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リリィ編 第五十九章 リリィの快気祝い⑤ 将来の提案

リリィ先生は、評価を語り終えると、すぐには次の言葉を継がなかった。

まるで、その先に進むこと自体が、どれほど重い意味を持つかを、改めて噛みしめているかのようだった。


一度、深く息を吸い、そして、静かに、しかしはっきりと椅子から立ち上がる。

その動作だけで、場の空気が一段、張り詰めた。


「……そこで」

そう切り出した声は、先ほどまでとは違う。

感謝でも、評価でもない。願いを差し出す者の声だった。


「ランダル先生、リオラさん」

リリィ先生は、二人の正面に立つ。

「私は、お願いがあります」

その言葉と同時に、ゆっくりと腰を折った。

深く、迷いのない一礼。教師としてでも、学者としてでもなく、一人の大人として、頭を下げている。


「イーストレイクの学院を卒業後……ぜひ、私の研究室で、ルーメン君を雇わせてください」

一瞬、時間が止まったように感じた。

雇う、という言葉の持つ現実的な響きが、はっきりと空間に残る。


「見習いではありません。助手でもありません」

リリィ先生は、顔を上げ、真っ直ぐに続ける。

「研究員として、正式に迎えたいのです」

それは、未来の話でありながら、極めて具体的だった。


「待遇については、私の権限の及ぶ限り、最大限のものを用意します」

金銭だけではないことは、すぐに分かる。

環境、時間、裁量……すべてを含めた“条件”だ。


「必ず、大魔術師に育てます」

その言葉に、誇張はなかった。

約束というより、責任の宣言だった。


「私は、彼の才能を偶然に任せるつもりはありません」

視線が、再び俺へ向けられる。

「命を救ってもらったから、ではありません」

そう断ったうえで、続ける。


「魔術師として、彼の未来を見たからです」

そして、再び両親へ。

「どうか……ご両親として、このお願いを聞いていただけないでしょうか」

深々と、もう一度頭を下げる。


家の中が、完全に静まり返った。

誰も、すぐに言葉を返さない。

それは、失礼だからではない。

即答していい話ではないと、全員が理解していたからだ。


父さんと母さんは、互いに視線を交わす。

言葉は交わさないが、その間に、長年連れ添った夫婦ならではの対話があった。

俺は、息を詰めるように、その様子を見守っていた。

胸の奥で、期待と緊張が絡み合っている。


この申し出は、ただの進路相談ではない。

俺の人生の方向を、大きく変える可能性を持つものだ。

そして同時に、リリィ先生が、どれほど真剣に俺の未来を考えているかの、何よりの証明でもあった。

願いは、差し出された。

あとは、それを受け取るかどうか。


リリィ先生の願いが、深く頭を下げる所作とともに差し出されたまま、家の中には静寂が満ちた。

祝宴の名残は、今や完全に影を潜めている。残っているのは、選択の重さだけだった。


父さんは、すぐには口を開かなかった。

視線を落とし、組んだ手の上で、親指をゆっくりと動かす。考えるときの癖だ。母さんもまた、同じように言葉を待っている。


やがて父さんは、短く息を吐いた。

「……大変、光栄な申し出です」

まずは、はっきりとそう言った。

否定ではない。感謝でもある。だが、即答でもない。


「息子の才能を、そこまで高く評価していただけるとは……親として、これ以上ない話だと思っています」

母さんも、小さく頷く。

「ルーメンのことを、真剣に考えてくださっているのは、よく伝わってきました」

その言葉に、リリィ先生は頭を下げたまま、静かに耳を傾けている。


「ただ……」

父さんは続ける。

「これは、今この場で決めてしまっていい話ではない」

声は落ち着いているが、揺るぎがない。

それは、拒絶ではなく、責任の所在を明確にするための判断だった。


「ルーメンは、まだ若い」

俺の方へ、ちらりと視線が向けられる。

「これから学ぶことも、経験することも多い。進路を定めるにしても、本人の意思を、きちんと聞いた上でなければならない」


母さんが、穏やかに言葉を継ぐ。

「それに、家族としても……しっかり話し合う時間が必要です」

