リリィ編 第五十九章 リリィの快気祝い⓻ 安堵と日常
食卓が片づけられ、家の中が夜の静けさに包まれていく。
父さんと母さんは後片付けを終え、エレナも先に部屋へ戻った。廊下を歩く足音が遠ざかるにつれて、家全体が、ゆっくりと眠りへ向かっていくのが分かる。
俺は、居間の片隅で、湯気の立つ飲み物を手にしていた。
火を落とした暖炉の余熱が、まだ微かに残っている。
「……ルーメン」
背後から、静かな声がかかった。
振り返ると、リリィ先生がそこに立っていた。昼間よりも少しだけ力を抜いた表情で、両手を胸の前に重ねている。
「少し……話してもいいですか?」
「はい」
短く答えると、リリィ先生はほっとしたように息を吐いた。
二人で向かい合うのは、今日の出来事のあとでは、初めてだった。
「今日は……本当に、ありがとうございました」
改めてそう言われ、俺は少し照れくさくなる。
「いえ……こちらこそです」
リリィ先生は、窓の外に目を向けた。
夜の闇に、屋敷の庭がぼんやりと浮かんでいる。
「ご両親が、とても理解のある方で……安心しました」
その声には、心底からの安堵が滲んでいた。
「正直に言うと……反対される可能性も、覚悟していました」
「そうなんですか?」
「はい。……息子さんの人生に関わる話ですから」
リリィ先生は、小さく笑う。
「それでも、あそこまで真剣に話を聞いてくださって……本当に、ありがたかったです」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「父さんも母さんも……ちゃんと話せば、分かってくれます」
「そうですね」
リリィ先生は、少しだけ視線を伏せた。
「……私も」
その一言が、微かに震えた。
「自分の願いを、ああして受け入れてもらえたのは……久しぶりでした」
その言葉に、胸の奥が静かに締めつけられる。
「研究のことも、仕事のことも……これまでは、結果を出すことが前提でしたから」
認められるか、拒まれるか。
その二択しかなかった世界。
「今日は……」
リリィ先生は、ゆっくりとこちらを見る。
「“信じてもらえた”気がします」
その言葉は、とても静かだった。
けれど、今日一日で一番、重い言葉だったかもしれない。
「……ありがとうございます、ルーメン」
突然、名を呼ばれる。
「あなたが、あの場で自分の言葉で話してくれたから……私は、前に進めました」
教師としてでも、師としてでもない。
一人の大人としての言葉だった。
「イーストレイクで……」
夜の闇に向かって、リリィ先生は言う。
「一緒に、頑張りましょうね」
その言い方は、命令でも約束でもない。
未来を共有する者同士の、自然な合意だった。
「はい」
俺は、迷わず答えた。
「……楽しみにしています」
リリィ先生は、ようやく、心からの笑顔を見せた。
夜は静かに更けていく。
けれど、その静けさは、もう孤独ではない。
二人の間に流れているのは、
安心と信頼に満ちた、穏やかな夜の時間だった。
朝の光が、ゆっくりと屋敷の窓を満たしていく。
鳥の声と、遠くで聞こえる家畜の気配が重なり、眠っていた家が少しずつ目を覚ましていくのが分かった。
階下へ降りると、すでに食堂には温かな匂いが漂っていた。
母さんが、いつもの手際で朝食の準備をしている。
テーブルには、焼きたてのパンと、湯気の立つスープ、素朴だが滋味深い料理が並び始めていた。
「おはよう、ルーメン」
「おはよう、母さん」
自然に交わされる挨拶。
それだけで、昨夜の出来事が夢ではなかったことを実感する。
やがて父さんと、エレナも姿を見せる。
エレナはまだ少し眠たそうだが、それでも昨日より表情が明るい。
「おはよう、お兄ちゃん」
「おはよう、エレナ」
そして、少し遅れて、リリィ先生が、階段を降りてきた。
「おはようございます」
その声は、昨夜よりも穏やかで、よく眠れたことが伝わってくる。
「よく眠れましたか?」
母さんがそう尋ねると、リリィ先生は小さく頷いた。
「はい……とても」
その言葉には、飾りがなかった。
五人が揃い、朝の食卓が整う。
昨夜は特別な夜だったが、今朝はどこまでも“いつもの朝”に近い。
「……こうして朝を迎えられるのは、いいですね」
リリィ先生が、スープに口をつけながら、ぽつりと呟いた。
「研究室では、時間を気にして食事を取ることが多かったので……」
「朝は大事よ」
母さんが笑いながら言う。
「一日の始まりですから」
父さんも、パンを割りながら頷いた。
「ちゃんと食べないと、頭も体も動かん」
そんな会話を交わしながら、食事は進んでいく。
話題は、学校のこと、仕事のこと、今日の予定。
特別な話はない。
けれど、それが良かった。
昨夜、人生の大きな約束が交わされたあとだからこそ、
この“何でもない朝”が、何よりも尊く感じられる。
リリィ先生は、家族のやり取りを眺めながら、静かに微笑んでいた。
その表情には、昨夜までの緊張はなく、どこか安心した色がある。
「……本当に」
小さく息を吐くように言う。
「いい朝ですね」
その言葉に、誰も否定しなかった。
朝食が終わるころ、父さんが立ち上がる。
「そろそろ、学校へ行く準備をするか」
「はい」
リリィ先生も、背筋を正した。
「では、私も。」
この家で迎えた朝は、一区切りだ。
それぞれが、それぞれの場所へ戻っていく。
朝食を終えると、それぞれが自然と動き出した。
特別な指示があったわけではない。けれど、長く続いてきた生活の流れが、全員の体に染みついている。
父さんは外套を手に取り、馬の支度を整え始める。
「リリィ先生、学校まで送りますよ」
「ありがとうございます」
そのやり取りも、もう昨日までのよそよそしさはなかった。
一晩この家で過ごしただけで、距離は確実に縮まっている。
玄関先で、父さんとリリィ先生が並ぶ。
馬の鼻息が白く、朝の冷たい空気が肺に心地よかった。
「では、行ってきます」
リリィ先生は、そう言ってこちらを振り返る。
「行ってらっしゃい」
母さんが、いつも通りの声で送り出す。
父さんが馬に乗り、リリィ先生もその後ろに続く。
二人は並んで、静かに門を出ていった。
「じゃあ、俺たちも行こうか」
エレナが、鞄を抱えて立ち上がる。
「うん」
俺も頷き、玄関を出た。
久しぶりに、エレナと並んで歩く通学路。
石畳の感触も、道端の草花も、すべてが懐かしい。
「……お兄ちゃん」
歩きながら、エレナがぽつりと声をかける。
「なに?」
「学校、残り一年もないんだね」
「ああ」
そう答えると、少しだけ胸が締めつけられた。
「すぐ終わっちゃいそう」
「そうだな」
短い会話。
けれど、その中に、これまでとこれからが重なっている。
校舎が見えてくる。
聞き慣れた声、鐘の音、いつもの朝。
「行ってきます」
「行ってきます」
二人で、ほぼ同時にそう言った。
校門をくぐる瞬間、俺は一度だけ振り返る。
屋敷の方角は見えない。けれど、確かにそこに“帰る場所”がある。
同じ学校生活。同じ授業、同じ友人、同じ日常。
だが、中身は、もう同じではない。
未来は、静かに決まった。
それを誇示する必要も、急ぐ必要もない。
今日も、明日も、普段の生活を重ねていく。
その先に、イーストレイクがあり、研究室があり、魔術の道が続いている。




