リリィ編 第五十九章 リリィの快気祝い⑥ 更なる提案
握手が終わり、席に戻ると、食卓の空気はひとまず落ち着いたものになった。
大きな決断が一つ、確かに交わされたあとの静けさだ。
だが、リリィ先生は、すぐに話題を切り上げなかった。
むしろ、ここからが本当の“詰め”だと言わんばかりに、背筋を伸ばす。
「……もう一つ、提案があります」
その一言で、全員の視線が集まる。
「これは、今すぐ決めていただく必要はありません」
まず、逃げ道を用意する。
だが同時に、話の重要性も伝える言い方だった。
「イーストレイクの学院に在学している間のことです」
父さんが、静かに頷く。
「通常であれば、寮に入るのが一般的でしょう」
その“通常”という言葉に、現実味が宿る。
「ですが、もし可能であれば……」
リリィ先生は、一度だけ俺の方を見てから、再び両親へ視線を戻した。
「学院生の間も、私の研究室で預からせていただきたいと考えています」
はっきりとした提案だった。
それは、卒業後の話よりも、ずっと現実的で、生活に踏み込む内容だ。
「研究室から学院へ通う形になります」
続けて説明する。
「魔術の研究は、授業だけではどうしても限界があります。日常の中で魔力の流れを観測し、試行錯誤を積み重ねることが重要です」
母さんは、少し驚いた表情を見せる。
「寮に入らず……研究室で?」
「はい」
リリィ先生は、すぐに頷いた。
「もちろん、無償で働かせるようなことはしません。報酬は支払いますし、生活面も責任を持って整えます」
その言葉には、曖昧さがない。
「さらに」
少し間を置いてから、続けた。
「学院には、特別生としての推薦状を書かせていただきます」
その一言で、場の空気がわずかに変わる。
特別生……
それは、単なる成績優秀者ではない。
将来を見据え、特別に育成される立場を意味する。
「特別生である以上、成績の維持は必須になります」
当然の条件を、はっきりと告げる。
「ですが、その分、研究の自由度も、進路の選択肢も、大きく広がります」
父さんは、腕を組み、真剣に考え込んでいる。
母さんも、視線を落としながら、その話を噛みしめていた。
俺は、胸の奥がざわつくのを感じていた。
寮に入らず、研究室で生活する。
それは、家族と離れる時間が長くなるということでもある。
けれど同時に……
魔術と共に生きる時間が、日常そのものになるということでもあった。
「……すぐに答えを出す話ではありません」
リリィ先生は、あらためてそう言った。
「ご家族で、よく話し合ってください」
その言葉は、誠実だった。
押し付けではない。
未来を広げるための、選択肢の提示だ。
提案は、静かに置かれた。
それは、約束の上に積み重ねられる、もう一段深い未来だった。
リリィ先生の追加提案が食卓に残した余韻は、静かだが確かな重みを持っていた。
誰もすぐには口を開かない。言葉を選ぶ前に、まず意味を噛みしめる必要があったからだ。
母さんが、そっと視線を上げる。
「特別生……というのは」
問いかけるような声音だった。
知らない言葉ではないが、日常からは遠い立場だ。
「はい」
リリィ先生は、落ち着いた声で頷いた。
「成績を一定以上で維持することが条件になりますが、その分、学院としても将来を見据えた支援が受けられます」
そして、少し言葉を選んでから、続けた。
「特別生として卒業した場合……」
その先を、はっきりと言う。
「宮廷魔術師になる資格を得ることになります」
その一言で、場の空気がわずかに変わった。
宮廷魔術師。
それは、この国において、魔術師として到達しうる一つの頂点だ。
名誉、地位、安定……すべてが約束される道。
父さんは、静かに息を吐いた。
「つまり……」
言葉を整理するように続ける。
「リリィ先生の研究室を離れたあとでも、宮廷へ進む道が残る、ということですね」
「はい」
「研究の道に進むか、宮廷に仕えるか。あるいは、別の選択をするか」
リリィ先生は、俺の方を見る。
「選ぶのは、ルーメン君自身です」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
進路を“縛る”話ではない。
むしろ、逃げ道を用意した上で、挑戦を勧めている。
「私は」
リリィ先生は、視線を両親へ戻す。
「ルーメン君に、できるだけ多くの選択肢を残したいと思っています」
その理由は、もう説明する必要がなかった。
命を救われたから、というだけではない。
才能を見た者としての、責任だ。
父さんは、しばらく黙って考え込んでいたが、やがて小さく笑った。
「……大した話だな」
その声には、驚きと同時に、呆れにも似た感情が混じっている。
「うちの息子が、そんな道の入口に立っているとは」
母さんも、ゆっくりと頷いた。
「でも……」
少しだけ、視線を俺へ向ける。
「それだけの道が用意されていても、無理をしてほしくはないわ」
「もちろんです」
リリィ先生は、すぐに答えた。
「成績や進路よりも、本人の心身を最優先します」
その言葉に、母さんの表情が少し和らぐ。
俺は、胸の内で考えていた。
宮廷魔術師になるかどうか。
正直、今はまだ実感がない。
けれど……
選べる立場に立てるという事実そのものが、何より大きかった。
「……すごい話ですね」
思わず、そう漏らす。
「はい」
リリィ先生は、微笑んだ。
「ですが、選択肢が多いということは、それだけ責任も増える、ということです」
その言葉は、脅しではない。
未来を歩くための、現実的な忠告だった。
宮廷魔術師への道は、確かに示された。
だが、それは“行け”という命令ではない。