その言葉は、家族を外に出さないためのものではない。

むしろ、家族として、逃げずに向き合うための保留だった。


リリィ先生は、ゆっくりと顔を上げた。

その表情には、失望も焦りもない。

「……当然です」

はっきりとした声だった。

「私のお願いは、ルーメン君の人生に関わるものです。軽々しく決めていただこうとは、思っていません」

そう言って、改めて姿勢を正す。


「今日のところは、提案として受け止めていただければ、それで十分です」

父さんは、その態度を見て、わずかに目を細めた。

「ありがとうございます」

その一言に、場の緊張が、ほんの少しだけ緩む。


だが、完全には解けない。

なぜなら、次に確認すべきことが、まだ残っているからだ。

それは、両親の判断ではない。

当事者である、俺自身の意思だった。

父さんは、ゆっくりとこちらを向いた。

視線が重なる。

「ルーメン」

名を呼ばれただけで、背筋が自然と伸びる。

「お前は、どう思っている?」

その問いは、逃げ場のない、真正面からの確認だった。


父さんに名を呼ばれ、俺は小さく息を吸った。

食卓に集まる視線が、一斉にこちらへ向く。母さん、エレナ、そして……リリィ先生。


逃げ場はない。

けれど、不思議と恐怖はなかった。

この問いは、いつか必ず向き合うものだったのだから。

「……はい」

俺は、ゆっくりと口を開いた。


「父さんと母さんの許可が、前提です」

まず、その一言をはっきりと置く。

自分勝手に決めるつもりはない、という意思表示だった。


「でも……」

そこで言葉を区切り、胸の内を探る。

「僕は、リリィ先生の研究室に行きたいと思っています」

言い切った瞬間、胸の奥が、すっと軽くなった。


「魔術を、もっと深く知りたいです」

それは、子供じみた憧れではない。

これまで積み重ねてきた経験の、自然な延長だった。


「自分が使える魔術が、どういう理屈で成り立っているのか。どうすれば、もっと多くの人を救えるのか……」

言葉は、次々と浮かんでくる。

「それを、ちゃんと理解したい」


父さんと母さんを、真っ直ぐに見る。

「今は、まだ分からないことばかりです。でも、分からないままにしたくありません」

リリィ先生が、静かにこちらを見つめている。

その視線に、プレッシャーはない。ただ、見守る温度だけがあった。


「だから……」

最後に、もう一度、両親を見る。

「僕は、リリィ先生の提案が、今の自分にとって一番いい選択だと思います」

言い終えたあと、沈黙が落ちる。

けれどそれは、重苦しいものではない。


母さんは、俺を見つめ、ゆっくりと微笑んだ。

父さんも、目を細める。

「……分かった」

父さんは、短くそう言った。

「自分の言葉で、きちんと考えて答えられたな」

その声には、試すような響きはなかった。


親として、息子の成長を確かめた安堵があった。

エレナは、少しだけ不安そうに俺を見ていたが、それでも小さく頷いている。

リリィ先生は、何も言わなかった。

ただ、胸に手を当て、深く息を吐く。

その仕草だけで、彼女がどれほど真剣に、この答えを受け止めているかが伝わってきた。


俺の意思は、ここに示された。

あとは、家族としての決断が下されるだけだ。

未来は、もう遠い話ではない。

この食卓の上で、静かに形を取り始めていた。


俺の言葉が食卓に落ちてから、しばらく誰も口を開かなかった。

それは迷いではなく、重みをきちんと受け止めるための沈黙だった。


母さんが、最初に息を吐いた。

その表情には、驚きも不安もあったが、それ以上に、覚悟を見届けた者の静かな誇りがあった。

「……よく考えて、話してくれたわね」

そう言って、俺に微笑む。


「魔術が好き、というだけじゃなくて。どう生きたいかを、ちゃんと考えているのが分かるわ」

父さんも、腕を組んだまま、ゆっくりと頷いた。

「親としてはな……」

一度言葉を切り、視線を天井へ向ける。

「自分の望む道を選んでほしいと思うのは、正直なところだ」

その言葉に、俺の胸がわずかに締まる。

「そして、ルーメン、お前はもう、自分で進む道を考えられるところまで来ている」

はっきりとした声だった。


