リリィ編 第五十六章 イレンティア大聖堂での訓練⑨ 調律の習慣化
それは、いつの間にか習慣と呼べるものになっていた。朝、研究室に入って最初にすること。夜、灯りを落とす前に必ず行うこと。リリィ先生の右手を、俺が確かめることだ。
包帯を解く動作も、もう慣れてしまった。石化がどこまで進んでいるか、色の変化はないか、触れたときの温度はどうか。大神官や神官たちが行う診察とは違う、もっと感覚的で、魔力に近い確認だった。俺は指先で、彼女の魔力の流れを「見る」ように感じ取る。
石化そのものは、完全には消えていない。右手の先端、指の付け根あたりに残る、冷たく硬い感触。それでも、あの日大聖堂に運び込まれたときのような、広がろうとする気配はない。少なくとも、進行は止まっている。
「今日も、大丈夫そうですね」
そう言うと、リリィ先生はほっとしたように微笑む。
「ありがとう。毎日こうして見てもらえるだけで、ずいぶん安心します」
俺は答えず、左手をそっと彼女の右手に重ねた。魔力を流し込む準備だ。
意識を集中し、彼女の魔力と自分の魔力の境界を曖昧にする。力で押さえつけるのではない。乱れた糸を、元の撚りに戻すように、静かに整える。
「……ハーモニック・リコンストラクション」
囁くように詠唱すると、二人の間を、やわらかな魔力が満たす。
以前のような激しい暴走はない。だが、完全な静止でもない。小さな揺らぎが、右手の奥にまだ残っている。それを一つずつ拾い上げ、ほどき、流れに戻していく。
時間はかかる。短時間で劇的な変化が起きることは、もう期待していない。
それでも、この魔術を施したあとは、確実に違う。右手から立ち上っていた、あの嫌な感触……悪意を帯びた魔力のにおいが、薄れるのだ。
「不思議ですね……」
リリィ先生が、目を閉じたまま言った。
「施術してもらっている間、右手だけじゃなくて、心まで静かになる感じがします」
「多分、それが正しい状態なんだと思います」
俺はそう答えた。魔力と感情は、切り離せない。彼女の場合、その結びつきが強すぎただけだ。
施術が終わると、俺はそっと手を離す。包帯を巻き直し、固定具を整える。その一連の動作も、もう言葉はいらない。二人の呼吸は、自然と合っていた。
日課として繰り返されるこの時間は、治療であり、確認であり、同時に約束でもあった。
石化を「治す」ことは、まだできない。
だが、これ以上悪化させないことは、今の俺にできる最大の抵抗だった。
その事実を噛みしめながら、俺は今日も同じように祈る。
この手が、これ以上奪われませんように、と。
大聖堂から研究室へ戻る道すがら、俺はいつも同じことを考えていた。
治らない、という言葉と、悪化しない、という言葉。その二つの間にある、わずかな境界線について。
石化病は、まだそこにある。大神官が施した神位の癒し魔術ですら完全には届かず、俺のハーモニック・リコンストラクションも、進行を抑えるところまでしかできていない。結果だけを見れば、何も終わっていないに等しい。
それでも……確かに違う。
もし、あの日大聖堂に運び込まれていなければ。もし、魔力の暴走を放置したままだったら。
リリィ先生の右腕は、肘を越え、肩へ、そして胸元へと石化が広がっていたはずだ。魔力を失った部位は、生命の循環から切り離され、やがては体そのものを蝕む。
「止まっている、というのは……」
俺は、歩きながら呟いた。
「まだ、戦えているってことなんだ」
完治ではない。勝利でもない。だが、敗北ではない。
神官の一人が、通路の端で重傷者の名簿を抱え、深くため息をついていた。魔物の増加に伴い、治療の列は途切れない。昨日まで歩けていた兵士が、今日は担架で運ばれてくる。上位で治る者、聖位が必要な者、それでも届かない者。
その現実の中で、「悪化させない」という結果が、どれほど重い意味を持つか。
