リリィ編 第六十二章 エアリスのルーメンへの想い
第六十二章 エアリスのルーメンへの想い
その日の夜、エアリスは自分の部屋のベッドに横になり、静かな天井を見つめていた。
灯りはもう落としてある。窓の外から差し込む月明かりだけが、薄い銀色の膜みたいに部屋の輪郭を撫でていて、机の端も、椅子の背も、壁に掛けた小さな布も、みんなぼんやりとした影になって浮かび上がっていた。家の中はもう静かだった。廊下を歩く音も、誰かの話し声も聞こえない。きっとみんな眠っているのだろう。それなのに、自分だけが取り残されたみたいに、エアリスの意識だけが妙に冴えていた。
眠れる気がしなかった。
目を閉じれば、今日の帰り道が何度でも蘇ってくるからだ。
ルーメンの横顔。
いつも通り落ち着いた声。
リリィ先生の名前。
研究室から通う、という言葉。
その一つ一つが、思い出すたびに胸の奥へ落ちてきて、柔らかいはずの場所をきゅっと締めつけていく。
エアリスはそっと息を吐き、指先で胸元を押さえた。
……やっぱり、だめだ。
頭では分かっている。分かってしまうから、なおさら苦しかった。
ルーメンが選んだ道は、間違っていない。むしろ、いかにも彼らしい選択だった。魔術の才能を認められて、特待生として扱われて、さらにリリィ先生の研究室から学院へ通う。魔術を本気で極めたいルーメンにとって、それ以上ないほど恵まれた道だ。将来のことを考えれば、絶対に良い。努力してきた結果でもある。そういうことは全部、エアリスにも分かっている。
でも。だからといって、平気ではいられなかった。
嫌なものは、嫌だった。
胸の奥にじわじわと広がっていくのは、怒りではない。悲しみだけでもない。もっと曖昧で、けれど誤魔化しようのない感情。取られてしまうかもしれない、という焦り。遠くへ行ってしまうかもしれない、という不安。自分の手が届かない場所へ、ルーメンが少しずつ進んでいってしまうような感覚だった。
エアリスは寝返りを打とうとして、途中でやめた。身体を動かしても、心の中のざわめきまでは静まらないと分かっていたからだ。
この感情の名前なら、もうとっくに知っている。
恋だ。
しかも、それは今日突然芽生えたようなものではない。昨日や一昨日に生まれたものでもない。もっとずっと前から、気づかないふりをしながら抱えてきた想いだった。子どもの頃の笑い合う時間の中に、いつの間にか混ざり始めていたもの。毎日の当たり前に紛れて、少しずつ、少しずつ、深くなっていったもの。
エアリスは目を閉じた。
すると、今日のことよりもっと古い景色が、月明かりの向こうからゆっくりと浮かんでくる。
最初は、本当にただの幼馴染だった。
同じ村で育って、同じ道を歩いて、同じ景色を見てきた。朝になれば顔を合わせるのが当たり前で、学校へ行く時も、帰る時も、気づけば隣にいた。転べば笑われて、でもちゃんと手を差し出される。泣けば困ったような顔をしながら慰めてくれる。ルーメンは、いつもほんの少しだけ前を歩いていた。背中が見えるくらいの距離。遠くはないけれど、完全に並んでもいない、あの絶妙な位置。
あの頃は何も考えていなかった。
一緒にいることが特別だなんて思わなかったし、ましてそれが失われるかもしれないなんて想像したこともなかった。ただ当たり前だったのだ。明日も、明後日も、同じように隣にいるのだと疑っていなかった。
けれど、その当たり前は、少しずつ形を変えていった。
ルーメンの魔術の才能がはっきり見え始めた頃からだ。
先生たちがルーメンを見る目が変わった。村の大人たちが期待を込めて名前を呼ぶようになった。時々、少し遠くから眺めるような視線まで混ざるようになった。エアリスは、その変化をちゃんと感じていた。みんながルーメンを“特別な子”として見始めていることを。そして、その特別さが、いつか彼を自分の知らない場所へ連れていってしまうかもしれないことを。
怖かった。
だから、エアリスは自分の中で一つの立場を選んだ。
幼馴染でいること。
それは自然な関係だったし、一番失いにくい場所でもあった。恋を口にしない。踏み込みすぎない。曖昧なまま、でも近い距離に留まる。それは一見ずるい選び方だったのかもしれない。けれど、エアリスにとっては精一杯の守り方でもあった。
