かった。
私は右手を胸に当て、そっと握る。温かい。鼓動が、確かに伝わってくる。
生きている。
その事実が、何よりも尊い。
目を閉じると、眠りの前の暗闇がやさしく降りてきた。
最後に、心の中で小さく名前を呼ぶ。
ルーメン。
あなたのために生きる。
あなたが幸せになる道を、私は一緒に歩きたい。
あなたが望むなら、私はあなたの傍にいる。
……そして、もし、いつか。
あなたが、私を選んでくれる日が来たなら。
その時は、私はきっと。
命を救われたとき以上に、喜ぶ。
その未来を胸の奥で抱きしめながら、私は静かに眠りへ落ちていった。