「そして、ここにいるリリィ先生は……」

今度は、リリィ先生へ視線が移る。

「息子の才能を、利用しようとしているわけではない」

「責任を持って、育てる覚悟を示してくれている」


リリィ先生は、深く頭を下げる。

「そのつもりです」

短いが、強い言葉。

父さんは、その様子を見て、ゆっくりと息を吐いた。

「……分かった」

その一言で、場の空気が変わる。

「私たちは」

母さんが、父さんの言葉を引き継ぐ。

「ルーメンが、自分で選んだ道を、応援します」


その言葉は、優しく、しかし確固としていた。

「もちろん、条件はあります」

母さんは続ける。

「家族として、話し合いは続けること。無理をしすぎないこと。何かあったら、必ず相談すること」

俺は、すぐに頷いた。

「はい」

父さんも、念を押すように言う。

「どれだけ偉くなろうが、どれだけ強くなろうが……お前は、俺たちの息子だ。それだけは忘れるな」


その言葉に、胸の奥が熱くなる。

「……ありがとうございます」

自然と、そう口から出ていた。

母さんは、少し照れたように笑う。

「礼を言うのは、まだ早いわよ。これからが本番なんだから」


そのやり取りを、リリィ先生は、じっと見守っていた。

そして、ゆっくりと前に出る。

「ランダル先生、リオラさん」

改めて、深く頭を下げる。

「ありがとうございます。必ず……必ず、ルーメン君を、立派な魔術師に育てます」

その言葉は、約束であり、誓いだった。

家族の決断は、ここに下された。

迷いの末ではない。

理解と信頼の上での、承諾だった。


両親の言葉が場に落ち着くと、食卓に張り詰めていた緊張は、ゆっくりと形を変え始めた。

それは安堵でも、完全な終結でもない。約束が交わされる直前の静けさだった。


リリィ先生は、改めて姿勢を正し、深く息を吸う。

「ランダル先生、リオラさん」

その声は、先ほどまでよりも落ち着いている。

だが、重みは失われていない。

「本当に……ありがとうございます」

そして、今度は形式ではない、しかし礼節を欠かさない一礼をした。


「お二人が、ここまで真剣に考え、話し合い、決断してくださったこと。私は、その信頼に応える責任があります」

言葉を選びながらも、視線は揺れない。

「ルーメン君を、私の研究室に迎えるということは……弟子として、でも、単なる被験者としてでもなく、一人の魔術師として迎えるという意味です」

その言葉に、父さんが小さく頷く。


「彼の判断を尊重し、危険な実験に無理に巻き込むことはしません。必ず、段階を踏み、本人の理解と同意を最優先します」

母さんも、静かに耳を傾けている。

「研究の成果は、彼自身のものです。功績も、責任も、正当に扱います」

それは、雇用条件の説明でありながら、同時に人としての約束だった。


「ですから……研究室所属について、正式にお約束させてください」

そう言って、父さんへと手を差し出した。


一瞬の間。

それから父さんは、ゆっくりと立ち上がり、その手を取る。

二人の握手は、静かだった。

だが、そこに込められた意味は、あまりにも大きい。

「……うちの息子を、よろしくお願いします」

父さんの声は、低く、真剣だった。

「責任を持って、お預かりします」

リリィ先生も、はっきりと答える。

母さんも立ち上がり、同じように手を差し出す。

「どうか……ルーメンを、導いてあげてください」

「はい」

その返事に、迷いはなかった。


俺は、その光景を、言葉もなく見つめていた。

胸の奥で、何かがはっきりと形になる。

……研究室所属。

それは、ただの進路ではない。

生き方を共にする約束だった。


リリィ先生は、最後に俺の方を向く。

「ルーメン君」

その呼び方は、これまでと同じはずなのに、どこか違って聞こえた。

「これからは、研究室の一員です」

そう言って、わずかに微笑む。

「共に、魔術を極めていきましょう」

俺は、強く頷いた。

「はい」

その一言で、すべてが定まった。


この夜、食卓の上で交わされた握手は、

書面以上に重く、確かな契約だった。


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