告白してしまえば、何かが変わる。
もし振られてしまえば、今みたいには笑えなくなるかもしれない。
今みたいに、当たり前みたいな顔で隣に立てなくなるかもしれない。
その“かもしれない”が、どうしても怖かった。
幼馴染という場所は、恋人ではない代わりに、誰よりも近くにいられる場所でもあった。失敗しても、少しくらい気まずくなっても、完全には切れない関係。何も言わなくても一緒にいられて、沈黙さえ共有できる場所。エアリスはそれを失いたくなかったのだ。
でも、その選び方では、どうしても隠しきれない記憶がある。
自分が消えかけた、あの時のことだ。
感情も、存在も、世界から少しずつ薄れていくような、あの感覚。誰にも気づかれないまま、このまま消えてしまうのかもしれないと思った、あの冷たい絶望。あの時、怖かったのは、消えることそのものではなかった。もちろん、それも怖かった。けれど、本当に耐えられなかったのは、もう二度とルーメンに会えなくなるかもしれないということだった。
あの時、ルーメンは来てくれた。
理屈じゃなかった。損得でもなかった。
ただ必死で、無茶で、でも真っ直ぐに。
助けると決めて、手を伸ばしてくれた。
魔術がどうとか、理論がどうとか、そういう話ではない。エアリスという存在そのものを、消えかけた場所から引き戻してくれたのだ。
あの瞬間、エアリスの中で何かが決定的に変わった。
幼馴染として大事だ、では足りなくなった。
憧れ、でも足りなかった。
一緒にいられたら嬉しい、そんな柔らかい気持ちだけでは説明できなくなった。
この人がいない世界なんて、考えられない。
そう、はっきり分かってしまったのだ。
それが始まりだった。
いや、正確には、ずっと前からあった想いが、その時に“恋”という形ではっきりしたのかもしれない。
エアリスはベッドの上で小さく身体を丸めた。胸の奥が熱いのに、指先だけは少し冷たかった。
自分たちは、まだ子どもだ。
それはちゃんと分かっている。今の気持ちが本物でも、それがどんな未来に繋がるのかなんて、まだ誰にも分からない。今この瞬間の想いが、一年後も二年後も、その先も同じ形で続いているかなんて、言い切れるわけじゃない。そんなこと、エアリスにも分かっている。分かっているからこそ、焦って全部を壊したくなかった。
けれど同時に、何もしなければ何も変わらないことも知っている。
だから学院という場所が、エアリスにとっては不安であると同時に、一つの希望にも見えていた。
イーストレイクの学院。寮生活。新しい人間関係。
これまで会わなかったような相手たち。
魔術の才能を持った子たち。
可愛い子も、綺麗な子も、きっといるだろう。
ルーメンのすごさに気づく人も増えるはずだ。
そう思うと、胸の奥がぎゅっと痛くなる。
でも、学院は同時に、今の自分たちが少しずつ変わっていく場所でもある。子どものままではいられなくなる場所。距離が近づいても、不自然じゃなくなる場所。恋をすることが、幼い遊びじゃなくなっていく場所。
今の村のままでは、幼馴染という形があまりにも強すぎる。
けれど学院なら、変わっていくことに理由ができる。
一緒にいる時間が増えても不自然じゃない。
二人きりになる機会が増えてもおかしくない。
想いを少しずつ見せていくことも、きっとできる。
ずるいのかもしれない。
でも、それが今のエアリスにできる戦い方だった。
選ばれるのを待つのではなく、少しずつ自分から近づいていく。
幼馴染という場所に甘えきるのではなく、その先へ進むための準備をする。
今はまだ告白しないとしても、何もしないわけではない。
そうやって自分の中で言い訳と決意を重ねながら、エアリスはずっと機会を待っていたのだ。
そして、もう一つ、忘れられない記憶がある。
ソアラの殻の中に、ルーメンが閉じ込められた、あの時だ。
あの時の恐怖は、これまでのどんな不安とも違っていた。遠くへ行ってしまうかもしれない、なんて曖昧なものじゃない。今この瞬間に、手の届かないところへ消えてしまうかもしれないという、切り裂かれるような恐怖だった。
守られる側でいる余裕なんて、なかった。
エアリスは迷わなかった。
自分が怖いかどうかなんて、考える暇もなかった。