選べる未来として、静かに差し出されただけだ。
宮廷魔術師への道が“選択肢”として示されてから、食卓には再び静かな間が訪れた。
だが、それは迷いの沈黙ではない。ここまで積み重ねてきた話を、家族として最後に噛みしめるための時間だった。
父さんが、ゆっくりと椅子に深く腰を掛け直す。
「ここまで聞いた上で……」
低く、落ち着いた声で切り出した。
「改めて確認しよう」
その視線が、母さん、俺、エレナへと順に向けられる。
「ルーメンの進路についてだ」
母さんは、すでに答えを持っているような顔で頷いた。
「私は、賛成よ」
はっきりとした声だった。
「研究室で学ぶことも、特別生として学院に通うことも……ルーメン自身が納得して選んでいる。それなら、母親として反対する理由はないわ」
そして、柔らかく微笑む。
「無理をしないこと。それだけ、約束して」
「うん」
俺は、すぐに頷いた。
父さんは、そのやり取りを見てから、エレナへ視線を向ける。
「エレナは……どうだ?」
突然話を振られ、エレナは少し驚いたように瞬きをした。
だが、すぐに背筋を伸ばす。
「……正直」
少しだけ視線を落としながら言う。
「お兄ちゃんが遠くに行っちゃうのは、寂しいです」
その言葉は、飾り気がなかった。
家族としての、本音だ。
「でも……」
顔を上げ、俺を見る。
「お兄ちゃんが、やりたいことをやるなら……応援したいです」
小さく、けれど力強く頷いた。
「ちゃんと、帰ってきてくれるなら」
「もちろん」
俺は笑って答えた。
「どこに行っても、家はここだから」
その言葉に、エレナは少し安心したように表情を緩める。
父さんは、家族全員の様子を確認してから、最後にリリィ先生を見る。
「……というわけで」
静かに、しかしはっきりと言った。
「家族としては、全員一致で賛成だ」
その一言で、場の空気が確実に変わった。
迷いは消え、決断が形を持つ。
リリィ先生は、目を見開き、それから深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
声には、安堵と責任が同時に滲んでいる。
「この信頼に、必ず応えます」
そう言って、父さんと、母さんの方へとそれぞれ歩み寄る。
「改めて……」
リリィ先生は、両手を差し出した。
「どうか、ルーメン君を、私に預けてください」
父さんは立ち上がり、その手をしっかりと握る。
「頼みます」
短い言葉だが、重い。
母さんも続けて、同じように握手を交わす。
「よろしくお願いします」
「はい」
リリィ先生は、真剣な表情で頷いた。
最後に、視線が俺へ向けられる。
「ルーメン君」
その呼びかけは、これまでと同じ“先生”のものだったが、どこか違う響きを持っていた。
「これからは、本当に……同じ道を歩むことになりますね」
俺は、胸の奥で何かが静かに定まるのを感じながら、答えた。
「はい」
家族全員の同意。
それは、単なる了承ではない。
信頼と覚悟を伴った、未来への合意だった。
家族全員の同意が揃い、握手が交わされたあと、食卓には静かな安堵が広がっていた。
張り詰めていた緊張が、ゆっくりとほどけていく。だが、それは単なる気の緩みではない。決断を終えた者だけが得られる静けさだった。
俺は、改めて実感していた。
今夜、この家で交わされた言葉は、どれも軽いものではない。
それでも……不安よりも先に、胸の奥に確かな温度が残っている。
「……未来が、決まったな」
父さんが、ぽつりとそう言った。
独り言のようでいて、家族全員に向けられた言葉だった。
「決まった、というより……」
母さんが、少しだけ笑って続ける。
「進む道が、はっきり見えた、かしら」
その表現は、しっくりきた。
一本道ではない。けれど、少なくとも、今立っている場所と、その先が繋がった。
俺は、自分の手元を見つめる。
さっきまで、ただの食卓だった場所が、いつの間にか人生の節目を刻む場になっていた。
……約束された未来。
そう言葉にすると、大げさに聞こえるかもしれない。
だが、少なくとも今夜は、そう呼んでいいと思えた。
リリィ先生は、席に座ったまま、静かに息を整えていた。
その横顔には、研究者としての鋭さでも、教師としての威厳でもない、一人の大人としての安堵が滲んでいる。
「……本当に、ありがとうございます」
改めてそう言い、深く頭を下げる。
「このご恩は、決して忘れません」
父さんは、軽く手を振った。
「堅苦しいのは、ここまででいい」
その声には、もう重さはなかった。
「今夜は、回帰祝いだ。先の話は、また追々でいい」
その一言で、場に柔らかな空気が戻る。
エレナは、俺の袖を小さく引いた。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「……すごいね」
その言葉には、尊敬と、少しの寂しさが混じっていた。
「すごくはないよ」
俺は、正直に答える。
「ただ……運が良かっただけだ」
だが、内心では分かっている。
運だけでは、ここまで来られなかったことも。
リリィ先生は、そのやり取りを見て、静かに微笑んだ。
「ルーメン君」
そう呼ばれると、自然と背筋が伸びる。
「これからは、長い道になります」
その声は、穏やかだ。
「楽なことばかりではありません。研究は、孤独な時間も多い」
それでも、と続ける。
「私は、あなたと共に歩める未来を……心から、嬉しく思っています」
その言葉に、胸の奥が、じんわりと温かくなる。
俺は、はっきりと頷いた。
「はい。僕もです」
未来は、まだ始まったばかりだ。
だが、方向だけは、もう迷わない。
この夜……俺の人生は、確かに一つの約束を得た。