俺は、この大聖堂に来て、ようやく理解し始めていた。
夜、研究室に戻ると、リリィ先生は机に向かって資料を整理していた。右手が使えないため、左手だけで行うその作業は、どうしても時間がかかる。それでも彼女は、焦る様子を見せなかった。
「無理、してませんか?」
俺が声をかけると、彼女は顔を上げて笑った。
「無理、というほどでもありませんよ。こうしていられるだけで、十分です」
その言葉が、胸に刺さる。
“こうしていられるだけで十分”……それは、どこかで終わりを覚悟している人の言葉にも聞こえた。
俺は何も言えず、ただ右手の包帯に視線を落とす。
進行を止める。それは、時間を稼ぐことだ。
そして、時間とは……可能性そのものだ。
治せない現実と、悪化させない努力。その狭間で、俺は立っている。
だが、この境界線を守り続けられるなら、いつか必ず、越える方法に辿り着ける。
そう信じなければ、この毎日は続けられない。
「……明日も、やりましょう」
俺が言うと、リリィ先生は静かに頷いた。
その頷きがある限り、俺は立ち止まらない。
治らない今と、治せる未来の、その間に身を置いたままでも。
夜の大聖堂を出ると、空気は昼間とはまるで違っていた。昼は人の祈りとざわめきが満ちているこの場所も、夜になると静寂が支配する。高い天井に残るのは、蝋燭の残り香と、癒しの光が消えたあとの、かすかな余韻だけだ。
俺とリリィ先生は、並んで石畳を歩いた。昼間よりも歩調は遅い。右手をかばうように歩く彼女の姿を、俺は横目で見ながら、無意識に距離を詰めていた。転ばせないように、ぶつからないように。そんな配慮が、いつの間にか習慣になっている。
「今日は……どうでしたか?」
俺が尋ねると、リリィ先生は少し考えてから答えた。
「そうですね。昨日よりは、確実に楽です。魔力の流れも、変な引っかかりがありません」
それは、確かに前進だった。
だが、その言葉を聞いても、胸の奥に残る重さは消えない。
楽になった、という言葉の裏側にあるのは、「治ってはいない」という事実だ。
石化は止まっている。だが、消えてはいない。
この状態が、いつまで保てるのか……誰にも分からない。
研究室へ戻る途中、教会の外壁に刻まれた祈りの文言が、月明かりに照らされていた。
《神よ、迷える魂に道を示したまえ》
何度も見てきた言葉なのに、その夜はやけに強く、視界に残った。
俺は歩きながら、無意識に指を組んでいた。
祈る、という行為が、ただの儀式ではないと知ったのは、ここへ来てからだ。
祈りは、願いであり、覚悟であり、諦めないという宣言でもある。
「……ルーメン?」
リリィ先生が、不思議そうにこちらを見る。
「大丈夫ですよ。そんな顔しなくても」
俺は慌てて首を振った。
「すみません。考え事をしてました」
……焦っている。
自分でも分かっている。
進行が止まっている今だからこそ、余計に焦る。もし、この均衡が崩れたら。もし、明日、また悪い魔力が噴き出したら。その“もし”が、頭から離れない。
夜の風が、僧衣の裾を揺らした。
冷たいはずなのに、胸の奥は熱を帯びている。
研究室の扉を開ける直前、俺は立ち止まった。
「……明日も、必ず行きます。大聖堂に」
それは確認でもあり、自分への誓いでもあった。
リリィ先生は、少し驚いたように目を瞬かせ、それから微笑んだ。
「ええ。お願いします、ルーメン」
その一言で、胸の中に渦巻いていた焦りが、ほんの少しだけ形を変えた。
焦りは消えない。だが、それは逃げたい気持ちではない。
追いつきたい、辿り着きたい、守りたい……その衝動だ。
夜の大聖堂を背に、俺は研究室の灯りを見つめた。
祈りと焦りが同居するこの夜を、無駄にはしない。
治せない現実に押し潰される前に、俺は必ず、次の扉を開いてみせる。