ルーメンを失う方が、ずっと怖かったからだ。
だから前へ出た。ソアラに向かって魔術を放った。
危険だとか無茶だとか、そういうことは後から考えればいくらでも言えた。でも、その時のエアリスの中にあったのは、ただ一つだけだった。
助けたい。取り戻したい。ルーメンを、失いたくない。
あの時の自分を思い出すと、今でも胸が熱くなる。怖かったのに、足は止まらなかった。震えていたのに、魔術はちゃんと放てた。つまり、それほどまでにルーメンの存在は、自分の中で大きくなっていたのだ。
恋は、ただ想っているだけのものじゃない。
一緒に笑いたいとか、隣にいたいとか、そんな優しい気持ちだけでは終わらない。いざという時に前へ出ること。守りたいもののために、自分の恐怖を越えること。失いたくないと本気で思うこと。そういう覚悟まで含めて、初めて恋なのかもしれない。
エアリスは、ようやくそこまで来ている自分に気づいていた。
だからこそ、怖い相手もいる。
リリィ先生だ。
正直に言って、怖い。すごく怖い。
大人で、美しくて、才能があって、実力もある。
ルーメンが本気で憧れていて、尊敬していて、実際に研究室から学院へ通うことまで決まっている相手。しかも、ルーメンに救われ、ルーメンを救った人でもある。そういう深いところで結ばれている相手に、簡単に勝てるわけがない。
エアリスは昼間の会話を思い出した。
リリィ先生の名前が出た時、自分の心がどう動いたのか。
ルーメンが研究室から通うと聞いた瞬間、どれだけ胸がざわついたのか。
その全部が、自分にとってリリィ先生が“ただの先生”ではないことを証明していた。
でも、それでも。まだ決まっていない。その確信もあった。
今日、ルーメンの目を見た時、エアリスは感じたのだ。ルーメンはまだ、誰か一人を選んではいない。心の中に大切な人たちはいても、“この人だ”と決めているわけではない。だから、今ここで勝手に負ける必要なんてない。
エアリスは布団の中で、ぎゅっと拳を握った。
負けるつもりは、ない。
その思いは、嫉妬だけではなかった。積み重ねてきた時間がある。幼い頃から一緒に過ごした記憶がある。笑った日も、喧嘩した日も、泣いた日も、全部知っている。消えかけた自分を救ってもらったこともあるし、逆に自分がルーメンを助けに行ったこともある。そういう記憶は、簡単には揺らがない。恋の重さは、見た目の華やかさだけで決まるものじゃないのだと、エアリスは信じたかった。
もちろん、不安は消えない。
学院に行けば、リリィ先生もいる。
他にも、ルーメンに惹かれる子が出てくるかもしれない。
実際、ルーメンは優しくて、強くて、放っておけないところがある。近づけば近づくほど、その魅力に気づいてしまうタイプだ。そんな人が、ずっと誰にも選ばれないなんてことは、きっとない。
だから、なおさら。
待っているだけでは、いけない。
エアリスは月明かりの中で、静かに目を閉じた。
今はまだ告白しない。
今はまだ、幼馴染でいる。
でも、それは何もしないという意味ではない。
学院に行ったら。その時が来たら。
自分は、選ばれるのを待つだけの子ではいない。
選びにいく。
自分から隣へ行く。自分の気持ちを、ちゃんと見せにいく。
ルーメンの隣に立つために、必要な勇気を持つ。
その誓いは、声に出されることはなかった。けれど、誰よりも静かな部屋の中で、誰にも聞こえない分だけ、深く胸の奥に刻まれていった。
もし、いつか本当にルーメンが誰かを選ぶ日が来るのなら、その時に自分が何もしていなかったなんて、絶対に嫌だった。幼馴染だったから近くにいられた、だけで終わりたくない。ちゃんと好きになって、ちゃんと想って、ちゃんと届くところまで行きたい。
エアリスは、ようやく小さく息を吐いた。
胸の痛みはまだ消えない。
不安も、焦りも、嫉妬もある。
でも、それら全部が、自分の恋が本物だという証拠のようにも思えた。
月明かりが少しずつ薄れていくような気がした。眠気がやっと、遅れてやってくる。
今はまだ、幼馴染でいい。でも、ずっと幼馴染のままではいない。
その思いを、最後にもう一度だけ心の中で確かめながら、エアリスはゆっくりと瞼を閉じた。
そして、静かな決意を抱いたまま、ようやく眠りに落ちていった。




